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18.インターミッション デイズ

   
         
(20)幻惑の花-5

  

 ハルヴァイトとミナミがミラキ邸別館へ引っ越すと決まった翌日、ミナミは居住区の自宅へ戻りアスカと共に荷物の選別を行った。持ち込んだコンテナを組み立てて必要な…それは主に衣類とハルヴァイトの本と幾つかの「愛用品」だが…物を詰めると、待機している別の使用人が小型の運搬用フローターに積み込んでくれた。

 元よりいつハルヴァイトが越してもいいようにと手入れを怠らずにいた離れには、殆どの日用品が揃っている。食事は基本的に母屋の料理人が世話をしてくれるそうなので、細々したキッチン周りの品は必要ない。

 それでも夕方近くまで荷造りし一旦ミラキ邸に戻ったミナミは、運び込まれた荷物の見張り…この男には荷を解いて整頓するという意識が全くない…をしていたハルヴァイトと、新しく買い足さなければならない物をリストに纏め、それをアスカに渡した。本来ならば自分で買い物に行くべきなのだろうが、今のミナミがデパートへ赴くのは無理だった。

「今まで散々ダラけてたツケが来た」

 ふう、と一息吐いて上品な色合いのソファに腰を落としたミナミが、少し疲れたように呟く。

「動かずに居ると体力は落ちますからね」

 しかもミナミの不眠は相変わらずで、いつもは極力動かずに居て、たまの登城も体調を見てと、おっかなびっくり生活していたくせに、ここで急に引越し作業などして、果たして半日持つかどうかとハルヴァイトなどは内心はらはらしていたくらいだ。

 とはいえ、率先して手伝わないのもハルヴァイトらしいが。

「リハビリに、毎日一時間は庭の散歩でもすっか…」

 ソファにふんぞり返ったハルヴァイトの肩越し、柔らかい飴色の格子に飾られた窓の外を見遣って、ミナミは独り言のように漏らした。離れの狭い前庭だけでは難しいだろうが、緑の回廊を越えて母屋側に抜け散策すれば、一時間などあっという間だろう。

「始めのうちは、食事の度に母屋まで移動するだけでも十分じゃないんですか?」

「まぁな。それこそ今まではリビングでごろごろしてて、アスカに運んで貰ってたつう、申し訳ないくれぇの堕落ぶりだったし」

 少しずつでも職務に復帰するつもりがあるのなら、その辺りから改善しなくてはならないだろう。

 先日は外から眺めただけの離れにミナミが入ったのは、さっき荷と一緒にこちらへ来た時だった。

 入口は母屋側、前庭から見て建物の右側にあり、飴色のドアにいたってシンプルなノッカーが取り付けられていて、呼び鈴はない。

 そのドアを入ってすぐは手狭ながらちゃんとしたエントランスになっており、右手に床から天井まであるシューズボックスが造り付けてあった。それは、全体に明るい印象を受けるアイボリーの壁面に、一本キャメル色で太いラインを刷いたような印象だった。

 元は土足のまま室内に入っていたようだが、ミナミは少しの我侭を言ってエントランスに大き目のラグを持ち込ませ、そこで靴を脱ぎ室内靴に履き変えるようにルールを改めた。青年は大抵自宅に居るとき裸足で過ごすので、外の汚れを着けたままの靴で室内を荒らされたくないらしい。

 余談だが、そのようにしたい、とミナミに昨晩言われてからリインは、夜にも係わらず離れに専門の清掃業者と敷物を扱う商人を呼び付けて、絨毯の徹底的なクリーニングと、エントランスにぴったりのデザインと大きさのラグを支度させた。彼はミラキ家執事頭の威信に掛けて、ミナミの満足行くように、快適に過ごせるようにしなければならないのだ。

 果たして、青年はエントランスに入るなり柔らかな笑みで口元を飾る。リビング同様薄い枯葉色に赤茶のラインで模様を描いた絨毯の一部が綺麗に切り取られ、毛足の短いモスグリーンのラグがぴったりと埋め込まれていた。

 切り替えの縁に揃えられた、底の薄い室内靴。背の低い、三段ばかりの棚が壁際に置かれていて、そこには見覚えのあるハルヴァイトの靴が乱雑に載っていた。

 エントランスを通り抜けてすぐ左手に曲がり、正面のドアを開けるとリビング。リビングの手前、左のドアの先には簡単なキッチン。殆ど来客もなく一人で居る事の多かった魔導師が使っていたからだろう、バスとトイレはリビングを通った向こうにあるベッドルームとしか繋がっていなかったらしいが、それだけは随分前に改善されていて、今はエントランスの先、突き当たりから左に折れたところにドアがあり、寝室から続く廊下に繋がっているという話だった。

 食堂ではないキッチンはそう広くなく、シンクの他には小さ目の作業台とキッチンボードがあるだけで、正直、少し手の込んだものを作ろうとしたらすぐ置き場所に困ってしまいそうだった。まぁ、当分ここがアスカの待機所になるらしく折り畳みのパイプ椅子も壁に立て掛けられているような有様では、暢気に料理など出来るものでもないが。

 リビングは先日窓越しに見たのと寸分違わない。三人掛けのソファがふたつ向かい合わせに置いてあり、その間にはチョコレート色の質素なセンターテーブルが鎮座している。

 室内の、全体に柔らかな印象に唯一そぐわないのは、出入り口のドアか。それは酷く無機質な黒で、表面に濃淡を描くのは幾何学模様のレリーフ。銀色のドアノブは直線的で、全てが冷たい感じだった。

 それから、あの本棚。今は、持ち込んだハルヴァイトの本が幾つか並べられてそれ相応の体裁を保ち始めた、あの。

 エルメス・ハーディーが使っていたらしい型後れのテレビと大仰なオーディオセットは既に運び出されていて、もうない。新しい、壁掛け式の「ノイズキャンセラ内臓モニター」が届くのは、明日の夕方だという話だった。

 旧式のテレビもそうだが、ハルヴァイトは特にオーディオセットを嫌った。スピーカーはそこに在るだけで「他の雑音を増幅」し、煩いのだそうだ。

 ここまで見て、とりあえずリビングで腰を下ろしたミナミとハルヴァイトの前に、アスカが冷たい飲み物を置く。

 レモネードらしいそれに手を伸ばしつつ、ミナミは少し疲れた溜め息を吐いた。

「そいやぁ、俺、引越しって…始めてだな」

 呟いて、ふと、可笑しくなる。

「住居替え? は随分あったけどさ、荷物運ぶような、ちゃんとした「引越し」ってのは、始めて」

 逃げるようにあちこち流れた覚えはあるが、自分の「荷物」を運んで住まいを替える経験は、今までになかった。

「わたしも、似たようなものですよ」

 心なし沈んだ、いつもより少しだけ重い口調で呟くように答えてから、ハルヴァイトが薄く笑う。

 それきり会話もなく、だからといって探る気配があるでもなく、二人はいつもそうであるように口を閉ざしたまま向かい合っていた。そのうち、衣類の荷解きをしなくてはならないと言いつつもミナミがソファの座面に寝転がり、うとうとし始めて、ゆっくりと瞼を落とす。

 ハルヴァイトは…今日は、ハルヴァイトが、か…観ている。

 ソファに横たわり、規則正しい寝息を立て始めた青年を。

 乳白色に散る金色の一本一本までもを。

 悪魔、は。

 数分間凝視し、ミナミの、顔の前に投げ出されていた指先がぴくりと震えたタイミングを狙って、「ミナミ」、と「先に声を掛けた」。

 途端、長い長い瞬きが終わったかのように極自然に、ミナミの瞼が持ち上がる。

「………」

 深海のダークブルーが見つめる先には、平素と変わらぬ恋人の微笑。

「あんたさ」

 座面に横たわったまま、ミナミは疲れた声で言った。

「もしかして、俺に何が起こってんのか、知ってんじゃねぇの?」

「まさか。わたしは、ドクターじゃないですからね」

 即答しやがった嘘くせぇ。

 いっかな崩れない、というか、完全に固定された微笑を無表情に睨み返しつつミナミは、胸の内でだけ盛大に突っ込んだ。だが、しかし、とも思う。

 衣類の荷解きだけは終わらせておきたいと青年は、ソファに座したまま動かないハルヴァイトから目を逸らして、ようやく身を起こした。少し眠ったのが悪かったのか、酷くだるい。

 もしハルヴァイトがなんらかの「予想」を働かせ、その上での対策としてこの引越しを提案したというのならば、結果が今より悪い方向へ傾く心配はないと言ってもいいだろう。昨日の時点では、例の「計画」を至急実行に移すためにはまずミナミの体調が万全に戻る事が必要で、加えて職務にも完全復帰しなければならないから、しばらくは全面的にミラキ家に厄介になり、そこから登城しようという話だったが。

 睡眠障害だとステラたちに診断されて以降、療養に入ったにも係わらず、ミナミの精神状態は悪い方向へと傾いていた。それは先日登城した際、ドレイクとヒューも認めている。しかも、リビングでまでうたた寝を繰り返すようになってからは、ハルヴァイトですら「先に声を掛けてから」でなければ近付けなくなっていた。

 正式に特務室に復帰するという事は、四六時中ハルヴァイトがミナミの傍に着いていられなくなるという事に他ならない。そんな、恋人の接近にさえ神経を尖らせているミナミが果たして、一人で居住区の通りを通勤出来るかと問われたら、十人が十人「無理」と答えるに決まっている。

 そうなると、王城に近い位置、しかも「真上」という三次元的立地条件のミラキ邸は、恰好の場所だった。上級居住区から王城へ直接下るエレベータまでの間をリインかアスカにでも送らせ、特務室からの迎えに引き渡せば、黙っていてもお城に到着と相成る。

 当初、唐突に提案された引越しについて、ミナミは難色を示した。しかし、セイルとの「計画」準備が開始された現在、いつまでもだらけている訳にも行かなかったのも、事実か。

 まさか、ハルヴァイトの目的が「始めからミナミに引越しを承諾させる」方にあり、そのためにセイルとの「計画」…まさか、あんな内容になるとはハルヴァイトも思っていなかったが…を誘導されたとまでは、気付いていなくても。

 ここでもまた一つ微妙なイレギュラーが起こったと思いつつ、ハルヴァイトもミナミに倣ってソファから腰を浮かせる。

「…ハーディー魔導師の手掛かりでもあったらなって、ちょっと期待してたんだけどさ、それ、無理だったな…」

 寝室に続くドアに向き直ると当然のように目に入る、巨大な本棚。

「ところが、そうでもなかったんです。残されていた本の中に、面白いものが混じっていましたよ」

 言いつつハルヴァイトが指差したのは、寝室へ続くドアの真横、丁度目の高さの列に重ねて置かれた七冊の本だった。大きさも厚さもまちまちで、うち二冊はどう見てもノートのようなものだ。

「一冊は童話を集めた本、二冊は歴史書、この黄色いのは本型のダウンロード端末で、残留データなし。この一冊は相当古い魔導書で、確か、資料室で紛失扱いになっていたものだと思います。残りの二冊は、ノートでした」

 上から順番に示すハルヴァイトの指先を目で追いながら、ミナミが頷く。

「ノートに、なんか書いてあった?」

「かなり読みにくい文字でびっしり。まだ詳細に中を調べた訳ではないので、それは、追々暇を見て」

 とにかく今日は引越しの心配をしましょうと当たり前の事を言われて、ミナミは無表情に落胆した。

「あんたにそんな注意される日が来るとは、思ってなかった」

「人間、成長と進歩は黙っていてもある程度するものですから」

「つうか、ある程度かよ」

 ぶつぶつ言いつつ寝室のドアを開け、ミナミはなぜかそのままの姿勢で硬直した。

「………」

 昨日に引き続き、他人の事に構っている場合じゃなかった。

  

   
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