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    2.冷たい恋人    
       
(3)

  

 ドレイクの一件があって、とりあえずミナミがここに居ついて、それでハルヴァイトとミナミの何がどう変わったか、といえば、別に、それ以前と少しも変わっていなかった。

 いや。変わった事があるといえば、あるのだが…。

「……まさに生活能力、つうか、あのひと、ぜってーどっかに「整理整頓」って言葉と意味落っことして来たって…」

 今日は予備警備からの帰宅だったため、ミナミはハルヴァイトを迎えに出なかった。となると当然ハルヴァイトはひとりでこの家の玄関をくぐるのだが、そういう日は大抵、玄関から一度も立ち止まらずに真っ直ぐリビングまでやってきて、本を読んでいるかテレビを見ているミナミに「ただいま」を短く言い置き、こちらは短過ぎる掠め取るようなキスを奪って、そのままバス・ルームへ直行する。

 それだけ聞けば、十二分に普通だ。バスルームにハルヴァイトが消えるのと同時に、ミナミが寝転んでいたソファから降り、彼の通った道筋を逆に玄関まで辿りながら、脱ぎ散らかされた制服を拾って歩かなければ、だが…。

 さすがに、もう言ってもだめなのだと諦めたのか、ミナミは始め程しつこく「散らかすな」とハルヴァイトに言わなくなった。ミナミ自身特別綺麗好きではないが、…いろいろと複雑な事情が絡み合い、時折狂ったように部屋を掃除したがる。片やハルヴァイトと来たら本当にそういう事には無頓着で、放っておいたら一瞬で本とがらくたと服と…、とにかく必要な物を手の届くところに堆く積み上げ、そのまま平然とソファの中で丸二日暮らしてくれるのだ。

「つうかしくじった…。着替え置くの忘れたんじゃねぇ? 俺…」

 ハルヴァイトの制服一式を腕に抱えたまま呟いたミナミは、玄関のまん前でがっくりと肩を落とした。

「…………………」

 肩越しに振り返り、ダークブルーの瞳でバスルームのドアを…睨む。

「……………。……」

 ここのバスルームは、ドアを開けると洗面所。その奥のスライドドアを開けると脱衣所。で、脱衣所の壁に填められたすりガラスのドアを押し開けると浴室になっている。

 なぜかミナミは、その室内構造を頭の中で思い描きながら、世界の終わりみたいな青い顔をしていた。別に普通に着替えを抱えてバスルームに行き、脱衣所にその着替えを置いてさっさと戻ってくればいい。万一脱衣所で鉢合わせしたとしても、ハルヴァイトは絶対にミナミに触れようとしないのだし…。

「違う…、そうじゃない…、判ってるだろ? 俺だって…。だから…」

 いつの間にか。ハルヴァイトは違うのだと信じたいミナミに、ミナミ自身が少し愕いていた。

「あのひとは…、あの男たちとは違う…」

 忘れようとしても脳裏に閃く凄惨な光景。いつも、縛り上げられて床に転がされているのはミナミ自身で、恐怖に見開かれた目の先には、思い出したくない、男たちの姿。

 全裸の。半裸の。時にはネクタイを緩めながら近づいてくる、もっと淫猥にベルトを外しながら…。そんな記憶はどうでもいいはずなのに、なぜか、その恐怖が忘れられない。

 だから…、バスルームから出てきたハルヴァイトに出会ったらきっと、悲鳴を上げて逃げ出してしまう。そんな行動は取るべきで無いし、取りたいとも思わないのに。

 触れられない。それだけでも多分自分はあのひとにとても…もしかしたらとてつもなくストレスを感じさせているのではないかとミナミは思っていた。それなのに、今度は肌を晒すなでは、いくらハルヴァイトでも困ってしまうだろう…。

「……もう…、なんで俺ってこうなんだよ…」

 気にしなければいい。判っている。でも、判っているのと出来るのは、違う。

 深い溜め息を吐き出してからついにミナミは、手にしていたハルヴァイトのマントを頭から被り、リビングの出入り口脇に座り込んでしまった。きちんと折りたたんだ深緑色の上着と白手袋に、鋼色の髪をぞんざいに括っていた鉄紺色の皮紐を包み、床に座り込んで抱えた膝と胴体の間に全部を挟んで、緋色のマントの中で小さく身を縮める。

 もしかして…、もしかしなくても、甘え過ぎかもしれない、と思う。

「? ミナミ。どうかしましたか?」

 かちゃ。と微かな音の後、ハルヴァイトがさも不思議そうに問い掛ける声が聞こえて、ミナミがぎくりと全身を震わせた。

「……素っ裸で出てきたら、キッチンに飛び込んでフリーザーの中のモン全部ぶつける」

 その、なんとも微笑ましい脅迫めいた内容と、消沈した風の声音があまりにもアンバランスで可笑しかったのか、思わず、ハルヴァイトは声を殺して笑ってしまった。

「それで風邪を引いてしまったりして、しかもドレイクにバレたりすると、この先一生からかわれて過ごすハメになりかねないので、出来れば遠慮したいのですが」

「アンタの努力次第だろ…」

 廊下に蹲った、緋色のマント。

 それを穏やかな笑みで見下ろしたままハルヴァイトは、差し伸べかけた手を引っ込めた。

 廊下に蹲った、微かに震える、緋色のマント…。

「では、急いで部屋に戻って何か着てくればいいですか?」

 いつのもようにそらっとぼけて言いつつ、ハルヴァイトはミナミの返答を待たずに二階の自室に爪先を向ける。

 とんとんと階段を軽快に駆けあがって行く足音が遠ざかると、ミナミは被っていたマントを引っ張って顔を出し、でもなんとなく、全身を包んだ派手なそれにしがみついて、背後の壁にこつんと後頭部をぶつけた。

「…………なんだかなぁ…」

 呟きと一緒に、溜め息が漏れた。

 まるで物のように…実際彼はそのとき「商品」であったのだが…、顔と白磁のような素肌に傷をつけないよう大切に扱われ、でも、ひとたび「客」が現れれば、何日も何日も何日も…それこそ意識がなくなるまで徹底的にいたぶり尽くされ、肉体関係などというありきたりの美しい(?)言葉で表現できるような行為ではなく、つまり、人の抱えた嗜虐心をどこにも漏らさず最後の一滴までその…、華奢な身体の内側に吐き出され続けたのがどのくらいの期間だったのか、ミナミは知らない。

 時間の感覚さえ麻痺していた。

 ずっと、気怠い真昼だと思っていた。

 ようやく世の中には昼と夜とがあって、どこで何をしていても日常はつつがなく進むのだと判っても、消えない記憶。

 きっと…。

 とミナミは、階段を降りてくるハルヴァイトの爪先を見つめたまま、いつもの無表情を作り直した。

 全部判っているに違いない。と思う。

 機械装置のような鋼色の髪と、鉛色の目をした…電脳魔道師は。

「マント……、好きなんですか? 実は」

 ミナミが自分のマントにくるまっているのが珍しかったのか、ハルヴァイトはリビングへ行かず、階段の一番下の段に腰を下ろして彼の顔をじっと見つめていた。それを、ミナミも無言で見上げているので、結局、二人は黙って見つめ合う…というか、睨み合う、というか、非常に微妙な空気を纏ったまま、ぴくりとも動けなくなってしまう。

 そして、この三ヶ月がそうであり、これからミナミがここに居る間もずっと変わりないのだろうと思われるような、ゆっくりした沈黙が降る。

 ハルヴァイトは、次にミナミが何か言い出すまで、絶対に自分から口を開こうとしないのだ。

…………ただ、待ち続けるだけ。

 ただ……もしかしたら永遠に。

 ミナミはそれを迷い、

 ハルヴァイトは…………。

「! って…、お客さん?」

 ミナミがやや薄い唇を微かに動かそうとした刹那、いきなりドアホンがけたたましい呼び出し音を吐き、ぎょっとしたミナミが無意識にハルヴァイトのマントを抱き締めて身を縮める。

 それに「珍しい事もあるものですね」と当たり障り無く答えて階段から立ち上がったハルヴァイトが、内心「…………やろぅ…」と物騒な唸りを発しているとは知らず、件の訪問者は遠慮会釈無く玄関を開け放って、ひょいっと顔を覗かせたではないか。

「よう。…? て、お前らなんでこんなトコにいんだ? まさか、お迎えかな?」

「…………用事が無いなら今すぐ帰って貰えませんか? ドレイク」

 廊下に座り込んだミナミにひらひらと愛想よく手を振るドレイクの視界を遮るように立ちはだかり、立ちはだかったところでドレイクの背中に隠れていたもう一人を見つけて、ハルヴァイトがふーっと深い溜め息を吐いた。

「アリス……」

 かくれんぼで最初に見つかった子供みたいにバツ悪そうな顔をして肩を竦めたアリスが、ふと、廊下の隅にちょこんと座っているミナミに気付く。

 途端、彼女は邪魔なドレイクと更に邪魔なハルヴァイトの腕を掴んで引き倒し、見事玄関に転がして…いや、それがあまりにも素早くキレイに決まってしまったものだから、普段なら絶対にそんな失態を犯すはずの無いハルヴァイトでさえ、背中をドアに預けたままその場に尻餅をつき、唖然とアリスの背中を見上げてしまった…から、勝手につかつかミナミの目前まで突き進んだ。

 青い軍服を着た、真っ赤な髪の美女。顔は笑っているが、背も高く、相当な迫力である…。

 ミナミは思わず、背後の壁に張り付いて緋色のマントを抱き締めた。

「や、だーーーー! ホンっトーーーーーーーーーーーーーーに、キレーなコねぇ。あははははは!」

「…あ、や…えっと…。どうも…。つうか、おねーさんの方が多分、キレーだと思うけど…」

 なぜかげらげら笑い出したアリスに面食らい、引きつった薄笑みで答える、ミナミ。

「だってよ? ねぇ、ハル。君はどう思う?」

 満面の笑顔でうんざり顔のハルヴァイトを振り返り、アリスは、一歩ミナミから遠ざかった。

「社交辞令としてなら、そうですね、ミナミがそう言うのなら。と答えますが、わたしはどうか、と言われれば、あなたよりも、当然、ミナミのほうが…」

「おい、そこ」

「当然」部分に必要以上の力が入っている事を確かめてから、ミナミがいつもの調子でハルヴァイトを呼んだ…。恋人に、この言い方はないと思うのだが…。

「何ですか? ミナミ」

「……後ろ…。ミラキ卿の笑う準備が終わったらしんだけど、アンタ…、そんでもまだ続き言う勇気あんの?」

 言いつつ、さりげなくアリスの正面から身体を逃がして立ち上がったミナミを横目に、アリスは微かに眉を寄せた。しかしその表情は不快を表すものではない。単純に、不思議そうな顔、といっていい範囲だろうか。

「あなたの許可があれば言うつもりですけど?」

「ダメに決まってんだろ」

 にっこりと微笑んで見せたハルヴァイトに即答したミナミは、軍服と、少し名残惜しそうな動作で脱いだマントを階段の片隅に置いてから、改めてアリスに向き直った。

「はじめまして…」

 普通に挨拶の一環として差し出されるはずの手が出てこないことを、アリスは訝しがらない。

「はじめまして、ミナミくん。あたしは、アリス・ナヴィ。この二人の部下だけど、おねーさんよ」

 で、華やかなウインク。それに、ミナミが微かな笑みで答えた。

「よろしく、アリス」

  

   
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