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    2.冷たい恋人    
       
(6)

  

 例えば、ミナミ・アイリーという少々日常生活に難のある青年に何かがあってもなくても、世の中は普通に回るものなのだ。

 だから、彼が恋人であるハルヴァイトに冷たくしようがしまいが、気まずい(とミナミは思わなかったが)休日は気怠げに過ぎ、ハルヴァイトは相変わらず面白くなさそうな顔で登城し、ミナミは部屋の掃除と本とテレビで暇を潰し、四日後の夕暮れ近く、いつものように街の雑踏を器用に擦り抜けて誰ともぶつかる事なく、通用門の見える大通りまでやって来ていた。

 遥か頭上、天蓋の向こうで、鳥が飛ぶ。外界の大気は汚染度がゼロに近くなり、昨今では「着陸」し地上の調査も行われている。とはいえ、一度は死にかけたこの惑星は、その原因を作った人間が根を下ろすのを嫌がるように、長い時間をかけて従順に進化させた生物での抵抗を飽く事なく繰り返し、結果、浮遊都市が橋脚を張り定住出来るのはまだ先の話だろうといわれている。

 歩道に突っ立った街灯の支柱に背中を預けた、今日は白っぽいTシャツにほっそりした黒いニットのジャケット、華奢な線をますます細く見せる革のパンツを履いた、見事な金髪にダークブルーの瞳の綺麗な青年は、道行く人の視線を十分に集めていた。

 ミナミを、誰でもが「綺麗」と称した。確かに、細い顎に削げ過ぎではない頬が作る輪郭に、少し薄めの唇と物憂げだが切れ長の双眸、白い肌。とくれば、端正とか男らしいという印象ではなく、「綺麗」と言われても仕方がないだろう。

 ミナミがそれに不満を持った事は一度も無い。有り難いと思った事もなかったが。

 キレイなコだな。とどこかから囁き。それを耳にして、ミナミは思わず失笑を漏らした。

 不満はなかった。怨んだ事はあった。もう少しドロ臭い顔に生まれていれば、あんな…監禁されて売り物扱いされる事も、なかったかもしれない。

 ただし、なんにせよそれは既に過ぎてしまった過去なのだ。今更…どうこう言うつもりはない。

 ぼんやりとそんな事を考えるミナミの頭上へ、荘厳な鐘の音が降り下りる。ゆっくりと打ち鳴らされている釣り鐘は、通用門の開門を合図する目印。

 だからもうすぐ、そのひとが…、開け放たれた鉄扉を潜って出て来る筈だった。

 のに………………。

 重々しく鉄扉が軋み、深緑色の制服がどっと吐き出される。その中でも十分目立つ濃紺のマントになんとなく視線を向けて、その人物の冠した白髪に見覚えのあるミナミが、一瞬、奇妙な顔をした。

 大抵の軍人は外套など身に付けていない。ファイラン浮遊都市というのは完全に管理された閉鎖空間だったから、天蓋の向こうで雨が降ろうが嵐が起ころうが、ここはいつも快適な…少々肌寒いくらいの気温を保っている。そして、軍の制服は意外に丈夫な綿織りの長上着にスラックス、革製のブーツだから、わざわざ外套を着るのは、つまり、それを階級章の代わりに着用する事を義務付けられている人間に他ならない。

(っつー事は、ミラキ卿って偉いのか…)

 などと冷静な感想を抱きつつ、いつもと変わりない物憂げな瞳で、通りを突っ切ってくるドレイクを見つめる、ミナミ。はためく濃紺のマントと堂々とした姿は、ハルヴァイトの纏った雰囲気と種類は違うが、確かに立派な上級軍人然として見えた。

 兄弟だという、ハルヴァイトとドレイク…。

 ミナミの待ち人はほっそりと背が高く、光沢ある鋼色の髪に透明度ゼロの鉛色の瞳。顔立ちはどちらかというとやや線の細い優男、といった風なのだが、今ミナミに向って歩いてくる父親の違う兄はといえば、浅黒い肌にきらついた白髪と黒っぽい灰色の瞳の、野生味溢れる男前、というところだろうか。

(…………育った環境の違いってぇヤツか)

 と思って、そこまで辿り着いてようやくミナミは、ドレイクが一直線に自分を目指して突き進んでいるらしいと気付いた。

「?」

「ミナミっ!」

 金髪の青年が直進してくる軍人に視線を当てて小首を傾げた途端、ドレイクはかなり切羽詰まった声でミナミの名を呼び、もしかしたら彼に掴み掛からんばかりの勢いを、なんとか、ミナミの寄りかかっていた街灯に向けてその場に到着した。

 ごっ! と握り拳が鉄柱に叩きつけられ、思わず、ミナミが肩を竦める。

「こんにちは、ミラキ卿。俺になんか用?」

「助けろ」

 強ばった表情で、ドレイクが大真面目に言った。

「頼む。このままじゃぁ、ほんとーーーに、怪我人か死人が出兼ねねぇ」

「? さっぱり意味判んねーって…」

 落ち着いて話せよ、とでも言いたげにぱりぱり金髪を掻いたミナミの耳を、低い忍び笑いが撫で過ぎる。それにちょっと驚いて、ミナミとドレイクが同時に横を向いた。

「……? 誰?」

 はためく、緋色のマント。しかし、ハルヴァイト・ガリューではない。

「ローエンス・エスト・ガン第六小隊隊長殿だ、ミナミ。ウチの隊の隣りの、一等お偉いさん」

 軽く敬礼したドレイクがどこかやる気なさげにローエンスを紹介すると、彼は、ドレイクよりやや小さ目の体躯を丁寧に折って胸に手を当てた。

「こんにちは。…つかそれ、女性相手にする騎士の礼ってやつじゃねぇのか…」

「よくご存知だな、ミナミくん。ということは、この礼に対して女性がどういう行動を取るべきかも、ご存知かな?」

 四十代に足を突っ込んだばかりだろう、落ち着いた感じの紳士。品の良いウエーブをかけて撫で付けたブラウンの髪に、緑色の瞳。少々目尻の下がった一重瞼の目が、まるで笑っているような穏やかな表情を作っている。

「左でスカートの裾摘んで、右の手は甲を向けて相手に差し出す」

 ぶっきらぼうに言ったミナミの瞳を覗き込み、ローエンスはにこにこしながら、いざ、と意味不明の声を発してから、いきなりミナミの手を握ろうとした。

「エスト・ガン家の存続を希望してんなら、それ、やめた方がいいぜ、エスト卿」

 ローエンスの手が動いた途端、咄嗟に手を引っ込めたミナミは一歩以上大きく後退し、それと同時に、ふたりの間にドレイクが割って入る。

「ここにいたのが俺だから九死に一生を得たつう感じで、万一これがハルだったら、映え在る第二位の称号を受けて半殺しにされるぞ」

「ということは、第一位がいる訳か? ミラキ」

「……ミラキ卿だろ」

「俺だよ」

 一瞬、薄ら寒い風が三人の足下を撫で過ぎた…。

「つうか! そんな面白ぇ話してる暇じゃねぇんだって、ミナミ!」

「面白いのか?」

「私は大いに面白いと思うがね」

「…………ほんとに、こんな王都警備軍に市民の安全を任せていいのかよ…」

 ミナミが呆れたように溜め息を吐くと、ドレイクも一緒に溜め息を吐く。

「だからお前さんに助けてくれつってんだ…」

「順を追って説明しないか、ミラキ…。その位の時間は、ナヴィがどうにかしてくれるのだろう? ではまず、被害状況を報告」

 急にぴりっとした声で命令されて、ドレイクも思わず姿勢を正した。

「この四日間で電脳魔導師隊第七、第六、及び第三小隊において使用不能となった携帯通信機は、合計二十四機であります」

「ちなみにそれは、こういうものなのだか…」

 ローエンスは言いながらごそごそ懐を探って、何か黒っぽいシガレットケース状の箱を取り出した。表面の片隅に小さく王都警備軍の印章が入っているだけの、いたってシンプルなものだ。

「微弱電波を発している無線通信機だ。これが、四日間で二十四機もダメになった。普通は、一年で、全隊員が落したり壊したりするのを数えても、二十機そこそこしか交換されないものが、だ」

 で、ローエンスがにっこりと微笑む。

「そろそろ、判って貰えたかな?」

「…判らなくていいけど…」

 電波といえば、近しい人にひとりいるではないか…。機嫌の善し悪しで、やたら放電する男が。

「四日前はよ、まだそれでもマシだったんだ。まぁ、多少の不機嫌は俺にも原因あるしなぁ、ミナミが…あいつにあんな事言い出したとき側にもいたわけだし、アリスも当然事情を知ってたんだから、部下に「ちょっと我慢してくれ」つって、それで済むはずだったんだよな…」

「…それが、なんでこんな事にまでなってんだよ…」

 しかも、とミナミは、相変わらずにこにこしているローエンスをじっと見つめた。

(隣りの小隊の小隊長まで出てくるなんて、穏やかじゃねぇ)

 まさかまた、何かしでかしたんだろうか…。と…………。

「グラン・ガン大隊長のバカが、ガリューを呼んで例の手紙の返答を迫った」

「…エスト卿…、いくら親戚だからって、大隊長をバカ呼ばわりはちょっとマズかねぇか? 一応、あのヒトん家が本家だろ…」

「本家も分家もあるものか、ミラキ。地位が高かろうと、バカはバカだ」

「笑ったまんまで痛烈な事言うひとだな…」

 ミナミの感想を笑顔で切り返したローエンス・エスト・ガンは、さっさと先に進めとドレイクに手を軽く振って見せた。

「それが…ハルが大隊長に呼ばれたってのが一昨日の昼過ぎで、それまで第七小隊の執務室の扉にゃぁ「危険・近寄るな」ってアリスが張り紙してたんだがよ、昨日の夕方にゃその張り紙が「警告・立入禁止区域」になってて、今日の昼にゃ…」

「手前にある第六小隊の執務室前に、「この先進入禁止」のパイロンが立てられてしまってね。ついでに、真横のウチと、真上の第三小隊に避難勧告が出た」

「………………………………。微笑ましいばかだな…あのひとも」

 俯いて肩を震わせながら、珍しく、ミナミがくつくつと笑っている。何がそんなに可笑しかったのか、彼はそれから暫し、街灯の鉄柱に掴まったまま笑い続けていた。

「だから頼む、ミナミ! 次の登城日までになんとかしてあいつの機嫌を取っといてくれ!」

「私からも是非お願いしたい、ミナミくん」

「…俺関係ねぇし…」

 本気で頭を下げそうな二人の軍人を見上げていたミナミの視線が、一瞬だけ横に滑る。既に、さっきあれほど笑っていた片鱗さえ見せない無表情に、ドレイクが、ローエンスの腕を掴んでミナミの正面から退けた。

「…だって俺さ、あのひとが、そのなんとかって女性に逢いたくねぇって言ってんの、聞いた事ねぇんだよな」

 微かに、ぼそりと呟き。

 それに顔を見合わせたドレイクとローエンスが何かをミナミに問いただそうと口を開いた、まさにその時、周囲を遠巻きしにしていた下っ端軍人どもが蜘蛛の子を散らすように逃げ去り、代わりに、堅い靴音が一直線にミナミに向って来るのが聞こえた。

 緋色のマント。ローエンスも同じものを纏っているはずなのに、なぜかそのひとは数倍華やかで、硬質に見える。

 そのマントが、車道から歩道に上がる直前で停まった。いつもなら速度を緩めはするが停まらず、ミナミからくちずけを掠め取って歩き出すはずの恋人同士が、今日だけは、その姿を見つめるギャラリーに晒した。

 やる気なく鉄柱に寄りかかったままのミナミに、ハルヴァイトはまったく触らない。手を握る訳でも、肩を抱く訳でもなく、しかし、器用にも唇だけを触れ合わせて、本当に短いキスを交わす。

「………何か?」

 唇を離し、至近距離で瞼をあげたハルヴァイトが、かなり不愉快そうな沈んだ声でミナミに問い掛けた。

「別に。………………なんでもねぇ…」

 素っ気無く言ったミナミが、一歩分ハルヴァイトと距離を取る。

「ところで、ドレイクとエスト小隊長はこちらで何を? ミナミにご用でも?」

 じろ、と鉛色の瞳で見据えられた二人が、思わず背筋を凍らせて後退さった。

「いや! 久しぶりに今日は屋敷戻ろうと思ってよ、時間通りに通用門なんぞくぐってみたらミナミがいたから、軽く挨拶をさ」

「私は、ミラキがなかなかの美人と話してるのを見て、もしやついにミラキ卿も恋人が出来たのかと勘違いしてね。聞けば、君の恋人だというものだから…少しお話を」

(…つか、そんな見え透いた嘘を言うか、このひとたちは…)

 またかなり笑いたい気持ちになったが、ミナミはなんとかそれを押えるのに成功した。

 それから、無言でドレイクとローエンスを見つめているハルヴァイトの横顔と、今にも謝りたそうな顔のドレイクと、引きつった笑顔だけでなんとか自制を保っているローエンスの間で視線を行き来させ、微かに、口の端を持ち上げる。

(変なひとたちだよな、ホント…)

「…では、帰りましょうか、ミナミ」

 踵でかきっと身を翻し、またハルヴァイトが歩き出そうとする。それを追いかけて一歩踏み出し、ミナミは首だけをドレイクに向けて…ウインクした。

「んじゃ、ミラキ卿。明日、十時半過ぎに迎え来てくれよ。寝過ごしたら、二度と付き合ってやんねぇからな」

「………………あ…、あぁ。判った。明日、十時半過ぎに…」

 背を向けたミナミに手を振ったドレイクが、一瞬振り返ったハルヴァイトの視線から逃れるようにローエンスの背中に隠れ、運悪くその…どうしようもなく冷え切った目線に晒されてしまったローエンスが、慌ててハルヴァイトから顔を背ける。

「ドレイクと、なんの約束ですか? ミナミ…」

「アンタにゃ教えねぇ」

 即答やめろよ! とドレイクは突っ込みたかったが、そんな恐ろしい事はできっこない。

「ところでアンタ、あの…なんだっけ? あのなんとかって家の女性さ。いつ逢いに行くんだよ」

 つうか、それを訊くなつったんだろうが! という悲鳴は、胸のうちにしまった…。

「……………明日の夕食を、ご一緒する事に…」

「ふうん。で? 帰ってくんの? 明日の夜」

 平然と訊きまくるミナミの背中に盛大な溜め息を吐きつけ、ドレイクがぴしゃんと自分の額を叩いた。

「……ミラキ…。彼はあれなのか? 本当に、判ってくれてるのか? まさか、次の予備警備勤務の時、今日より状況が悪くなってるなんて事はないだろうな!」

「判んねぇ…。結局ミナミってのがどういうヤツなのか、俺にゃぁいまひとつよく判んねぇんだよな…」

 今にも胸倉に掴み掛かってきそうなローエンスからさり気なく視線を外しつつ、ドレイクはもう一度溜め息を吐こうとした。

「何言ってんの、ドレイクのばーか。ミナミは、どこから見ても礼儀正しくていいコじゃないのよ」

「ハルの足止めに失敗したアリスに、バカ呼ばわりされる筋合いはねぇぞ」

「あははは。君ねぇ、無理に決まってんでしょ、そんなの! あの状態のハルを止めるなんて恐ろしい事出来るのは、つまりミナミだけよ」

「その彼は、大丈夫なのか? ナヴィ」

「それは、大丈夫」

 アリスは不安げな男どもの顔を見上げて、ウインクして見せた。

「ミナミなら、大丈夫」

 だってねぇ。と唯一ミナミがハルヴァイトを名前で呼ばない真相を知っている彼女は、くすくすと笑いながら軽く手を振り、呆気に取られるドレイクとローエンスをその場に取り残して歩き出した。

「あーんなかわいいコ、今時いないわよ。…マーリィの次、だけどね」

  

   
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