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    2.冷たい恋人    
       
(11)

  

 ミラキ邸の庭は広々としていて気分が良かった。

 ただし、いかに貴族階級といえど、ファイランという際限ある閉鎖空間で個人が占有出来るスペースには上限があり、この上級居住区が一般居住区の二百メートル上空にあるという、下層スラムの慢性的な住宅不足に直接関わり合いがないとしても、その上限が引き上げられる事はない。結果、ミラキ邸はつまり、隣接した屋敷よりも建物が小さく低いから、庭が広々している、というそれだけなのだ。

 殆どがファイランで生まれた合成品種の植物だ、とドレイクはミナミに話した。庭園は、あまり家に寄り付かないドレイクの帰りを待ちながら、リインと数人の庭師が暇に明かして手入れをするらしい。

 低木が両脇に並ぶくねった歩道をひとりで歩きながら、確かに見事な整いようだ、と感心しつつ、唯一原生種の蘭が咲いている、と出掛けにリインが少し嬉しそうに教えてくれた場所を目指す。その品種は現在出回っている「ヴィエント」という蘭のオリジナルで、先代が着陸調査隊護衛任務で地上に降りた時、自分で採取し持ち帰ったものだという。

「…………なるほど…。これなら、四阿も建てたくなるよな…」

 庭には、その蘭を見るためにだけおかれた小さな四阿があるとドレイクは笑った。

   

「花の名前なんて知らねぇ、絵に描いたような堅物の軍人だったのによ。なんでなのか、あの蘭だけは花がつくと必ず眺めに行ってたな…」

   

 蘭の花が今見頃だなど、ミナミは知らなかった。品種改良されて出回る花は年中見頃なのだから、自然に咲いたり枯れたりするこの花を見られたのは、やはりミナミが幸運だからなのか。

 背丈はせいぜいミナミの膝まで。指ほどの太さの茎に、艶々した細長い葉。茎は先細り、左右に並んだ花の重みで頭を垂れているように見えた。

 肉厚な乳白色の花びらを、薄い青が縁取っている。花弁は五枚。その中央に楕円の、透き通るような濃い青色の萼があり、中から、小鳥の舌に似てふっくらした蕊が覗いていた。

 花からは、甘い香りがした。そういうものなのか、とミナミは妙に納得したりした。自然種の花など見たのは、生れて始めてだったのだから。

 それが、小さな丸テーブルと椅子が二客だけ置かれた四阿をぐるりと取り囲んで、咲き乱れている。甘く清楚な香りは清々しく、歩き過ぎるミナミの全身に纏わりついたが、不快ではなかった。

 四阿に上がろうとして考え直したミナミが、歩道の縁に咲いている一輪の花びらに手を伸ばしてみる。恐る恐る触れると、想像より弾力のある、ラバーに似た感触だったが、表面がしっとりとしていて、だからやっぱりこれは造花でないのだと判った。

 造りものでない。まやかしでない。……………。

 ハルヴァイト・ガリューというひとの、不機嫌な顔を思い出した。

 昨日からろくに言葉も交わしていなかったし、顔も見ていなかった。家に帰って、シャワーを浴びて、食事をして、部屋に上がってしまったハルヴァイトに、ミナミは一言も話し掛けなかった。

……話し掛けられなかった、の方が正しいのか。

 最初から機嫌を損ねると知っていたのだから、言い訳するつもりはない。ただ、自分からその話題を持ち出せるほど、実のところ…、ミナミにも余裕がなかったのだ。

 ドレイクたちと別れて、少し歩いて、ミナミは急に…判ってしまった。

 一言、なんで断らないのか、と訊けばよかったのに、言い出すタイミングを逃したというのを。

「……最初に、言えばよかったのか…、もしかして」

 蘭の花びらに這わせていた指先を引っ込めてしゃがんだままの胸に掻き抱き、ミナミは長い溜息を吐いた。

 迷ってしまったのだから、しょうがない。

「だって俺は…、あのひとのそういう事情に、首突っ込めねぇだろ? その…俺は………」

 周りが考えているほどちゃんとした「恋人」ではないし、多分、そうなれないだろうとミナミは思っている。

「なのになんでこんな…、サイテーな悪あがきしてんだよ」

 呟いて立ち上がり、青年は空を仰いだ。

 それでも、ミナミはハルヴァイトの不機嫌な顔を見ているのはイヤだと思ったし、何かしなければいけないと思ったし、出来れば今はまだ、そのひとの側に…。

「…………俺、…」

 憂鬱に呟いて、その先が判らなくて唇を閉ざした刹那、咲き乱れる蘭の向こう、よく手入れされた小道を静かに進んで来た人影が、ミナミに…毅然と声を掛ける。

「あなたが、ミナミさん?」

 驚いて振り返り、ミナミは硬直した。

「始めまして、ミル=リー・アイゼンです」

 そう言って穏やかに微笑んだのは、間違いなく、ハルヴァイトの端末の中で微笑んでいたのと同じ女性だった。

   

   

 自然種の美しい花に彩られたミル=リー・アイゼンは、大きくカールした豊かなブルネットを揺らし、四阿の椅子を勧めたミナミに会釈して答えた。身に纏っているのはあまり飾り気のないブラウスに足首まである煉瓦色のスカートだが、上質な素材を使っているのだろう、色の白い、大きな瞳の彼女は十分華やかに見えた。

 年齢はミナミと同じか、違っていてもそう離れているとは思えない。立ち居振る舞いまでしっかり貴族として教育された、見事な「ファイランの女性」。

「急にお呼び立てして、すいません…でした」

 ミナミがとりあえずそう言うと、ミル=リーは笑顔を作り直し、「少し驚きましたわ」と答える。

「…ガリュー様とのお約束がございますので、手短にお願い出来ますかしら?」

 ミル=リーの小首を傾げる仕草を、ミナミは半ば呆然と見つめていた。

   

 彼女は、大輪の蘭の花。

 まがいものでない。まやかしでない。

 人の営みに則って生まれ、人の常として子孫を残す。

 造りものでない。まやかしでない。

 ……………あのひとの。

   

 急に、ミナミの中で何かが冷めた。だから何がしたかったのか、判った。

「ミナミさん?」

 気が抜けたように椅子に座り込んだミナミの顔を見つめたまま、ミル=リーが不審そうに問いかけてくる。それを胡乱な瞳で見つめ返し、ミナミは…、いつどこで「造られたのか」判らない青年は、彼女から視線を逸らさないまま首を横に振った。

「……あのひとには、逢わないでください」

 ミナミの疲れた呟きに、ミル=リーの表情が曇る。

「……。わたくしの差し上げたお手紙の内容を、お聞きになりまして?」

「あなたが…、あのひとの子供を儲けたがってる、ってのだけは、聞きました」

「…そうですか…。性急に事を進めたわたくしもはしたないとは存じます。今日のお約束も、わたくしの方からグラン・ガン様にお願いして取り付けていただきました。しかし、ガリュー様からはなんのご返答も…つまりお断りもございませんでしたので、わたくし、てっきりミナミさんもご承知なのかと…」

 弱ったように眉を寄せたものの、ミル=リーの瞳にその感情はなかった。ただ、一応「恋人」であるミナミに申し訳ない顔をしてみせた、という、義務のようなものなのだろうか。

 それに、腹は立たない。

 電脳魔導師には、子孫を残してくれる女性が必要なのだから。

 そしてミナミにハルヴァイトの子孫を残してやる事は出来ず、それ以前に、本当の「恋人」にさえ…なれない。

 許せたのは短いくちづけだけの、造りものの、まやかしの、恋人にしかなれない。

「俺…、今からすっげー勝手な事言うと思うんで、気に障ったらそう言って貰っていいです。ただ…、今はあのひとが俺を「恋人」だって言ってくれてるから、何もしないでいるのはきっと卑怯だから、言います…」

 ミナミは一度だけ瞬きし、背筋を伸ばし、ミル=リーを見つめ直した。

 ダークブルーの双眸に、彼女を閉じこめる。

 となぜか、彼女はそれだけで不快げに眉を寄せた。

「あなたは、あのひとの事を調べたんですよね?」

 息を飲む気配に、ミナミは小さく頭を振った。

「それはどうでもいいです。判っているなら、余計な事言わないで済むし。それであなたは…、あのひとがどういう風に生まれて、どういう風に育って来たのか、知ってるんですよね?」

「……ミラキ家との関係、という意味ですか?」

「そう」

 今や怒りに似た光を湛えた緑色の瞳の中で、ミナミは頷いた。

「存じております」

「じゃぁ、やっぱあのひととは逢わないでください」

「なぜですか? 確かにミナミさんはガリュー様の恋人かもしれませんが、電脳魔導師としてのあの方を、…ガリュー家を支える事は出来ないでしょう?」

「それは…出来ない。でも、まだそんなの決まった事じゃねぇし…。ガリュー・ミラキなんて名前を、あのひとは…」

「このファイランには、電脳魔導師ガリュー・ミラキ家は絶対に必要ですわ。あの方の才能が失われるというのがどれだけの損失になるか、ミナミさんは判っていらっしゃらないのですね」

「……判んねぇよ、あのひとがどうやってここまで来たのか知ってるあなたが、平気であのひとに…、家のためとかつって子供生んでやるって、平然と言える神経なんか」

 ミナミは、観察する者の目でミル=リーを見つめたまま、吐き捨てた。

「ミラキ卿も言った、俺も思う…。本当にあなたがあのひとを「好き」で子供が欲しいなら、俺だって文句ねぇよ。どうせ…」

「わたくしは才能ある電脳魔導師を後世に残すために、今まで育てられてきました。それに疑問を持った事など、一度もありません。あの方の才能をあなたの嫉妬で終わらせてしまうのこそ、知りたくもない神経なのではありませんか?!」

「じゃぁあのひとは、才能がなかったらいなくていいのかよ」

 感情的に言い放ったミル=リーとは対照的に、ミナミは落ち着いていた。

「才能がないと思われたからあのひとは、「なかったもの」としてスラムに捨てられたんだろ? でも才能があったから、今度はガリュー・ミラキなんて名前をくれてやろうとしてんだろ? あのひとがそれを…どうも思ってねぇなんて、あなたに判るのか」

「たかが恋人と呼ばれていい気になっているあなたの浅ましさには、ついていけませんわ。聞き分けのないひとは最低ね。わたしは何もあなたをあの方から引き剥がそうとしている訳ではなくてよ? 離れたくないなら正直にそう仰ればよろしいでしょう。それとも、自分を抱いた腕がわたくしを抱き締めるのが、そんなにお嫌なのかしら?」

「……………」

 嘲笑混じりの言葉に、ミナミは口を閉ざした。

「ごらんなさい、返す言葉もない」

 確かに、ない。

「わたくしは、わたくしの義務を果たすだけです。あなたにとやかく言われる筋合いはありませんわ。それがファイランの掟ですもの、それくらいあなたもお判りになったらいかがかしら」

「……………あのひとはきっと、誰にも愛されないで、家を護る道具みたいに生まれて来る子供を思って、心を痛める。その子供が自分みたいな…、怯えた目に囲まれて育つのに、心を痛める。子供の愛し方も知らないあなたを思って、きっと傷つく。あのひとは…」

「何が言いたいのよ!」

 ヒステリックに叫んで立ち上がったミル=リーを見つめたまま、ミナミは静かに言い置いた。

「あなたとお話しする時間は、無駄で…」

「あのひとは、物じゃない。…ミラキ卿も、あなたも…」

 ミナミに背を向けようとしていたミル=リーが、その一言で、ぎくしゃくと彼を振り返った。

 ダークブルーの冷え切った双眸でファイランという狂った閉鎖空間を観察する、綺麗な青年。作り物のように整った容姿だからこそ、ミナミは余計に……恐かった。

「あなたがあのひとを本当に好きになってくれるなら、俺はあなたがあのひとに抱かれようがなんだろうが、気にならない。…だって俺は……」

 震える瞼を閉じて、押し出すように呟く。

「あのひとの、指先に触る事さえ出来ねぇんだし…」

 ただ…、そこに居るだけ。

「………あのひとはきっと、本当にガリュー・ミラキって家を立ち上げなくちゃなんねぇようになれば、自分で…伴侶を……捜すだろうと思う。その時、俺はもういない」

「………」

 ミル=リー・アイゼンは、ミナミの独白に戸惑った。

「ひとの気持ちなんて判んねぇから、なんて寂しい事じゃなくって、結局…俺がダメだから、…いつもそうだったから…、絶対………、ずっと側に居るだけなんて、無理だ…」

 もうハルヴァイトの側から離れる心配をしている自分が滑稽過ぎて、ミナミが薄く笑う。目を閉じて中身のない笑みを見せた青年に、ミル=リー・アイゼンは向き直った。

「いつか俺はいなくなる。子供は、それからだって遅くねぇだろ? だから…、今はこれ以上、あのひとを……傷つけないでくれよ…」

 これ以上…。

「ミナミさん?」

 何かを問いかけようとした彼女を遮るように、ミナミは立ち上がった。

「ごめんなさい。ほんと、俺は勝手な事ばっか言ってる。きっと今、あなたを傷つけたと…思う。でも、ミラキ家の方から婚約関係の断りを入れた事も知ってて、その上であなたがあのひとに…あの手紙をよこしたって、そういう…、ファイランの「狂った」部分も判ってて、自分が捨てられたって事に対してミラキ卿が責任を感じてるってのも無視できないあのひとを、今は…、そっとしておいてやってください」

 そう言って、深々と頭を下げるミナミ…。

「…俺は…………あなたが言うみてぇに、どうしようもなく浅ましい最低の人間だ…」

 ミル=リーはその時、なぜ、自分でなくミナミの方がそんなに傷ついているのか、判らなかった。

  

   
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