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    2.冷たい恋人    
       
(13)

  

 その部屋は、とにもかくにも荒れていた。しかしそれは今に始まった事でなく、たったひとりの住人である主は、計算し尽くされた法則を持ってその部屋を散らかしていたので、この乱雑さに不快を覚えることもなかった。

 狭くないその空間の殆どは、分厚い書物で埋め尽くされていた。本の山を飛び越えなければベッドまで辿り着けないほどに積み上げられたそれらは、俗に「魔導書」と呼ばれる中でも解読が難しく難解な「禁書」であり、幾何学模様にしか見えない文字を読み解けるのは、現在のファイランに存在しないのではないか、とまで言われている代物だった。

 それを本当に彼、ハルヴァイト・ガリューが読めているのか、という問題はさておき、とにかく彼はその部屋の隙間たるベッドに転がって、じっと天井を睨んでいた。

 多分、そろそろ出掛けなければならない時間だろうと、思う。

 気が進まない。などという平凡なレベルではない。

 不機嫌を通り越し、憤懣やるかたない、といった気分。

 しかも、昼前にドレイクと出掛けたミナミは、まだ戻っていない。

 ミル=リー・アイゼンがどうこうというよりも、彼の抱えた問題は「ミナミ」だった。確かに、もう傷ついて欲しくないから護らせてくれ、という多少曖昧な表現しか出来なかった自分も悪いのだろうが、だからといって、あの言い方はないだろう…と………。

 昨日から…、いや、もっと前から陥っている無限ループに入りかけて、ハルヴァイトは溜め息を吐く。

 卑怯な言い訳だ。判っている。ミナミが「行かないで欲しい」と言ってくれれば少しは安心出来るという、我侭でしかない。

「…知らなかった。わたしも意外と、情けないんだな…」

 思わず呆れて呟き、彼は起き上がった。

 判っていた。「行かない」と一言告げれば、済む事だった。ミル=リー・アイゼンに断りを入れられなかったのは、ミナミが自分をどう思っているのか判らなかったからだ。

 好きでいて欲しいと思う。信じて貰いたいと、思う。

 そして今は、それに値しない。

 だからハルヴァイトはようやくベッドを降り、リビングへ向かった。

   

   

 ガリュー家のリビングには、装飾品としてのマントルピースがある。外部と通信出来る端末はその上に無造作に置かれている一機のみで、他に、ハルヴァイトの自室にも端末はあるが、それは…彼が魔導書の解析に使うため完全に「自分用」にカスタマイズしていたから、どこにも繋げられない特定の内部構造になってしまっている。

 だから、彼がタッチの差で切断された電信の存在に気付いたのは、マントルピースの前に恐ろしく険しい顔で立った時だった。

「…ミナミ? じゃ…ない」

 送信先を確認し、それが移動用の携帯端末からだと知って、溜め息を漏らす。送り主は表記されていないが、そんな物で連絡してくるのは、アリスかドレイクしかいないだろう。

「まさか、途中でミナミに何かあったのか?」

 ふと思い当たって、慌ててメモリをオープン。保存されているメッセージを立ち上げて、画面に映った人物の笑顔に、ハルヴァイトは一瞬ぽかんとしてしまった。

「………ミル=リー・アイゼン?!」

 口の中で小さく呟いたハルヴァイトに、保存されていたミル=リーがにっこりと微笑みかける。

『ごきげんいかがでしょうか? ガリュー様』

 いい訳ないだろう…。と内心苦々しく思いつつも、ハルヴァイトはモニターを見つめていた。

『まずは、今般の不躾な申し出を深く謝罪いたします。ガリュー様のご都合も…、ご事情も汲みせずに愚かな行動に出たわたくしを、お許し下さい』

 事情、と言われた途端、なぜかハルヴァイトが全身を硬直させる。アイゼン家は貴族院に名を連ねる名家だ。過去、ドレイクとハルヴァイトの関係を洗い出したくらいなのだから、何か…、今のハルヴァイトの身辺を調べたのかもしれない。

 無意識に、ハルヴァイトの鋼色の眉が、吊り上がった。

『…今し方、ミナミさんにお会いしましたわ』

「え?」

 朗らかに笑むミル=リーの続けたセリフに、今度はぎょっと目を剥く。

「そんなの…わたしは聞いてない!」

 思わず画面に食って掛かるが、これはあくまで保存されたメッセージなのだ、ミル=リー・アイゼンが何か答えてくれる訳ではない。

『綺麗な方ですのね。少し、驚きました』

 驚いたのはこっちの方だ! と悲鳴を上げたい気分で、ハルヴァイトは画面を食い入るように見つめていた。

 その中で、ミル=リーが微か表情を曇らせ、睫を閉じる。

『ガリュー様にもミナミさんにも、なんとお詫びすればよろしいのか、言葉もございません』

 何がどうなっているのか、さっぱり判らない。

 ただ、ミナミが彼女に会った、という事実だけは、はっきりした。…ハルヴァイトには何の相談もなく、きっと、ドレイクの名前で何らかの手を打って、だ。

『わたくし達が何をお話ししたかは、お訊きにならないでくださいまし。ただ、ミナミさんは…とても辛い思いをなされたと思います。わたくしの軽率な行動が、あの方にあのような…、哀しい顔をさせたというのだけは判っているつもりです』

 眼を閉じていたミル=リー・アイゼンが、ふと顔を上げてハルヴァイトを見据えた。

『ガリュー様。わたくしは愚かなだけの女だと思われたくありません。ですから申し上げます。あなた様が今すぐ逢いに行かなければならないのは、わたくしでなく、ミナミさんではないのですか?』

 力のある緑色の瞳に睨まれて、ハルヴァイトが頷く。

『お手数をお掛けしたグラン・ガン様には、わたくしの方から謝罪申し上げて置きます。全てはわたくしの我侭でしたわ。でも、判りましたの…』

 ミル=リー・アイゼンはそこで、ミナミが見とれた華やかな笑みをハルヴァイトに向け、小首を傾げた。

『あなた様がミナミさんに心を奪われた気持ちが、少しだけ』

 その、いたずらっぽい笑顔にこれも華やかな笑みを返し、ハルヴァイトが呟く。

「ミナミは誰にも渡しませんよ。それが例えば、女性であるあなたであっても」

 だから…。

 ハルヴァイトは画面の中のミル=リー・アイゼンに丁寧な挨拶をし、メッセージをクリアして、それから、ミラキ家の電信番号を呼び出した。

  

   
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