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    3.まるでそぼ降る雨のよに    
       
(3)

  

 七六番通りにあるコーヒー豆の専門店に向かい、そこで、何種類かの豆を届けてくれるよう頼んで、店を出る。時刻は既に夕暮れ近くだったから、表通りのカフェはダイニング・キッチンに様変りしようとしていた。

「少し早いですが、書店に寄ったら食事をして帰る、という手もありますけど」

「……でも、豆、届くだろ?」

「? いつものように勝手口脇の倉庫へ入れておいてくださいと言いましたから、配達の人も別に困りはしないでしょう」

 ね。と言わんばかりのハルヴァイトを、ミナミが胡乱に見上げた。

「アンタ、それニブ過ぎ…」

「何がですか?」

 まさかミナミがハルヴァイトの淹れる珈琲を楽しみにしている、などと、この無表情から想像つかなかったのか、鋼色の髪をした恋人が、本当に訳が判らない、といった顔でダークブルーの瞳を覗き込む。

 そこでちょっと、ミナミにいたずら心が出た。いや…いつもそこはかとなくいたずらするのだが、今日はちょっと嗜好を変えてやろうと、思ってしまった…のか?

「…店で機械が淹れるコーヒーよか、同じ機械でも、アンタの淹れてくれたののが好きだ」

 素っ気無く言って、ちらりとハルヴァイトの…完全に凍り付いた横顔を窺ってから、ミナミは吹き出しそうになった。

「おい…、今のは喜ぶトコだろ」

「………多分」

「多分じゃねぇ、多分じゃ」

「すいませんが、もう一回言って貰えます?」

「…………………イヤだ」

 ふん、とそっぽを向いて、器用に通行人を躱しさっさと歩き去る、ミナミ。毎度の事ながら、誰ともぶつからず、まるで通りを泳ぐようにするすると進むミナミは、ハルヴァイトが心配するほどか弱くもなく、でも、全身にぴりぴりした緊張を纏いつかせている。

 少し離れて、ハルヴァイトはふと口元をほころばせた。

「…冗談を言うくらいの余裕は出た、ってところでしょうか…」

 まさかミナミの「冗談」が半分以上本気だとも知らず、ハルヴァイトは困ったように、鋼色の髪を掻きあげる。

 せめて半分、本気だったら嬉しいんですがね。と…言ったら言ったでまた厳しく突っ込まれるだろうと予想して、ハルヴァイトは口を閉ざした。

……それを言えば、少しミナミの慌てた顔が見られるかもしれない、とは…夢にも思わず。

「何?」

 見つめるハルヴァイトの視線に気付いて、ミナミが振り返る。今日は薄墨色のシャツに黒いパンツを履き、首には…あの透明な首枷を隠すよう幾重にも皮紐を重ねて巻き付けただけ、という愛想のない服装ながら、毛先の跳ね上がった見事な金髪と物憂げなダークブルーの瞳、嘘か冗談のように整った面差しがやっぱり誰よりも綺麗で、周囲の風景から浮き上がって見える。

 それは、鋼色を纏った機械群の一部かもしれないハルヴァイト・ガリューというひとの、恋人。過去何があり、それからどうやって暮らして来たのかは問題でなく、大切なのは「今」なのだから、とハルヴァイトは、ゆっくりミナミに笑い掛けた。

「この前アリスが、一三三番通りに美味しいオレンジケーキを売る店があると言っていたのを思い出したんですが、買って帰りますか?」

 大股で追いついて当たり前に肩を並べて歩き出すと、ミナミが奇妙な顔でハルヴァイトを見上げてきた。

 ミナミとハルヴァイトの身長差は約十センチ。肩を並べると、どうあってもミナミが首を真横に向け不自然に見上げる形になるのだが、大抵ミナミは上目遣いに彼をじっと…静謐な観察者たる瞳で見つめる。が、今日はなぜか、顎を上げて唇を引き結び、どこか不思議そうな顔を彼に向けた。

 何を急に、とでも言いたそうな視線にもう一度微笑みかけ、ハルヴァイトは反射的に…思わず? …ミナミの唇にくちづけを落した。

「……………。公衆の面前でなんて事すんだよ…、アンタは」

 掠るだけの、キス。唇が離れてすぐ、ミナミは溜め息混じりにそう呟くと、なぜだか急に俯いてしまう。

「公衆の面前だから、という事も考えられますね」

 少し可笑しげに言い置き、ハルヴァイトはからかうような視線をミナミの横顔に向けた。

 民衆は、監視するありがたい第三者。

 ハルヴァイトがミナミと暮らし始めて、もう半年になる。必要以上に緊張して彼に気を使った憶えのないハルヴァイトだったが、最近…時々忘れそうになる事があった。

 触れてはいけない。という事実。

「アンタ…、変なシュミでもあんのか?」

 薄笑みで小さく突っ込んでからミナミは、目の前に見えた四階建ての建物に爪先を向けた。が、そのままガラス張りの建物を通過してしまいそうになる。

「? て、入り口はこっちじゃないんですか?」

 通りに面した回転扉を指差したハルヴァイトに、ミナミが背を向けたまま「こっちからも入れんだよ」と素っ気無く答える。そういえば、ミナミは以前ここで働いていたんだった、と思い出したハルヴァイトは慌てて彼を追いかけた。

「両脇に普通の入り口があんの。意外とみんな知らないらしいから、こっちの方が空いてんだ」

 建物正面を躱し脇道に入り込んですぐの所にすりガラスの一枚ドアが穿かれており、確かに、「ご自由にお入り下さい」と流れるアルファベットで書き付けられている。

「ついでに、あっちよりこっちの方が、インフォメーションカウンターに近い」

 言いながら、見た目より重いドアを肩で押し開けたミナミ。その頭越しに手を突いたハルヴァイトが、人工大理石の床と壁、いやに静かなエントランスを覗き込み、なるほど、と微かに呟いた。

 エレベーターホールとも言えるエントランスは六角形で、回転扉はその六角形の一辺、大通りに面した部分に取りつけられており、両脇はガラス張りだった。一番奥、回転扉の真正面がエレベーターで、その左右は片方がインフォメーションカウンター、もう片方が階層検索出来る端末の置かれたカウンターという、なかなか明るい造りになっている。

 ミナミとハルヴァイトが入ったのは、その、インフォメーションカウンターのすぐ横のドアだった。

 エントランスに入り、ミナミは真っ直ぐカウンターへ向かう。若い係員は近付いてくるミナミに気付いて顔を上げ、それから…一瞬惚けたように彼の顔を凝視した。

「……。王立図書館の臨時閲覧権、買いたいんだけど?」

 どことなく不愉快そうなミナミの声に、少し離れた所に腕を組んで立っていたハルヴァイトが、吹き出す。と。

「そこ、笑うな…」

 とりあえず、いつも通りの突っ込み。

「一口五ブロック、五〇〇〇王貨になっています」

「…それって高ぇの?」

 ミナミは、笑顔の係員から視線を外し、背後のハルヴァイトを振り返った。

「五ブロックというと、容量はどれくらい?」

 腕を組んだままつかつかとミナミに歩み寄り、身を屈めて係員の顔を覗き込む、ハルヴァイト。

「あ…えーと!」

 と今度は、係員の声がひっくり返った。

「アンタ、ガラ悪過ぎ」

 笑いを含んだミナミの声に、ハルヴァイトがわざと大袈裟に肩を竦めて見せる。

「職業柄、とでも言いましょうか」

「…とりあえず、一般市民に接するときは笑っとけ…。それでイメージアップ間違いなしだろ」

「そういうのは広報の仕事です。で、容量はどれくらいですか?」

「に…二十五億電素くらいだそうです」

 そばかすの浮いた若い係員は、ブラウンの瞳をきょときょとと揺らめかせながら、ミナミとハルヴァイトの間で視線を往復させた。

「一ブロック五億電素ですか…。一般的な小説の類なら全部で百六十冊、グラビアだったら八十冊程度、雑誌で二百五十冊…。頭良く使えば、もっといけますよ」

「…アンタなら、だろ?」

「いえ。普通に、許可されているデータのダウンロード方式、というのをよく読んでおけば、誰にだって出来ます。後で教えましょうか?」

「つうかさ、結局、五〇〇〇てのは高ぇの?」

「妥当です」

「…じゃぁ……」

 普通、こんな場所で臨時の閲覧権を買う人間は、一ブロックで何冊本が読めるか、とごく稀に訊いて来る程度で、容量電素数など問い掛けてこない。しかも、買いたい相手はいわゆる「普通のお客」らしいが、付き添いはどうもかなり専門的な知識がありそうだ、と係員が判断した途端、ハルヴァイトは身を起こし、「待ってください」と、静かに言い放った。

 ちなみに係員の彼は臨時雇いである。これ以上難しい事を訊ねられたら、泣いてしまう…。

「その五ブロックというのは、ブロック単位でしか使用出来ないものなんでしょうか? それとも、合計二十五億電素まで使用出来るけれど、判りやすくするためにブロック表示にしている、という意味なんですか?」

 にこりともせずに問い掛けられて、ついに係員は椅子から飛び跳ねるように立ち上がり、少々お待ち下さい、と悲痛に叫んでカウンターを転がり出て行った。

「……細けぇよ…アンタ……」

「これも職業柄、ですかね」

 ミナミの呆れた突っ込みには、さすがのハルヴァイトも笑うより先に反省せざるを得なかった。

 ファイランの一般市民は、使用出来る容量を「電素」、通信速度を「電速」という単位で現す事は知っていても、日常で使う事は殆ど無い。市販されている端末や家電などのスペックには大抵「使用領域○○ブロック/通信速度通常光速」などと、大雑把に書かれているだけなのだ。

 しかもそのブロックというのは、製造元によって基本電素数が違う。

 つまり、誰も本当のスペックを知らない製品やサービス、というのも、氾濫している。

「普段は別に気にならないんですが、限られた容量内にどれだけ大量のデータを詰め込むか、というのは…わたしの場合死活問題なので…」

 苦笑いしながらかしかし指で鼻の頭を掻くハルヴァイトの姿が可笑しくて、ミナミが薄く笑う。

「反射的に?」

「………無意識下で出来なかったら、廃業ですよ」

「…そんな凄い仕事なんだ…、その…」

 まさかここで「電脳魔導師」とは言えなかったのか、思わず口篭もったミナミに、ハルヴァイトが首を横に振って見せる。

「すごくはないです。珍種だとは思いますけどね」

 実のところ、ミナミは「電脳魔導師」というのがどういった仕事をし、どういった意味で「魔導師」と呼ばれ、このファイランで貴族階級を与えられているのか、殆ど知らなかった。

 だから…、今まで何度か試みようとして、結局面倒になり一度も買った事のない「王立図書館」の閲覧権が欲しかったのだ。こそこそ嗅ぎまわる、という訳ではないが、多分、ハルヴァイトはこの件についてだけ、明言を避けてくるだろうと予想して…。

 それに、なぜ知りたがるのか? とハルヴァイトに訊き返されたら、困る。

 答えはある。でも、彼には…言いたくない。

(……………俺も…大概バカじゃねぇ?)

 ミナミはちょっと自分が可笑しくなって、俯いて肩を震わせた。

「……何、笑ってるんですか?」

 倣岸に腕を組んだまま小首を傾げたハルヴァイトの顔を横目で窺いつつ、ミナミは素っ気無く…でも少しだけ笑ったまま、言い放った。

「確かに、アンタは珍種だと思って」

 薄墨色で痩せた肢体を飾った恋人は、今日もハルヴァイトを平然と「アンタ」と呼ぶ。しかも…珍種…。

「相当デカイ種類ですね。よく絶滅しなかったものだ」

 しょうがないからハルヴァイトは、ミナミに言われる前にそう言って、笑った。

「交配課程で遺伝子が突然変異でも起こしたんじゃねぇ?」

「…在り得そうなんで、それ以上恐い事言うの止めてもらえません? ミ…」

「ミナミ!」

 肩を並べて和やかに(?)話し込んでいた二人の言葉を遮るよう、ハルヴァイトには聞き憶えのない声が叫ぶ。しかし、名前を呼ばれた刹那、傍らのミナミがぎくりと身を竦ませたではないか。

「……………」

 ハルヴァイトが、眉を吊り上げてゆっくりと声のした方へ顔を向けた。と、そこに立っていたYシャツにネクタイ姿の男が、表情を強張らせて息を飲む。

 栗色の髪に、栗色の瞳の、生真面目そうな顔をした会社員。歳は、ハルヴァイトよりも若く見えた。がしかし、どこか疲れたような、憔悴した印象があるのは、顔色が優れないからだろうか…。

「……ュウ…」

 ミナミの吐息みたいな呟きに、今度は、ハルヴァイトの血の気が引く。

「シュウ……、てめー、なんでこんなトコにいんだよ…」

 恋人は未だ、ハルヴァイトを「アンタ」呼ばわりだと…言うのに。

  

   
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