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    3.まるでそぼ降る雨のよに    
       
(4)

  

 非常に複雑な心境だった。

 物事をくよくよ悩むのは性にあわない。不測の事態には、直面してから対応を考える。大雑把に言えば、自分の事さえあまり気に掛けない。というのが、ハルヴァイト・ガリューという人間の基本だったはずだ。

 ところが…。

 ミナミが来てからの約半年というもの、ハルヴァイトはまるで彼らしくなく、いちいちミナミを心配したり考え込んだり悩んだり開き直ったり驚いたり不安になったり…、とにかく忙しかった。

 大体にして、誰かに「好きでいて欲しい」などと、今まで一度だって思った事のないような人間なのだ。いろいろとシャレにならない過去があり、二人の命を「食った」ディアボロを抱えて生きさらばえるのに、どうしてそんな贅沢が言えようか。

 生きても死んでも大差ない。あの日王下医療院で見たミナミに再会出来なければ、死ぬまで誰も寄せ付けない「機械」で…よかった。

 ところが、ハルヴァイトは見事ミナミに再会しおおせてしまった。

 だから、彼は急に忙しくなった。

 そしてここに来てなぜか、基本的に面倒臭がりなのにも関わらず気力でなんとか保っていたいろんな事を、ハルヴァイト・ガリューというそのひとは、あっさり…放棄してしまったのだ。

 複雑な気分だった。

 あの「シュウ」という男の正体は、非常に気になる。

 けれど、聞いて、何か思ってしまうのは億劫過ぎた。

 結局、ハルヴァイト・ガリューというひとは…。

   

   

「………いや、薄々気付いてたけど…」

 そういう意味でも、生活能力が低い。

「…アレはねぇだろ…アレは…」

 夕暮れ近い時刻の、大通り。買い物を済ませて足早に帰宅する人の流れを物憂いダークブルーの瞳で眺めながら、ミナミはしきりに…愚痴っていた。白いクロスも眩しい丸テーブルに片肘を突き、正面に座ったシュウ・リニエールに顔を向けようともせず、通りを見つめたままぶつぶつと。

 こんなミナミも、珍しい。

「「誰だ」とか一言くらい訊けねぇのか、あのひとは…。…つうか、名前も聞かねぇでさっさと帰るってのは、どうなんだよ…。まさか、丁寧に笑顔で挨拶して欲しいとか思ってねぇけどさ、だからっていきなり、先帰るから気をつけて戻って来い、って、そりゃぁねぇだろ…。てか…」

 ようやく、ミナミはじろりとシュウ・リニエールを睨んだ。

「お前は何やってんだよ、こんなトコで」

 言われて、ぼんやりとミナミを見つめていたシュウが、え?! と、さも驚いた風の声を上げる。

「…………」

 色が白く、どこかのほほんとした印象の、真面目そうな青年。きちんと整えた短い栗色の髪も、愛敬のあるどんぐり眼も、何を着せてもいまひとつ似合わない野暮ったさも、半年前と変わっていない。

 何か突っ込んでやろうとしたものの、急に嫌になったのか、ミナミはやる気なくテーブルに頬杖を突いたままシュウを斜に構え、短く溜め息を吐いた。と、いきなりシュウが、俯いて髪を掻き毟りながら「ごめん」と何度も繰り返す。

(…なんだかなぁ)

 当時は少しも気にならなかったその仕草に、なんとなく落胆を隠せない。なぜなのだろうと考えて、一秒か二秒で答えが出たのを、ミナミは先刻と別の溜め息で認めた。

(あのひとは、いつも堂々としてる…。つうか、ある意味し過ぎ。しかも生活能力ねぇし)

 内心突っ込み、今度は急にシュウが不幸に思えて、ミナミは…必死になって笑いを堪えた。

(…無理、ぜってー無理…。シュウが逆立ちしたって、あのひとみたいになれっこねぇ…)

「…ミナミは、元気でやってるんだ…よな」

「うん? あぁ…、なんとか。……じゃねぇか。そうだな、「楽」にやってるよ」

 相変わらず斜に構えたままではあったが、言いながらミナミは視線だけを正面に向ける。シュウが肩を落してうなだれ、なるべくミナミの顔を見ないようにしている理由は嫌というほど判っていたので、別にそれを咎めようとは思わなかった。

「オレさ、今度王都警備軍の入隊試験受けようと…」

「…………なんで?」

 思わず食って掛かったミナミが、しまった、と慌ててシュウから顔を背けた。

 頭と勘だけはいい男だった。真面目さが売りで、書店の倉庫でバイトしていた時、嫌々入ったインフォメーションカウンターで顔を合わせて以来、足繁く、それこそ毎日のように通って来て、ついに、ミナミが何らかの問題を抱えている、と見抜いたくらい…。

 正直に言う。もしもシュウがもう少し自身に厳しく、ミナミの症状を深刻に受け止めていたら、ミナミはハルヴァイトに出逢わなかっただろうし、出逢っても、シュウの家を出なかっただろう。

「なんでって…」

「って、俺にゃ関係ねぇか」

 背中に冷や汗を掻き、でも努めて平然としたミナミが、椅子の背凭れに身体を預ける。

 頼むからやめてくれ。という心境だった。入隊すれば嫌でもハルヴァイト・ガリューの名前を聞くだろうし、顔も知る事になるだろう。それはいい。それでシュウが何をどう感じようと、ミナミにもハルヴァイトにも関係ない。が……。

(あのひとが、シュウを黙って見過ごすか、ってのが問題なんだよ…)

「関係なくないんだ、ミナミ…。いい機会だから、聞いて欲しい」

「…なんだよ、それ…」

 青ざめるほど緊張した面持ちのシュウにげんなりした視線を向けたミナミは、ずる、と椅子から滑り落ちそうになった。

 で、テーブルにしがみつく。

 その細い指先を凝視したまま、シュウはとつとつと語り始めた。

「オレは、オレに甘かったんだ」

「だから、そうだっつったろ…、部屋出る時。…俺の話聞いてなかったのかよ」

「あの時はなんだか動転してて、言われた意味がよく判らなかったんだ。でも、後から考えて、…あれから何ヶ月も考え抜いて、やっと判った…」

(そんな、何ヶ月も考える事か?)

 真面目過ぎるシュウの言葉に呆れたミナミが、げんなりと彼の顔を見てしまった途端、シュウはテーブルの縁を掴んだままだったミナミの手を握ろうと、腕を伸ばした。

 反射的に手を引っ込め、ガタッ! と椅子ごとテーブルから飛び離れる、ミナミ。それをさも驚いた表情で見つめ、それからシュウは、またがっくりとうなだれた。

「ミナミはまだ、オレを許してくれないのか?」

「…じゃねぇつってんだろ」

 引きつった顔でシュウを睨んだミナミが、溜め息みたいに吐き出す。あの部屋を出る少し前から繰り返された不毛な押し問答。ミナミの中ではとうに終わった、しかしシュウの中で燻る「何か」が、また、顔を覗かせた気分。

「判ってるんだ、ミナミ」

「…いや、ぜってー判ってねぇって…」

「オレは、軍に入って自分を鍛え直そうと思う」

「それ、飛躍的過ぎねぇか? しかも、なんでそれを俺にわざわざ言うよ…」

「オレがオレを許したら、ミナミも、オレを許してくれるかい?」

「……………」

 ミナミは、呆れた。

 少し思い込みの激しいところがある、と感じてはいたが、ここまで自分の世界に入り込むような人間だと見抜けなかった自らの愚かさを、ミナミは心底反省した。

(…アブねぇ…。この逸れ方は尋常じゃねぇ。二番目に…失敗した…)

 二番目に失敗。良くも悪くも一番は、あの鋼色を纏った倣岸な電脳魔導師。

 天才で、軍部でも恐れられているくせに、すっとぼけていて生活能力皆無の…。

「オレだけがミナミの「特別」になりたいんだ。だから、自分を鍛え直してミナミを迎えに行こうと思った。今日出逢ったのは偶然だけど、それで余計に、運命を感じる…。ミナミ、今度こそオレたちは上手くやっていけると信じて、戻って来てくれ」

「嫌だ」

 顔を上げて熱っぽく語るシュウを冷ますように、ミナミが素っ気無く、しかも即答する。

「結局、「特別」だかなんだかよく判んねぇけど、そうなったって俺は誰にも触れねぇ。触りたくもねぇし、触られるのもぜってー嫌」

 ……………嘘かも…と思った。

「シュウは、自分に甘いだけじゃなくて、俺も…俺の「過去」も甘いもんだと思ってんだろ…。それは別に悪かねぇし、誰かに……判って貰いたい事でもねぇけどさ、無理なら無理だって早いトコ…、俺なんか最初から居なかったんだって諦めろよ」

 テーブルの上の冷めた珈琲を見つめたままで、ミナミは冷たく言い放った。

 シュウ・リニエールは真面目な男だった。今も。ミナミとの「絶対に触らない」という約束を、半年も守ったのだ。ただ唯一の誤算は、シュウが、ミナミに「本気」になった事だろうか。

 ミナミがシュウの部屋を出る前日、シュウはミナミに…くちづけを迫った。

………だから、この先一生誰にも触れたくない、というのは……もう嘘。

 それから、嘘はもう一つ。

 あの鉛色の瞳をもっと近くで見たかった、という…言い逃れ。

「どんなにシュウが自分を鍛えたって、俺は戻らない。許すとか許さないとか、そういうの…なしで」

 静謐な観察者の瞳が、シュウを見つめる。

「……あの、一緒にいた人、誰なんだ?」

 落胆したシュウの問い掛けに、ミナミは大きく溜め息を吐いた。

(これが普通の対応だろ、これが)

「一応「恋人」らしいけど、条件はシュウんときと同じ」

 どんぐり眼をますますきょとつかせて、シュウが「は?」と間の抜けた声を上げる。その反応はある意味もっともだ、と思って、ミナミは口元に苦笑いを浮べた。

「つうか、シュウんときより、つれーって…」

 ちょっと溜め息交じりに呟いたミナミの表情に、シュウは小首を傾げる。

 辛い、などと言いつつもミナミはその時、冷え切った珈琲の表面から視線を外さず、一瞬だけ微笑んだのだ。

 ふわり…、と。

「家事一切ダメだし、なんでもかんでも手当たり次第に散らかすし、下手すりゃ、ソファに寝転んだまま丸二日暮らしそうになるし、機嫌が悪くなりゃいつどこであの荷電粒子…」

「はぁぁ?」

 すっとんきょうなシュウの声に顔を上げ、ミナミは彼を睨んだ。

「シュウのために言っとく、自分鍛えんだかなんだか知らねぇけど、王都警備軍に入るのだけは、やめとけ」

「…それは……、オレを拒否したミナミには関係ないだろう…」

「いや、マジおおあり」

「?????????? なんで?」

 いたく傷付いた顔をミナミから逸らそうとしたものの、シュウは目端に引っかかったミナミのあまりにも真剣な表情に気圧されて、それ以上に、綺麗な面から目を離せなくなって、勢い、問い掛けてしまった。

「…あのな、シュウ」

「?」

「もしもシュウがあのひとみたいになれたら、俺はお前んとこ帰ってもいい。とか、思っとく」

「本当か! ミナミ!」

 ぱっと歓喜の表情を浮べたシュウに、かなり申し訳ないと思いつつも、ミナミはあっさり首肯した。

「だから、軍はやめろよ。現実はそう甘かねぇって、ほんとーーーに、痛感するから」

「? 意味がよく…」

「…あのひと、軍関係者なんだよ…。しかも、電脳魔導師隊の…」

 シュウの顔色が、俄かに青ざめた。

 入隊しようというからには、シュウも多少軍の事を学んだ。入隊希望者向け講習も受けた。一般警備兵としてしか採用されないシュウの編入されたクラスでは、講義の最初の日、本物の王都警備軍第二三六連隊の大隊長だという黄土色のマントを羽織った大柄な男が現われ、こう言ったのだ。

「軍では規律と階級を重んじる。ファイラン全土を護る警備兵には、一般市民にない厳しい規則が課されているし、一部には貴族階級出身の上官もいる。節度ある態度と常識を持ってすれば、別に堅苦しい規則だらけ、という訳ではない。

…ただしその常識は、緋色のマントを見たら、捨てろ。電脳魔導師隊の連中にだけは、死んでも逆らうな。……死んでも、俺たち一般警備兵はあいつらの足下にも及ばない」

…先に言う。一般警備兵上層部は、正直、電脳魔導師隊と仲が悪い。

「ミナミ!」

 悲痛に叫んだシュウの驚きようが可笑しかったのか、ミナミは肩を震わせて笑い始めた。

「…つうか、あのひとらも不幸だとしか言えねぇな…。ミラキ卿も、エスト卿も…俺の知ってる電脳魔導師ってのは、普通の連中より付き合い易いくらい頭のいい常識人ばっかだってのに、たかが「電脳魔導師」だってだけで、これかよ…」

 判っていたのに再確認した気分だった。あの緋色のマントと、電脳魔導師隊の所属章。それだけで、軍関係者は目を合わせないようにそそくさと逃げ去るという、事実。

 ふとそこで、興味が沸く。

 では、シュウにあのひとこそ「ハルヴァイト・ガリュー」だと告げたら、どんな顔をするのだろうか? と。

 立ち上がろうとしていたのか、腰を浮かせてテーブルに乗り出しているシュウの顔をじっと見つめ、ミナミは形のいい唇でそのひとの名を囁いた。

「……ハルヴァイト・ガリュー。それが、あのひとの名前だよ」

 シュウが全身を硬直させる。零れんばかりに見開いた両眼で、ミナミを凝視する。それから…。

「ダメだ…、ミナミ! そんな…」

 押し出すような悲鳴を上げる。

「オレと一緒に帰ろう、ミナミ! オレは、ミナミが傷付くって判ってるのに放っておけるような…」

「シュウは、ファイランの一般市民の代表だ…」

 ミナミは呟いて、椅子の背凭れに身体を預けた。

「誰もあのひとのホントの事知らねぇくせに、そう言うんだよ。あのひとは好きで周りの人たちを傷つけてきた訳じゃねぇし、それ以上に自分だって…お終いんトコまで傷付いてて、でも、電脳魔導師だってそれだけで、冷たいひとだとか恐いひとだとか、そういう風に言うんだ…」

「特別」なんていらないのは、ミナミだけではない。「普通」でよかった。ミナミも、ハルヴァイトも。

「だから、軍に入るのなんてやめろよ、シュウ。俺は、シュウがあのひとをそういう…脅えた目で見るのは、多分許せない」

「ミナミ…お前…………」

 呆然としたシュウの呟きを拒否するように、ミナミは首を横に振った。

「俺、あのひとになんかいろいろ…余計な「負荷」かけてるらしいから、それ、黙っててくれねぇ? そうでなくても、あのひとよく放電しててみんな困ってんだからさ」

  

   
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