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    4.内緒の生活    
       
(9)

  

 宵の口、というには少々遅いが、深夜と呼ぶには些か早め、という時間。スタンドの仄灯り一つだけを残したリビングでうたた寝しているミナミの元に、物音一つさせずハルヴァイトが帰って来た。

 いつもは家主が寝転がっている、窓を背にしたソファに背中を丸めて収まり、くーくー寝息を立てている、ミナミ。そうしていると妙に幼い感じがして、ハルヴァイトはそっと口元に笑みを浮かべた。

 普段は痛烈な突っ込みと無表情を貫く青年は今、まるで天使のような穏やかな顔で眠りこけている。「誰にも触れない」という「不特定多数の他人に対する恐怖」を抱えるミナミは非常に敏感で、大通りを歩いていても通行人が彼に近付いてきただけでもその気配を察し、他者を無意識に躱わす。

 そんなミナミなのに、ハルヴァイトが無言で傍らに佇んでいるのには、いつまで経っても気が付かない。

 だからハルヴァイトはミナミを起こさないように足音を忍ばせてリビングを後にし、そっとバスルームに入った。

 革製の嵩襟で首周りを飾った緋色のマントは、同色の丈夫そうな組み紐で、右肩に近い部分を止めてある。丈は足首近くまでで、裏地は漆黒。

 組み紐をぞんざいに解き、マントを足下に落としてちょっと考える。湿気の多いバスルーム付近に投げ置いたままではさすがに皺になるだろうと思ったのか、ハルヴァイトは長上着の黒い革ベルトを外してその上にそっと置き、深緑色の上着と黒いネクタイ、それから脱いだスラックスも一緒にして、………纏めて丸め廊下に押し出した。

 …湿気が少なければそれでいいのか? という考えは、まったく浮かばない。何せハルヴァイトというのは、とにかく「片付ける」という事を知らないのだから。

 髪を括っていた紺色の革紐を外し忘れていたのを思い出し、でも面倒なので、それは適当に放って、白いシャツに続いて下着まで脱ぎ捨て脱衣所の片隅に置かれた籠に放り込む。いつもならそのままバスルームに直行するのだが、なぜかハルヴァイトは、壁に掛けられた鏡の前で立ち止まり、じっと…自分の身体を睨んだ。

 色が白い。ミナミほどではないけれど。着痩せするので普段は判らないが、よく鍛えられた筋肉が程良く付いている。付けすぎ、という愚行までは行っていない。首筋、胸板、腹部…。適度なバランスを保つ上半身にはもう一つ、一生消えない「飾り」が施されている。

 臨界占有率表示。プライマリ・テスト・パターン。

 通常、身体の一部に数行しか刻印されないものなのだが、ハルヴァイトのそれは、桁外れに多かった…。

 上腕、肩先から五センチ程下がった部分に、青緑色の奇妙な紋様が記されている。たった一行のそれはぐるりと腕を一周しているだけだが、両腕の同じ部分にあり、更には、その二つを繋いだ鎖骨の下あたりにも、胴体を締め上げるように取り囲んだ一行がある。それだけではない。肘から数センチ下がった部分にも同じような刻印が記され、鳩尾の真上を通る一行が身体を一周していた。鏡には映っていないが、大腿部、膝から十センチほど上にも同じような紋様が左右に二行も刻まれているのだ。

 プライマリ・テスト・パターンというのは、背骨を中心に左右対称と決まっていた。ハルヴァイトのそれも当然例外ではなく、だから、忌まわしい鎖のように彼を縛る刻印は、全身を周回して終わりのない呪詛のように存在する。

 青緑色の、燃え盛る炎に似た紋様。直線的な形状が多い刻印がなぜこうも生き物じみた滑らかな曲線を描いているのか。

 腕のパターンに視線を落として溜め息を吐き、ハルヴァイトは鏡に背を向けた。そこでふと何かを思い出し、首だけを回してもう一度鏡の中の背中を睨む。

 延髄と、鎖骨の下を走って背中に回り込んだ刻印の丁度真ん中あたりに短い紋様が一行刻まれている。下手に襟首の広い服を着たら見えてしまい兼ねない微妙な位置。普段ハルヴァイトがスタンドカラーのシャツばかり身に付けているのは、これを人目に晒さないためだった。

 まだある…。しつこいようだが。

 最後の二行は腰の真後ろ。背骨を真ん中にして左右に十センチほどの長さの紋様が、二行。これで、やっと全部…。

 通算で十一行、という常識外れに多い刻印を、ハルヴァイトは今日も諦めの溜め息で忘れることにした。

 せいぜい七行か八行あれば、グラン・ガンクラスの魔導機を臨界面に確保出来るという。それが、十一行。

 暗い青緑。青銅色の刻印は、いつもハルヴァイトを縛り付けている。

 それだけあったからこそあの「ディアボロ」を動かす複雑で高度なプログラムを常駐させ、起動エラーを回避するためのAIプログラムを置き、電速を上げるアクセラレーターを構築できるのだと、判っている。

 でもなぜ、そんなにも臨界が…ハルヴァイトに手を貸しているのかが、判らない。

「まぁ、わたしも現金なもので、昨日までは鬱陶しかったこれが、今では少し有り難くもあるんですがね」

「ディアボロ」という悪魔がいて、それでミナミの平穏が守れるならいい。とは、呆れた変わり身ではないか?

 がしがし髪を掻き回しながら、ハルヴァイトはさっさとバスルームのドアを開けた。そのうちミナミが目を覚ましたら、廊下に押し出したままの制服を見つけられて、またやる気なく文句を言われそうだ、と思ったが、それも、さっさと忘れる。

 明日の朝登城したら、展覧試合が終わるまでミナミには逢えない。だから、そんな他愛ない小言をBGMにしてもいいから、あのダークブルーの瞳に見つめられていたいとは、なんともミナミにとっては迷惑な希望…なのだろうが。

      

        

 音量を最大にしてあった外部端末が悲鳴を上げ、ミナミは驚いて跳ね起きた。

 一瞬何が起こったのかと辺りを見回し、バスルームの方から光が漏れているのに、ハルヴァイトがいつの間にか帰宅していたのかと思う。

「て、電信か」

 けたたましい着信音に顔を顰めつつソファを飛び降りて、時間を確認しながら端末の前へ…。深夜に近いのだから、もしかして城からの緊急呼び出しか? と首を傾げるミナミの前に現れたのは、どうやら風呂上がりらしい…というか、慌てて出て来てそのままに、髪も、タオルを乗せた肩もずぶ濡れのドレイクだった。

『よ、ハル戻ってるだろ?』

「…みたい」

 言いつつタオルを肩から引っ張り上げて濡れた髪を拭くドレイクの、裸の腕。画面の向こうだというのに、ミナミは一瞬ぎくりと全身を硬直させてそれから反射的に目を逸らそうとし、なぜか……やめた。

 思い出す、恐怖。に勝ったのは、少しの好奇心。

 頭のてっぺんに乗せたドレイクの上腕には、奇妙な刻印が記されていた。茨か何かをぐるぐると巻き付けたような、刺々しい模様。色は黒っぽく、浅黒い肌にうっすら浮かび上がっているように見える。

 それが多分、ハルヴァイトの言っていた「臨界占有率表示(プライマリ・テスト・パターン)」なのだろうと思う。ドレイクのそれは上腕に三行らしかった。

『みたいってなんだよ、そりゃ。緊急なんで、ちょっと呼んでくれねぇか?』

 あっさりと言われて、ミナミは一瞬迷う。

 素肌を晒されるのは…、と思ったが、彼はあえてそれを口にせず、「ちょっと待って」とかなり緊張した声でドレイクに言い置き端末の前を離れる。

 ここでもミナミは、好奇心に負けた。

 ドレイクの浅黒い肌に刻まれた紋様は、攻撃的で鋭角な印象。刺青のように腕を取り巻いたそれにミナミは、彼を臨界に繋ぐ鎖のよう、という感想を抱いた。

 では、ハルヴァイトはどうなのか…。

 リビングから廊下に出てすぐ、丸めたまま放り出されている緋色のマントを見つけて、思わず溜め息を吐く。

「まったく…」

 ぶつぶつ口の中で文句を言いつつそれを拾い上げ、ミナミはバスルームのドアを睨んで立ち止まった。

 深呼吸を一回。この中に居るのは、あの男達とは違うモノだと自分に言い聞かせて、無造作にスライドドアを引き開ける。

「ミラキ卿から緊急…………」

 そこまで言って、ミナミは緋色のマントをぎゅっと抱き締め、硬直した。

「あ…。目が覚めたんですね」

 振り返ったハルヴァイトが、言いながら少し困ったように眉を寄せる。

「というか、見られてしまいましたね。あまり…気持ちのいいものじゃないでしょう?」

 苦笑い。上半身裸のまま濡れた髪を乾かしていた彼は、二の腕で頬に着いた水滴を拭ってから、シャツを手にミナミに近寄って来た。

 足が竦む。相手がズボンを履いただけの半裸だから、ではない。

 腕と胴体に、青緑色の炎が燃えている。冷たい炎が、燃え盛っている。それから目が離せなかった。あまりの驚きに、言葉どころか呻きも出ない。

 ミナミは開け放たれたドアの正面に立ち尽くし、瞬きもせず、シャツを羽織るハルヴァイトをあの観察者の瞳で見つめていた。

 それは、炎。腕と、胴と、ハルヴァイトの話した通りなら、大腿部にも背中にもある、青緑のプロミネンス。

「? ミナミ…、どうかしましたか?」

 問いかけられても、ミナミは呆然とハルヴァイトを見つめたままだった。彼の視線を追いかけて、注がれているのが自分の胸元よりも少し上、ちょうどはだけたシャツとシャツの間を走る刻印の部分だと気付いたハルヴァイトが、ゆっくりとボタンを掛けてそれを…覆い隠そうとした。

「…………あ…」

 ドレイクは、臨界に囚われていた。茨の模様で。

 でもハルヴァイトは……。

 抱えていた緋色のマントを床にばさりと落とし、ミナミは無意識に手を伸ばしていた。

       

 …臨界は、そのひとを、燃やし尽くそうとしている。

       

「ミナミ!」

 反射的に身を引いて、指先が肌に触れる寸前でそれを避けたハルヴァイトに強く名を呼ばれたミナミが、はっと意識を取り戻した。それから、微かに驚いた表情で、身体に引きつけた自分の掌に視線を落とし、戸惑うように何度も瞬きを繰り返す。

 何が、ミナミに起こったのだろうか。

 ミナミは、何を考えたのだろうか。

 青銅色に燃える刻印に、何を感じたのだろうか。

「どうしました?」

 襟元まできっちりボタンをかけ終えてから、ハルヴァイトは困惑するミナミの顔を覗き込んでもう一度そう訊き返した。微かに俯いた彼をそっと…まるで叱られてでもいるかのような顔で窺ったミナミが、小さく首を横に振る。

「……ミラキ卿から緊急電信」

 口の中でごそごそ呟いたミナミがぷいっとハルヴァイトから顔を背けて、床に散乱した軍服を拾いつつバスルームのドアから退去する。その様子を訝しがりながらも、まさかこれ以上ドレイクを待たせられないと思ったのか、ハルヴァイトは生乾きの髪を大きな手で掻き上げて小さく溜め息を吐き、そのままリビングへ入って行った。

 見送った背中。そこにも、あの青銅色の炎が燃えて…いる。

 ミナミは拾い上げた軍服を抱えて、そのまま廊下の突き当たり、階段の手前までふらふらと移動すると、いきなりその場に座り込んでしまった。

 背を向けたリビングの方から、ハルヴァイトの声が聞こえる。ドレイクの声は聞こえないから、何かを苛々罵っているらしいが、それが一体何についてなのかは判らなかった。

 それさえどこか遠いモノのような気分で、ミナミは抱えた緋色のマントをぎゅっと握り締めた。

 戸惑ったのは、感じなかった恐怖に対して。晒された肌と、首筋に貼り付いた長い髪。それにミナミが身構えたのは、一瞬で自分の記憶に囚われてしまう事だったはずなのに、それさえも、あの青緑色の炎に溶けてしまった…。

 だから、そう、触れてみたいのはあの「炎」。

 五十八人の、忘れられない恐怖。その中にあの刻印を持つ人間がただの一人も含まれていなかったのは、偶然の、幸運。

「あの男達とは…、違う。そうじゃねぇ。あのひとは…」

 ファイランに住まうどんな「人」とも……………違う。

 でも、恐い。それは…新しい不安。

 壁に向かって膝を抱えたミナミが、微かに震える溜め息を吐く。

       

 臨界が………………。ミナミの知らないその場所が、ハルヴァイトを…。

    

「…………ミナミ?」

 刹那、リビングから顔を出したハルヴァイトに呼ばれ、呼ばれた途端、なぜかミナミはぎくりと全身を震わせて、恐る恐る…ぎくしゃくと彼を振り返った。

 その、怯えたダークブルーの瞳に見据えられて、ハルヴァイトが思わず口を噤む。

 言って置かなければならない事が出来た。ハルヴァイトは、明日の朝登城する。それまでに…、外から聞こえてしまうくらいなら、自分で…展覧試合に出るのだという告白をして置きたい。

 なのに、何か、ミナミは、怯えている。

 やや薄い唇をきゅっと噛み、ミナミはハルヴァイトから一瞬視線を逸らした。しかしすぐに気を取り直したのか、立ち上がって、抱えていたハルヴァイトの軍服を階段に置き、身体ごと彼に向き直る。

「ごめん…。何?」

「…ちょっと話があるのですが、今日はやめにしたほうがいいですね」

 うっすら微笑んだハルヴァイトが、リビングに消えようとしたのをミナミは、少し迷ってから呼び止めた。

「あの…さ」

 言われて、ハルヴァイトがもう一度ミナミに視線を向ける。

 透明度ゼロの鉛色。それがぴたりと自分に据えられた、と判って、ミナミは…ほっと胸を撫で下ろす。

「…あの…」

 不意に俯いたミナミが、しきりに自分の髪を掻き回した。

「どうしました?」

 一歩も動かず微笑んだままのハルヴァイトは穏やかな声でそう問いかけたが、それ以上ミナミを急かすような真似はしない。

「………俺…、なんか色々、時々おかしな事になって…、だから今も別に、アンタがどうとか…、そういう訳じゃねぇんだけど…」

 ハルヴァイトというミナミの恋人は、待つ事に、慣れきっている。

「ただその、緑色の……それが…」

 ようやく顔を上げたミナミの表情に、ハルヴァイトは不思議な違和感を感じた。

 いつもと大差ない、とは言い切れない、複雑な表情。始めの頃に比べて最近は、多少判りやすく笑ったり怒って見せたりするようになったものの、基本的にミナミの表情は大きく変わらないし、感情を露わにすることも少ない。

 だからそれが、もっとも判りやすい「恐怖」ではないその表情が何を意味するのか、ハルヴァイトには判らなかった。

 気付かない。あのいつも眠たげなダークブルーの瞳が、静謐な観察者としてではない別の何かを閉じこめて、じっと自分を見つめていた事に。

「………………ちょっと、びっくりしただけ」

 口を衝いて出そうになった本心を飲み込み、ミナミは微かにそう呟いて、笑った。

「で? 何?」

「…………」

 それがもしかしたら嘘かもしれないと思いつつ、ハルヴァイトは小首を傾げてキッチンを示し、いつも通りの笑みをミナミに向ける。

「こんな時間でなんですが、珈琲でも煎れましょうか? それとも、カフェ・オ・レがいいですか?」

 誘われて一歩踏み出したミナミが、ちょっと難しい顔をした。

「こういう時って、別なモン勧めるのが大人じゃねぇのか?」

「…あなた……、未成年でしょう」

「そうだっけ?」

 言って、ミナミはなぜか、ふわりと笑った。

  

   
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