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    4.5スイート=スイート・ルーム    
       
(ルームナンバー1006)

  

「一緒にお風呂に入りましょう!」

「…それは構わないけど、マーリィの長風呂に最後までは付き合えないわよ…」

 即答で切り返されて、マーリィは真白い頬をぷっと膨らませた。

「アリスの意地悪ぅー」

「一時間もバスルームに閉じこもってたら、ふやけてしまうわ」

 大仰に肩を竦めてから赤い髪を手で払い、アリスがすたすた歩き出す。

「せっかくのスィートなのにぃ」

 ぱたぱたと底の薄い靴で絨毯を叩きながらアリスの後ろを着いて歩くマーリィは、早速ワンピースのジッパーを下している。腕に掛けていたフード付のマントをソファの背凭れに預け、寝室のドアを開けて中を確かめてから忙しく室内を歩き回っていちいち歓声を上げ、最後にバスルームに飛び込んで行くのを、アリスも長上着を脱ぎつつ微笑ましい気分で見つめる。

 突然の事で二人とも着替えなど持っていない。だからアリスは、マーリィが「はやくねー」とはしゃいでバスルームに消えるのを見届けてから寝室に踏み込み、備え付けのクロゼットを探ってローブを二枚抱え、一瞬、立派なダブルベッドに視線を馳せた。

「…勇気ある選択ね、ミナミ。君の決断に感謝するのが、ドレイクとウォルだけじゃない事を望むわ」

 呟いてアリスは、短く意味の深い溜め息をそっと吐き出した。

   

   

 浴室は、無駄と思えるほど広かった。

 中央には、大人が五人余裕で入れそうな円形のバスタブが、床に半ば以上埋め込まれている。既に泡を吐き出し始めたジェットバスに肩まで沈んだマーリィがうっとりとくつろいでいるのを笑いながら身体を洗い、長い髪を頭の上に巻き上げたアリスがそれに爪先を沈めると、少女はぱしゃぱしゃ水を掻いてアリスの傍らに移動して来た。

 はにかんだ笑いのかわいい恋人。白い髪も睫も頬も唇も水滴で濡らした真紅の瞳に微笑みを返してから、アリスはそっとマーリィの可憐な唇にキスを落とす。

「…ミナミさんて、本当に綺麗な方よね。アリスの言った通り」

「でしょう? しかも、マーリィの次くらいにカワイイわよ」

「綺麗で、優しくて。……最近ハルにーさまが訪ねて来て下さらないのはちょっとさみしいけど、ミナミさんのためなら、我慢してもいいかな」

 細やかな泡から覗く細い肩に唇を押し付けて、アリスは微かに表情を曇らせた。

 一週間のうち半分も家に帰れない職務。それで、おいそれとひとりでは外出出来ないマーリィに寂しい思いをさせていると判っているものの、アリスには退役出来ない事情がある。

「ごめんね、マーリィ…」

「ううん、いいの。それでね、アリス。今度、ハルにーさまのお家に…ミナミさんの所に遊びに行ってもいい?」

 あっさりと言ったマーリィに、アリスは驚いた顔を向けた。

「それは…」

 口篭もるアリスを、マーリィの赤い瞳が見つめる。

「フローターが入れる所まではリインが送ってくれるわ。だから大丈夫。だって、ねぇ、アリス。わたしは自分の足で人ごみを歩けるのよ? 例えば無視されたり、例えば罵られても、気にならないの。でも……ミナミさんは違うわ」

 ミナミは人ごみを歩けない。どんなに気持ちが前へ進めと身体に命令しても、足が竦んで動けない。

「それでも、ミナミさんは今日ここまで来たの。ハルにーさまに会いにだと思う…。ステーションで困っていたわたしのために、何かしようとしてくれたの。ミナミさんは…」

 涼しい顔で、必死にもがいている。

「隠れ住んで護られてる自分が、恥ずかしくなった」

 両手で泡を掬ったマーリィは、そう呟いてにっこり笑い、ぺしゃ、と細やかな泡を自分の頬に打ち付けた。

 マーリィという、外界から隔離されて来た少女がいつか自分で外の世界に向い合い、挑戦的に生きようとするだろう事を、アリスは覚悟していた。華奢で可憐な外見に見合わず、マーリィは気が強い。出来れば、王立図書館の司書室で働きたい、と前から言ってもいる。それをもう少し、もう少し、と引延ばしているのは他でもないアリスで、外に出てマーリィが傷付くのを避けるため、という建前に隠れているのは、慰めきれない重大な何かを少女が抱えてしまう恐怖でしかない。

 遺伝子異状で子供が産めない女性の中には、貴族相手の高級娼婦もいる…。果敢にも一般生活を望んで居住区に住まい、仕事をし、しかし、心無い都民の好色な眼に晒されて、結局、強姦され命を絶った者さえ居ると聞く。

 浮遊都市という、狂った閉鎖君空間。

 ミナミはその犠牲者で、……マーリィまで犠牲者にはしたくない…。

「…マーリィ…」

「ウォル様がよく言うでしょう? 誰かを傷付けないで自分が幸せになれると思うな、って。だからね、わたしは…自分が傷付かないで誰かが幸せになるなんて出来ないんだと思うの。わたしはアリスとクラバインにいさまのご苦労があって、今、幸せだわ。巻き込まれたドレイクにーさまやハルにーさまも、苦労さなさってると思う。それに…」

 不意に、マーリィが俯く。

「……クラバインにいさまは…」

 アリスにも、マーリィの暗い表情の意味がすぐに判った。

「レジーナさんが、一番傷付いたでしょう?」

 意図的に誰もが避けている名前。

 ウォルがドレイクを得るためにアリスが巻き込まれ、アリスがマーリィを得るためにクラバインが巻き込まれ、ハルヴァイト、グラン、ローエンス、リインが口裏を合わせ、全ては秘密というオブラートで包まれた。

 そしてその秘密を生涯守るためにクラバインは、レジーナ・イエイガーという、クラバイン・フェロウが生涯唯一心を許した友であり、恋人であり、最良の側近を遠ざけなければならなくなったのだ。

 クラバインは自分にも部下にも厳しい人間だった。今まで何人もの部下が突然首を切られ、衛視団から警備軍監視部署に降格されて、王城エリアから他のエリアに飛ばされた。その、降格された中で唯一、理由のはっきりしないまま移迭されたのが、他でもないレジーナだった。

 見つからなかったのだ、とクラバインは溜め息のように言ったはずだ。どこにも落ち度がない。きっとレジーナは、クラバインのためなら陛下の「秘密」を墓まで持ち込んでくれただろう、と今でも、誰もが思っている。

 それではだめなのだ、とクラバインは、あのバカ丁寧でどんな時でも取り乱す事さえしない男が、俯いて悲痛に顔を歪めた事を、誰もが憶えている。

      

「秘密を持ち続ける事は出来るかもしれませんが、よもやその秘密が白日の下に曝され、彼を投獄しなければならない恐怖に、私は耐えられません」

     

 決別する事でクラバインはレジーナを護り、愛した。

 レジーナは不当な扱いに怒る事も泣く事もなく、ただ「二度とお前の顔など見たくない」と言い置いて、移送されて行った。

 それ以来、クラバインは側近たる秘書を置かなくなった。何もかも全てひとりでこなすようになり、結果、ろくろく寝ていないのではないか? という生活を、今でも続けている。

 最悪の犠牲者は、今、消息不明なのだ。

「…ドレイクはレジーを呼び戻そうとしているわ…。今日ね、試合直前にアリスとミナミがステーションに来てるって聞いて、あたしとハルは控え室から飛びだそうとした。その時、ドレイクが言ったのよ…、自分はマーリィの事情もミナミの事情も本当に判っているとは言えないかもしれないけど、判ろうとする努力を惜しんだ事はない、って…。腹が立つけど、そういう人だから誰もウォルとドレイクを憎めないし、怨めない。まぁ、さすがに今回のウォルのいたずらには…」

「違う、アリス」

 溜め息を吐いて天井を見上げたアリスのセリフを、マーリィがきっぱりと遮る。

「ウィル様は、ミナミさんにハルにーさまの本当の姿を見せたかっただけ。そしてウォル様は、わたしにも出来る事があると教えてくださっただけだわ」

「?」

 不思議顔のアリス。その赤い髪を結い上げているリボンを解いて湯船に落し、マーリィは微笑んだ。

「みんな忙しかったでしょう? 今日は。わたしは、ドレイクにーさまやローエンスおじさまが来られるまでの間、ミナミさんのお側にいる大役を仰せつかったのよ、きっとね」

 本当の所は判らない。例えマーリィの予想が正解だとしても、ウォルが素直に、その通り、などと言ってくれる訳もないし…。

「…今日は少しだけ、ウォル様の口癖の意味が判った。でも、もしかしたらその口癖を否定出来るかもしれないって、そうも思った」

 さらさらした湯を掌で掬い、さらさらと流れ落ちるのを見ながら、マーリィが呟く。

「ミナミさんは、諦めてないみたいだから」

「? ミナミが、何を?」

 亜麻色の瞳を覗き込んでいたマーリィが、アリスに這い寄って来てその首にしがみつく。

「…ここに第七小隊が泊まるっていう事は、結局、ドレイクにーさまとウォル様に、少し時間をあげるって事でしょう?」

「でも、ハルヴァイトは………」

 戸惑いがちなアリスの頬に頬を押し付け、マーリィがそっと笑みを零す。

「ちゃんと、ミナミさんはハルにーさまに「触れた」じゃない? ディアボロは…間違いなくハルにーさまの「一部」だもの」

 それを嫌っているのはハルヴァイト自身なのだろうが、ディアボロは紛う事なくハルヴァイト・ガリューの「一部」だと言えた。ハルヴァイトが物を考える速さで動き、ハルヴァイトのように情け容赦なく、ハルヴァイトのように…。

「ディアボロ…」

 呟いて、アリスは可憐な恋人の雪より白い髪を指で梳き、ほんのりと紅色に上気した首筋にキスを見舞う。

「……AIだってハルは言うわ」

「? えーあい?」

「正式には、臨界式人工知能プログラム。臨界面で常に現実面の学習と行動シミュレーションを繰り返してる、つまり電脳ね。これにログインする能力があるから、ハルたちは電脳魔導師って呼ばれるのよ」

 普段あまり軍の話をしないアリスが、亜麻色の瞳で泡立つ水面を見つめたまま話す、聞いた事もない単語。マーリィはアリスに寄り添ったまま小さく何度も頷いて、必死にそれを聞き逃すまいとした。

「AIがあると言っても、実際は外部ファイル…現実面で展開される命令陣で動いてる事が多いのよ、魔導機って。本当は、命令しなくてもAIが自己判断である程度の回避や防御、初期攻撃なんか出来るようになるって言うけど、グランおじさまでさえ学習範囲はあくまでも「戦闘」に限定してるらしいわ」

「………いっぱいいっぺんには憶えられないって事?」

「魔導機は人間じゃないもの、日常生活は送らないでしょう? だから、学習出来る範囲が限定されてしまうという事」

「あ、そっか」

 むーん。と難しい顔をしたマーリィの手を取って、アリスはまだ続ける。それは少女に何かを教えているというより、自分が、何かを納得するための作業に見えた。

「…でも今日のディアボロには、おかしな事が多すぎる」

「どこがおかしいの?」

「一番目立ったのはやっぱり、ミナミじゃない?」

「うやうやしく接吻してたものね」

「あんなプログラム外部ファイルで仕込むほどハルだって暇じゃないだろうし、第一、自分が一番驚いてたわ、彼。だとしたら、あれはAIが勝手にやった事になる。それにその時…直前からか…」

 口篭もったアリスの横顔を、マーリィが斜めに覗き込んだ。

「臨界接触陣の稼動は確認してたのに、現実面に陣映がなかった。しかもあの大技を出すのに、なぜかハルは全部の陣を消したし…」

「おおわざって…あの最後の?」

 無言で頷く、アリス。

「あれが…」

 どういう構造のプログラムなのか判らない、と言いかけたアリスのセリフを、マーリィの呟きが遮る。

「あの時…、全部の陣が消えて、ディアボロの背中に三本だけ文字列みたいなのが出たでしょ? 尻尾というか…ケーブルみたいに空に消えてたの」

「えぇ…」

「ミナミさんがね、それを見た途端に笑い出して…、それがあんまり急だったものだから、ウォル様も心配なされてしまうほどだったのよ」

「笑った? なんで?」

 あの無表情な青年が周囲を驚かせるほど笑うなど、奇蹟に近い。

「判らない。でも、なんでアレが「悪魔」なのか、って、しきりに訊いてらしたわ」

「………………」

 ディアボロの、ハルヴァイトの、そして、ミナミの意味不明な行動。

 アリスは恐い顔で泡立つ水面を睨み……。

「……だめ、のぼせそうだわ、このままじゃ」

 ふうっと溜め息を吐いて、マーリィを置き去りにバスタブを出た。

「えーーー。もう上がっちゃうのぉ」

「もう上がっちゃうわよ」

 真っ赤な髪を手で纏めて絞りながら、アリスが微かに口元をほころばせる。

 つまり、彼らには彼らだけが知る「何か秘密」があるのだ。なんとなく、それを根掘り葉掘り探ってはいけないような気がして、アリスはあっさりとマーリィの意見に賛成する。

 ハルヴァイト最大の恋敵はディアボロ。でいい。

 背後でばしゃりと水音。振り返れば、マーリィもすっかりピンクに上気した肌を晒し、バスタブから出て、なぜかじっと、佇むアリスを見つめている。

「どうかした? マーリィ」

「……。ねぇ、アリス…」

 水滴を纏った全身が、真珠のように見えるマーリィ。幾分青みがかった白髪も、全てが内側から輝いているようで、アリスはゆっくりと少女の正面に戻り、その頬に掌を当てようとした。

「触らないで」

 やや哀しげに曇った真紅の瞳が何かを訴え、伸ばした指先を所在無くあげたままのアリスが、戸惑うように小首を傾げる。

「…とても好きよ、アリス。今こうして、たった一瞬、触れ合わない距離を置いただけでも、哀しくなるほど。……じゃぁ、ミナミさんは? ハルにーさまは? どうなってしまうの?」

 震える声で問い掛けてくるマーリィにアリスは、何も答えてやれなかった。自分はミナミでないから、ハルヴァイトでないから、という言い訳を取り去れば、残ったのは、ただただ戸惑うだけ。

「……これ以上、好きにならないようにするだけ?」

「それは違うわ」

 身体に張り付いた真白い髪を指で退けながら、アリスはそっとマーリィを抱き寄せた。

「キス…」

 許されたくちづけ。

「…しようか、マーリィ」

「? なんで?」

 髪を撫で上げ額を晒した子供っぽい驚き顔を小さく笑ってから、アリスは柔らかな唇でふくよかな少女の唇に一瞬だけ触れた。

「なんでって…。キスって、意味がなければしちゃいけないもの?」

「そうじゃないけど…」

 改めて聞き返されたのが珍しかったのか、マーリィは少し困ったように眉をひそめて、アリスの腕の中で小さくなった。

「じゃぁ、好きなら許される?」

「許されるっていうか…」

 しどろもどろになって答えようとするマーリィの小作りな顎に指を掛けて仰向かせたアリスは、微笑んだままの唇で恋人にくちづけをねだる。

 戸惑いながら触れて、すぐ離れる可憐なくちづけ。当たり前に交わされるそれは「日常」で、しかし、くちづけ「だけ」しか許されていない恋人同士は…。

「大丈夫よ、マーリィ。あのキスには、とても深い意味があるわ」

  

   
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