■ 前に戻る   ■ 次へ進む

      
   
    5ハガネ ノ ヒト    
       
(8)

  

「…だから、どーして君はこうバカなのかなぁ」

 リビングのソファにだらしなく伸びきったハルヴァイトの傍らに腰を下ろし、アリスはどうしようもなく呆れた口調でそう呟いて、真っ赤な髪を何度も何度も掻き上げた。

「そういう状況が、臨界と君らの関係をよく知らない人間にとってどれだけショックなのか、ドレイクの時で判ってたでしょう? ハル」

「……はい。すいません」

「すいません、じゃないわよ、もう…。あの時だって、ウォルがよ…、取り乱すどころか、自分とドレイクの関係上あたしたちにさえそうそう大袈裟に感情見せた事ないあのウォルが、倒れたドレイクの側で半日もわんわん泣いたんだから、君だって身に染みてると思ってたのに」

 顔の前に腕を翳していたハルヴァイトが、短い溜め息を吐きながら、もう一度「すいません」と消え入りそうに謝ったのに、アリスが亜麻色の瞳だけを向ける。

「………ミナミに心配かけたくないのは判るけど、君はせめて、自分の問題を彼に話してあげるべきなんじゃないの?」

 咎めるような口調に、ハルヴァイトは答えられなかった。

「君、間違ってるわ」

 アリスの声は、明らかに苛立っている。その理由が判るようで判らないハルヴァイトが顔の上から腕をどけ、幾分まだ熱っぽい鉛色の双眸を向けて来たのに、アリスはきっぱりと言い返した。

「それが判らないなら、ミナミは返さない」

「………アリス、それは…」

「だって、君は判ってないのよ。なんでもひとりで出来る君は、ただ側に居ればいい、っていうのがどれだけ苦痛なのか、少しも判ってあげようとしないんだもの」

 身を起こそうとしたハルヴァイトの肩をやんわりとソファに押し戻し、アリスが首を横に振る。

「ミナミは、君に話さないで欲しいって言ったわ。でも、これはあたしとミナミの問題じゃなくて、君とミナミが話し合う問題なんだから絶対に話す、って言って出てきたのよ、あたし。まさか「接続不良」起こした君に遭遇するとは思ってなかったけどね」

 アリスは言いながらテーブルの向かい、いつもはミナミが座っているソファに移動しながら、少し暗い顔で続けた。

「ミナミね、ウチに来た時、もう一歩も動けない状態だったの。青い顔で玄関に座り込んじゃって、マーリィの方が今にも泣きそうな顔してたわ。それなのに、何でもない、って繰り返すばっかり。あたしもマーリィもどうしていいのか判らなくて、ハルに電信入れて迎えに来て貰うからね、って言ったら、ようやく…白状したのよ」

 白い灯りが眩しくて、ハルヴァイトは寝返りを打った。

「どこか…それがどこなのかは絶対に言わないんだけど、その「どこか」に行こうと思って、そこしか残ってないけど、行きたくない。って。そういう風にハルから「逃げる」のはイヤなのに、それしか思い付かなかった自分が情けないっても言った。でもね、ハル。ミナミにそう思わせたのは、君だわ」

 何か言いたげで、でも言葉が見つからないのか、一言も発しようとしないハルヴァイトを見つめて、アリスが険しい表情で言い放つ。

「…………訊いちゃいけないんだって、ミナミは言ったのよ? 何かあっても「側に居るだけ」の自分は結局何も出来ないんだから、聞いても…ダメなんですって」

「ミナミは、何を訊いてはいけないんだと言ったんですか」

 ようやくそれだけ呟いたハルヴァイトに、アリスは首を横に振って見せる。

「何も、よ。君の事はひとつも、どんなに気になっても、訊く気はないんですって」

「そんな…」

 どう答えていいのか判らずに、ハルヴァイトが溜め息みたいに囁く。その横顔を少しの間見つめていたアリスは、ふっと短く息を吐いて、ねぇ、となんの感慨もなく呟いた。

「何もしないで居てくれていい、っていうのは、体のいい言い訳だわ。どうして君は、それにミナミが耐えられないって判らないの? あたしもマーリィも、多分ドレイクも、これだけは判ってるのに」

「……ミナミがああ見えて、自分の置かれた境遇に大人しく閉じこもっていられない、という事ですか?」

「……………………」

「だからいつでもミナミは、何かしようとする時、わたしに一言もなく行動する。わたしがそれを停めるだろうと、ミナミは知っているからなんでしょう? でも彼は、出来る事を精一杯やりたいと思って…」

「じゃぁ、どうしてそれだけ判ってるのに、君はミナミを信用してあげないの!」

 握り拳を、どん! とテーブルに叩きつけたアリスをぼんやりと見つめて、ハルヴァイトは失笑した。

「ミナミが傷ついてからでは、遅い」

「臆病なのは君だけ、ミナミはそれを恐れてない!」

「わたしは臆病なんじゃない。ミナミの居るファイランを…………憎みたくないだけです」

 言って、ハルヴァイトが眉間に皺を寄せ瞼を堅く閉じる。

「…すいません、アリス。暫くミナミを預かってください。あなたもご存じの通り、わたしは、とうの昔に精神制御用のプログラムを崩壊させてしまっています」

 ハルヴァイトの呟きを掻き消すように、アリスの後方であの荷電粒子が爆裂した。

「衝動的な感情を「ハード」に残したまま臨界に接触する事が非常に危険だというのは、知っていますね?」

「……知ってるわ」

「通常、臨界にアクセスする魔導師は「感情」をハード内で、読み出し不可の深層パーテーションに隔離し、冷静な「第三者」として臨界に接触しますが、わたしは…それが出来ない」

 ばかげた話だ、とハルヴァイトは、明滅し文字列に切り替わって行く風景を見るまいと瞼を閉じたまま、薄く笑った。

「機械機械と言われているわたしこそ、魔導機を動かす電脳機械になれずにいるなんて、誰が信じるでしょう…。でも実際問題、気分ひとつで臨界の荷電粒子が現実面に漏れ出して来る。ディアボロを動かしている間、わたしはいつも…どうしようもなく狂っている」

 心配させたくないのではない。不様な姿を見られたくないのでもない。

「わたしはミナミに、傍にいて貰いたいんです。…本当に、それだけなんですよ、アリス」

 臨界は、莫大なデータを貯蔵した数値の海だった。

 生き物は、いない………。

          

         

 まだ何か言い足りないアリスがそれでも渋々と帰り、ハルヴァイトはまたソファに寝転んでうとうととまどろんでいた。

 孤独とか、寂寥とか、ネガティブな文字列を一つずつ思い出し、爪の先で押し潰すように忘れて行く。それは、小さくて無害な虫たちの命を、呆気なく取り上げる作業に似ていると思えた。

 有って困る物でもない。でも、大群になると薄気味悪い。しかしそれがこの世に存在しているというのには、意味があるのだろう。でも、その意味は判らない。

 だから、無意味。

 自分は、無意味。

 奢った言い方かもしれないが、ミナミの気持ちが判らない訳ではない。とハルヴァイトは、不安定な意識で「バグ」を処理しながら思った。

 不必要なデータを脳内から削除する単純作業は、無意識に進む。

 全ては数値で表される。いま瞼を上げたら、自分の実体さえ目視出来ないだろう。それほどまで臨界の干渉率が上がっているのを不思議だとは感じなかったが、なぜ、そのデータの中で鮮明にミナミの姿が思い浮かべられるのかは、ひどく不思議だった。

 文字列は、無意味。

 ミナミは、そこに「居る」。

 徐々に、意識が霞んで来る。

 バグとデータの「滓」が消え去って処理が終了すると、ハルヴァイトは束の間眠りに落ちる。毎秒二十五億電素、という桁外れな高速で自身の持つ全てのデータにアクセスしている現在、通常、人の持つ「脳内不使用領域」を八割以上解放した状態になっているのだ、疲れない訳がない。

 眠る事で人は身体と脳を休める。

 そしてハルヴァイトの眠りを、ドレイクはこう称した。

              

「…おめーのは寝てるんじゃなくて、意識不明なんだよ…。何も見ない、何も聴かない、何も感じない。だからおめーのはよ…」

           

 生きるのと死ぬのを繰り返している。

 ハルヴァイトは生まれてから一度も、「夢」を見た記憶がなかった。

         

   
 ■ 前に戻る   ■ 次へ進む