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    5ハガネ ノ ヒト    
       
(9)

  

 何かが唇に触れた。

 それはとても冷え切っていて、形状が不明瞭。

 撫で過ぎたそれが、もう一度戻って来る。

 触れ合っている時間が、今度は長い。

 だからだろうか、少し暖かいと思った。

 これは、何なのか―――。

 でもまた、すぐ浅い眠りに落ちる。

 落ちる間際、彼はふらふらと手を伸ばした。

 ……………ひんやりとした、滑らかで柔らかな「何か」に指先が触れる。…まるで…。

          

 これが「夢」なのか。と彼…ハルヴァイトは、浅い眠りに墜落しながら、思った。

         

           

 物音に気付いてはっと瞼を上げたハルヴァイトの視界が最初に捉えたのは、薄暗い天井。それから、微かにキッチンから射し込んでくる、仄白い灯り。

 この家に鍵なしで入れる人間は、数えるほどしかいない。まず、ドレイク。それから、アリス。確か、リインも合い鍵を持っていたはず。

 それと…。

 大分ゆっくりとした思考でそれらを確認し、正解は、今まで上がったどの人でもない事を、ハルヴァイトはややぼやけた視覚で確かめた。

 青緑色に光る数字の群れと、それが「現実面」に再構築されている途中である事を示す半透明の様々な物たち。毎日目にするスツールやテーブル、果ては壁、ドア、家そのものまでが、現実味のない薄っぺらな二次元映像に見える中で、なぜかやはり、ブルーグレーのシャツを纏って無関心そうに中空を見つめ、両手で湯気の立ち上るカップを包んだミナミの姿だけが、有機物的質感を持って燦然とそこに存在していた。

「………接続不良が、改善されない…」

 いわゆるクリーンアップとデフラグは終了し、マスター・システム内の「ハルヴァイト・ガリュー」は正常に現実面と接触している。説明しようとすると相当面倒だが、端的に言うならば、あっちとこっちのハルヴァイトがシンクロしているのだから、つまり普通の人間が「お前は臨界ジャンキーなのだ」といかに言い募ろうとも、彼は彼なりに彼として普通の状態にある。が、臨界と現実面のデータがとてつもない電速で通信し続けているせいで、こっちのハルヴァイトは今だ「現実をデータから現実として構築する作業」に手間取っているのだ。

 ……いや、それだって、本人以外には判らない異常事態でしかないが…。

「違うか…」

 もしも接続不良ならば、ミナミだけがちゃんと構築される訳がない。だとしたら…。

「ミナミ」

「…………。なんだ、いつの間に目ぇ覚めたんだよ…、アンタ」

 いつもと変わりない口調で呼ばれ、ミナミは座ったままうっそりとリビングに顔を向けた。キッチンとリビングを隔てるのはカウンターだけなので、多少距離は遠いがそれさえ気にしなければ普通に会話出来る。

「今です。あなた…、どうして戻って来たんですか?」

 意外にも冷たく言い放って、ハルヴァイトは身を起こした。

「帰ってくんなって言われたから」

 眉間に縦皺を刻み、殆ど手探りでソファの背凭れを掴み恐る恐る起き上がった、ハルヴァイト。

「帰って来るな、とは言いませんでしたよ。もう少しアリスの所に居ろ、的な発言はしたと認めますがね」

「どっちでもいいよ。いや、よくねぇか…。でも、どうでもいいや」

「今は来るな、と言われたから戻って来た?」

「うん。どうも俺って、そういうキャラかと思って」

 言いながらミナミは、カップをテーブルに置きカウンターに歩み寄って来た。さすがに、何やら不機嫌そうな顔をしてあちこち手探りするハルヴァイトの様子がおかしいと思ったのか、ミナミはカウンターに身を乗り出し、ちょっとだけ沈んだ声で、「おい」とハルヴァイトを呼んだ。

「…アンタ、何やってんだよ…」

「すいません、ちょっと待ってください。ソファのデータがどこかに紛れ込んでしまって、上手く探せないんですよ。構築手続きを取らないとここから転げ落ちても現物が判らないので、とりあえず周囲だけでも現実面を三次元認識しないと」

(さっぱ判んねぇ…)

 と思いはしたが、ミナミはハルヴァイトに何も問い掛けなかった。

「……なんでこう平面数値が多いんだ? あぁ…掃除してあるからか。という事は…、これが………テーブルかな。固有名詞の書き込み作業をさぼってたツケが…」

 ぶつぶつ言いながら何かを探るハルヴァイトの横顔が、ひどく苛立っている。

「ミナミ、マントルピースの上にある通信機を、内線でオープンにして貰えます?」

「?」

 言われたミナミが、無言でリビングに踏み込む。

「移動個体…。のデータが…ない?」

 陽炎と文字列の中を泳ぐように進むミナミを目で追いながら、ハルヴァイトは首を傾げた。

「構築終了でハネられた?」

 意味不明の呟きを漏らすハルヴァイトに見つめられ、なぜだか非常に居心地の悪い気分を味わいながら、ミナミが通信機のスイッチを入れる。

「余白…………。そうか、読み取りしてないんだ。………だったら…、判った」

 居心地の悪さ。それがなぜなのか確かめるように、ミナミがマントルピースの前に佇んだままハルヴァイトを見つめ返す。

「余白。データがない。だから判らない。判らないから、臨界はミナミをデータにしない。となれば」

「…………………アンタ…、俺の事、見えてんの?」

「見えてますよ、ミナミ、だけはね」

 自嘲気味に言って、ハルヴァイトもミナミをじっと見つめる。

 それで、ミナミは判った。

 視線。不透明な鉛色の瞳から注がれている視線が、あまりにも冷ややか過ぎて居心地が悪いのだ。いつものように笑うでもなく、だからと言って明白に怒っているとか、そういう感情を示すでもなく、多少苛立っているようには見えるが、ハルヴァイトはまるで、無味乾燥のややこしい公文書だとか、まるっきり興味のない雑誌だとか小説だとか、もっとひどい言い方をするなら、「自分に全く関係のない無機物」でも見ているような顔つきをしていた。

 なんとなく………、傷ついた。

「……言っている事とやっている事が非常に矛盾していて申し訳ないのですが、わたしはあなたに「まだ戻って来るな」という意志は伝えたはずです、ミナミ。だから今日ばかりは、あなたがそんな顔をしても謝りませんからね」

 珍しくそう言い切って、ハルヴァイトはミナミを見つめ続ける。

「………………」

 痛烈なしっぺ返しを喰らった気分だった。ミナミにしてみれば。今まで…、それほど無関心だったとは思いたくないが、ミナミも何度となくこんな視線でハルヴァイトを見ていたのだろう。もしかしたら。いつか居なくなるミナミが必要以上にハルヴァイトの問題に首を突っ込まない、というのはつまり、自分に対しては体のいい言い訳で、それ以外から見れば、こんな風にハルヴァイトを「自分に全く関係のない無機物」と分別していたのではないか?

 言葉も出ないミナミに顔を向けたまま、ハルヴァイトはにこりともせず機械的に口を開く…。

「臨界との通信電速を維持したまま、{n}を現在位置に固定。固定位置よりデータを三次元に再構築。……。ミナミ、そのまま動かないでください」

 言い終えた途端、ハルヴァイトの斜め後方、上空に、直径八十センチほどの電脳陣が出現し、細かい荷電粒子を撒き散らしながら高速回転し始める。

「実行待機」

 ハルヴァイトの頭上にあった電脳陣が不意に消え、消えたと思うなり、ミナミの足下に瞬間移動して、発光。

「………エンター」

 直後、鋼のように抑揚ない声が、電脳陣に実行命令を下した。

 刹那。

 パァン! と甲高い音を伴ってミナミの足下に展開していた陣が弾け跳び、瞬間、ミナミは見た。

 視界に入る全てが一瞬陽炎のように透明になって歪み、青緑色の細かな数字と入り乱れて目まぐるしく乱舞する、幻影。それが自分の足下を中心に放射状に派生し始めたワイヤーフレームに書き換えられ、その先端を追いかけるように広がる極彩色の絨毯が景色を舐めると、正体の知れなかった陽炎と文字列が立ち上がって色と質感と立体感を取り戻す、幻影…。

 違う。とミナミは思った。

 それは幻影ではない。一秒か二秒で視界が正常に戻り、だから、ミナミにも判る。

 ハルヴァイトは、ずっとこれを見つめていたのだ。だから、彼はまるで「自分に全く関係のない無機物」を見るような顔をしていたのだ。陽炎と文字列。それにどういった感情を抱けばいいのか? 歪んだ透明と明滅を繰り返す数値。アルファベット。それしかない「世界」を、どう受け止めればいいのか? 人もいない、物もない、ただデータだけが反乱する「世界」と、どう付き合えばいいのか。

「世界」は「自分に全く関係のない無機物」。

 そう受け止めるしか、ない。

 しん、と静まりかえったリビングで、ハルヴァイトが小さく溜め息を吐く。

「見ました?」

「…見た」

「なら、わたしが今まであなたに何を隠していたのか、判りますか?」

「…判んねぇよ…、当てずっぽうの予想は出来るけど」

「では、その予想は?」

 今はもう普通に「現実」を現実として見ているのか、ハルヴァイトはいつものように流麗な動作でソファに座り直し、また一つ疲れた溜め息を吐いた。

「…………………何もかも、どうでもいい…」

「残念ですが、違います」

 言ってハルヴァイトは、微かに、失笑した。

         

   
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