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    7.ラプソディア    
       
(11)

  

 所詮「世界」はつまり、データで出来ている。

 だから、そのデータが正しく構築されているのか判らないから、この、目の前に広がっている「世界」が本当に「世界」の正しい姿を再現しているのかどうか、判らない。

 結局「世界」は、つまりデータで現せる。

      

 そのデータを不確定で不安定なものに変えるそれをなんと呼んでいいのか、ハルヴァイトはずっと考えていた。

 そうか。と思う。

「……性質(たち)の悪いウィルス」

 潰しても潰しても潰しても潰しても取り除けない、ウィルス。この場合それは感染しないが、繁殖速度が桁外れに速い。

 そのウィルスに冒されて、ハルヴァイとはどうなってしまうのだろう。

 頭痛と発熱。

 いや、まったくだ。

 全身筋肉の萎縮と思考能力の低下。

 まるでその通りだ。

 そのうちベッドに縛り付けられ、外界と隔絶されて、このウィルス塗れの自分と死ぬまで付き合わなければならないのだ。

 つうか、望むところ?

 これ以上余計な心配をしなくて済むなら、願ってもない?

…………とにかく。

 今度は一体なんなんだ? とその時ハルヴァイトは、呆れるでもなく、驚くでもなく、ましてや怒るでもなく、あまりにも冷静に、自分でも薄気味悪いほど冷静に、この非常事態を受け止めていた。

「断線?」

 いや、線なんかないし。………程度の突っ込みは、しておく余裕があったけれど。

       

      

 王下特務衛視団準長官ミナミ・アイリーは、当然、ハルヴァイトに敬礼もせず無言で執務卓に歩み寄って来るなり、いつもと同じ無表情のまま、ケースに収められた命令文書ディスクをハルヴァイトに差し出した。

 盛大に毛先の跳ね上がった金髪に、乳白色の肌に、物憂いダークブルーの双眸。微かに色付いた薄い唇と、顎の尖った顔は嘘でも冗談でも「綺麗」としか言いようがなく、まず、嘘や冗談で賞賛出来るほどの余裕もなく、だからつまり、黒を真紅で飾った丈の長い上着と清潔な白いシャツと黒いネクタイ、愛想の欠片もない黒い長靴(ちょうか)、という城の中でならいつでも目に出来る平凡(でもないのだが…)な制服さえ、豪華な装飾品に見えた。

 無言で見つめられ、ただ差し出されただけのディスクをミナミの手から直接受け取っても、ハルヴァイトは立派な肱掛椅子から腰を浮かそうとはしなかった。今まで衛視に対して一度もそういう、敬意を払うような態度を取った事がないのだから、今更立ち上がって労をねぎらい、愛想笑いで天気の話をするつもりなどない。

 だからじっと鉛色の瞳でアイリー次長の顔を見つめ返す。

 息の詰まる攻防。

 無言の押収。

 探り合い。

 牽制し合い。

 この張り詰めた緊張の糸を切るのは、

 どちらなのか。

 いや…実は緊張してねぇし。

 必要なのは、データ。

 ハルヴァイトは無言で立ち上がって机を回り込み、彼に向き直ったミナミの正面に立った。

「命令は即時実行。受け取りにサインを」

 提示された電子書類に視線だけを向けながら、ハルヴァイトがディスクを掌に載せる。

「質問をいいですか? アイリー次長」

「どうぞ」

 広げた掌の上空に薄緑色の電脳陣が立ち上がり、磁石にでも吸い寄せられるようにディスクがふわりと空中に浮く。

「どなたの紹介でこの仕事に?」

「表向きクラバイン室長。でもホントは陛下」

 ケースごとゆっくり持ち上がった命令文書媒体が、弱々しく発光する電脳陣に吸い込まれ、そのまま…消えた。

「では、なぜ陛下は次長にこの仕事を紹介なされたんです?」

(………………こえー…)

 冷ややかに見下ろされて、さすがのミナミも、かなりこの狭い部屋から逃げ出したい気分になって来た。分かり易い荷電粒子が頭上で炸裂する程度の覚悟はしていたものの、こうも冷静且つ沈着、でも激怒? または混乱。もしかしたら諦め。ただし黙って見逃す訳には行くか。という複雑に折り重なった恋人の内情を示すように、室内の空気が一瞬で全部静電気の塊みたいな密度になったのには、正直、驚いた。

 頬、睫の先、首筋、全身。表皮を舐めるちりちりした感触に、ミナミがぶるっと身震いする。

 しかし、ここであっさり逃げ出す訳には行かない。

 ここまで来たら、ミナミも後には引けないのだから。

「室長が働き過ぎで確実に寿命を縮めてそうだから」

「それは認めますね。現に、アリスも今さっきそんな話をしてましたし」

 溜め息みたいなハルヴァイトの言葉に被って、天井付近で真白い光が瞬いた。音はない。でも、光った。

「で、あなたの職務内容は?」

「命令文書の回覧と、特務室に集中してくるデータをデータベースに打ち込む作業。それから、室長代理で、報告に決済。報告の中身は、ヒュー・スレイサー衛視が確認してくれる」

 それと。機密事項が、ひとつ…。

「判りました。では、こうしましょう。…陛下の暴挙は今に始った事ではありませんから、無視します。本人が無礼だと抗議して来たって、意地でも無視です。

 なら何を信用すればいいか。

 クラバインです。あなたの事情を知るクラバインに、全ての「責任」を取らせます。いいですか?」

(…だから、恐ぇって!)

 今までの人生でいろいろ恐い経験をして来たはずのミナミさえ、言って薄っすら微笑んだハルヴァイトの表情に、思わず後退りそうになった。

「いいですね? 判ります? 万が一にも城内であなたに何かあったら、即、ディアボロが出ると思って下さい」

「…つかそれ、俺脅迫してんの?」

「いいえ。クラバインです」

「嘘だ!」

「嘘ですね」

「否定くらいしろよ」

「面倒」

「………………」

(キレてるよ…。泣きてー)

 びりびりと振動する室内の空気に絡め取られたまま、ミナミは固唾を飲んだ。

「どうせだから、もっとこう…、判りやすく怒ってみたりとかしねぇ?」

「無理ですね。清々しいほど内面クリアで、仮想パーテーション吹っ飛んでますから。さっきからだらだらともの凄い勢いで数値が頭の中流れてまして、停止命令にエラーしか返って来ないんです」

「それで冷静過ぎってのはなんなんだ!」

 逆ギレしてみた。

「感情制御範囲が致命的に狭いんですよ? わたし。一応あなたにも説明しましたよね? 定数なら相対数値で打ち消し実行可能ですが、乱数だらけでどうしようもないんです」

 そう。ダメなのだ、ハルヴァイトは。ミナミでさえまだ詳しい事は判らないのだが、スラムにいた頃はまともな教育も受けていなかったし、受けられなかった。生き延びるために喧嘩と盗みを繰り返し、やらなかったのは人殺しだけ、と本人さえ平然と言うような、荒みきった子供時代を送った。年少者強制施設に放り込まれて基礎教育を受けてからやっと彼は、「何が良くて何が悪くて自分の生きるこの場所がどういった環境なのか」知った。

 彼を育てたのは、アル中の男だった。働いた姿を一度も見た事がないのに、いつでも酒瓶を抱えていた。後で考えればそれはミラキ家からの施しであったのだろうが、男はそれを呑みつくし、家に時々顔を出してはハルヴァイトに微々たる生活費を渡してまた消えた。

 大嫌いだった。

 少し大きくなり、「感情」という記号を知ると、憎くなった。

 顔を合わせれば喧嘩した。殴り合いの。

 憎かった。どうしようもなく。

 他人を羨ましいと思った事はない。

 誰も彼も、ただ、憎かった。

 自分が「不幸」だと卑屈になる事もなかった。

 ただ、自分さえ憎かった。

 死に行く勇気を持たない子供の自分が、誰より憎かった。

 そう思うたび彼の回りを真白い雷が駆け巡り、全身が焼き切れそうに熱くなって気を失い、倒れた――――――。

 子供は無邪気だ。哀しければ泣くし、楽しければ笑う。そういう大雑把な感情しか持ち合わせていないうちに電脳魔導師は脳内パーテーションを作成し、それに「感情の起伏という、臨界に接触するにあたり不具合を引き起こすであろう要素」を学習させて、後々、臨界接触時にはそれに適合する信号を無意識に意識から切り離すのだが…、ハルヴァイトが電脳魔導師と確認されたのは、実に十三歳…たかだか十年ほど前なのだ。つまり、そんな基礎などなっていないまま、多感で複雑なローティーンに突入していたのである。

 大人になれば感情に流されず行動出来るように、も、なる。そうならない人間も居る。

 我慢する事を憶える。ハルヴァイトも憶えた。元々スラムで孤独を味わっていたのだ、彼は十分過ぎるくらい大人だった。

 脳を解放し、臨界に接触し、保護されるべき感情の行き場がなくて、それが曝け出されなければ。

 大人になってからの感情というのは、当然、子供のそれよりも複雑だ。

 だからそんな…乱数渦巻く「感情」の中から、どうにかこうにか、「憎い」という彼が幼少の頃から一番古く付き合ってきた「唯一」を探し出して脳内パーテーションに叩き込むのが、やっとだった。

 感情に左右される、というのは臨界に接触する時非常に都合が悪い。怒りに任せて、だとか、楽しいから、だとかいう人としての意識は、データに干渉すると少々厄介な「爆弾」に早変わりする。

 しかしそれらが複雑になり過ぎて分離不能のハルヴァイトは、仮想パーテーションという極めてアクセス電速を遅く限定した脳内に溜め置き、完全に感情が臨界に干渉する前に、接続を切断する方法を取っていた。いや…もうそれしか手がなかったのだが。

 そしてこれは…結局「仮想」であり、実はハルヴァイトの内部に巣食う「感情」に他ならなかったから、極端に彼の「内面に変化」が起こると、吹っ飛んでしまうのだ…。

 前兆はいつも、漏れ出す荷電粒子。

「完璧終わってんじゃねぇか!」

「…そろそろ接続不良が起こりそうなんで、手っ取り早く済ませましょう、ミナミ」

 眩しそうに目を細めたハルヴァイトが、腕を組んで身を屈め、睨んで来るミナミの瞳を覗き込む。

 くすくす笑いで…。

 今のハルヴァイトは、冷静なのではない。狂いそうなのだ。それは…以前一悶着あって以降、臨界だとか電脳魔導師だとか、もっとダイレクトにハルヴァイト・ガリューだとかを「学習」するミナミにも判っていた。

 仮想パーテーションを復旧させる方法。

 ハルヴァイトに意識を取り戻させる方法。

 多少荷電粒子が漏れ出す程度ならば自力で復旧プログラムを呼び出せるのだそうだが、室内で燻る電圧と密度を考えれば、これはもう、一度接続不良を起こさせて昏倒させるか、一瞬でハルヴァイトの意識を引き戻すような手を使わない事には元に戻りそうもない。

「つうか、アンタ…ヤんなるくれぇ手ぇかかるよな…」

「だったらあなたが気を付けてください」

(………マジ殴りてぇ…)

 今なら出来ねぇ事もねぇぞ。と本気で握り拳を固めたものの、ミナミにそのつもりはなく(ないのか?)、あの胡乱な観察者の瞳でハルヴァイトを見つめるだけ。

 だけ。それだけならどんなによかっただろうか。何もなく、フェイドアウトするように消えられたら、どんなによかっただろうか。しかしそれはもうダメなのだ。判っている。だからウォルの条件を飲み、自分でお終いを支度しなければならなかったのだから。

 ミナミが居なくなってしまったら、このひとは、どうなってしまうのだろうか?

         

「世界」の「基準」を見失ったら。どうなる?

         

 今まで意図的に考えまいとしていた事を思い出し、ミナミは一瞬憂鬱げな色を瞳に浮べた。それだってとどのつまり「今更」で、ハルヴァイトは「そこに居ればいい」とあれほど言ってくれたのに、ミナミはそれを黙って受け入れられなかったのだし…。

(やっぱ…ダメなのは俺なんだよな)

 黙り込んだミナミを見つめるハルヴァイト。

 データという文字情報がこの世の総てを食いつぶす前に。

 待っている。

 ミナミは、ふわりと笑った。

       

 溶けそうに。

 穏やかに。

 密やかに。

 あの日、あの日溜まりの中でどこかに向けられていた儚い微笑みを。

 ハルヴァイトに向ける。

          

 そして、彼らは、恋、を、する。

 ミナミの微かな吐息に。

 ハルヴァイトの短い溜め息に。

 言葉という「記号」ではなく、そういう、ものに。

          

「悪かねぇだろ? 俺になんかあっても、アンタに取り返しのつかない事が起こっても、家より、城の方が断然近ぇし。しかもアンタ…家に居るより城に居る方が多いんだから。だからってちょっとやり過ぎたのは認めるけど、つうか、俺もまさか衛視の制服着せられるなんて、今日城に来るまで知らなかったし…」

「…ねぇ、ミナミ?」

「何?」

 ハルヴァイトがしきりに瞬きを繰り返しながら、こつこつ自分のこめかみを指先で叩き出した。これは、そう、乱舞する文字列が刹那で消えた余波の頭痛を逃がしている時特有の、ハルヴァイトの癖みたいなものだろうか。

「今更なんですが、とりあえず、これだけは言っておいていいですか?」

「今更なんだろ。やめたら?」

 ミナミ即答。ハルヴァイトは屈めていた身を起こし、口元を掌で覆って、ふーっと溜め息を吐いた。

「それももっともなんですけどね。一応、わたしにも矜持ってものがあるとして、自宅と城を天秤に掛け、今ちょっとミナミの言葉に納得しそうになったのは情けないな、と思ったので、悪あがきと言う事でどうです?」

「アンタの矜持って、一応、程度なのか?」

「比べるにしても、他人のプライドなんて計った事ないですから」

 やってそう。しかも揺るぎ無い絶対数値で弾き出してそう。とは、さすがにミナミも突っ込まない。

「良く考えたら、なんでもかんでも面倒臭ぇアンタが悪あがき、ってのも面白そうだから、やってみ」

「どーして、せめて昨日の晩に一言言ってくれなかったんですか」

「つうかアンタ昨日の晩よりもっと前からテレビに噛り付いたっきりでメシだつっても聞いてなかったくせによく言ったな」

 ミナミは、息継ぎなしで一気にそう言い放った。

 これをまさに、薮をつついて蛇を出すと…。

 言いくるめられて、ハルヴァイトががっくり肩を落とした。

「慣れない事はするもんじゃない、といういい教訓になりました…」

「……………あのさ…」

 もう。とそっぽを向いてミナミから離れようとしたハルヴァイトを、ひどく遠慮がちにミナミが呼び止めた。その、俄に不安げになった声を訝しんだハルヴァイトが、小首を傾げる。

「触っていい?」

 言われて、きょとんと自分を見下ろしてから、ハルヴァイトは微かに笑う。

「どうぞ」

 執務卓に軽く腰を下ろしたハルヴァイト。彼にそーっと寄って来たミナミが、ぺたん、と恋人の胸元に額を押し付けた。

「…思ってたよか、大変だった…。いろいろ。もしかして逃げて来たりとか…したら…ごめん」

「いいですよ。始めから、あなたが外で働くのを心配しても、だめだと言うほどの権利はわたしにないですからね。どこか…何かあっても手の届かない場所に行かれるより、城の中で、クラバインがついていてくれるのであれば、わたしも随分安心…です」

 安心出来ないのは、陛下だが。とは、さすがに飲み込んでみる。

 ぎゅ。と袖にしがみついてくるミナミの指先をしばし見つめてから、ハルヴァイトは仕方なさそうに苦笑いした。震えたり取り乱したりしていないものの、相当緊張していたらしく、ミナミは彼に寄りかかったまま動こうとしないのだ。

「えーと…。触ってもいいですか?」

「…うん。大丈夫」

「じゃぁ、キスしていいですか?」

「…それ、職務中マズいんじゃねぇのか?」

 言いながらも顔を上げたミナミの唇に短いキスを降らせて、ハルヴァイトが笑う。

「誰も見てませんから大丈夫ですよ」

「俺、一応衛視なんだけど…」

 ほー。とさも驚いた顔でミナミの瞳を覗き込んでから、彼はもう一度、ゆっくりとしたくちづけを恋人に見舞った。

「緋色のマントを見たら常識を捨てろ、って、誰かに習いませんでした?」

 微かに笑いを載せた、機嫌のいい唇で。

  

   
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