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    9.アザーワールド オペレーション    
       
(2) 何をしたいのか自分でも判りません。

  

 (2’)

         

         

 始めて入った誰も居ない議事堂は、無駄に広く薄ら寒かった。

 いつもは七十人からの議員が犇めき、上院執行部二十五人が幹部席にふんぞり返り、陛下の他に四名の側近が居て、議会百人がファイランを運行するための会議を行っている場所。足下には毛足の長い絨毯が敷き詰められており、議員席と幹部席の間には円形の演台があって、全体がホール状になっている。

 人工黒檀の執行部席は一段も二段も高く、まるでファイランを見下しているように感じられた。その最上段、玉座左側に据えられた議長席にぽつんと座ったまま、ミナミは胡乱なダークブルーの双眸で議事堂内部を監察している。

 絨毯は、濃紺のグラデーション。描かれているのは幾何学模様。黒檀の演台や座席はぴかぴかに磨かれており、全ての席に議員の氏名を記した三角錐が置かれていた。

 こんな場所には、無縁だと思っていた。

 その方がよかった。

 溜め息でそんな夢物語に終止符を打ったミナミが、蒼い顔でふらふらと立ち上がる。

 玉座だけは赤っぽい天然素材の肱掛椅子で、背凭れと座面に深緑のフエルトが張ってあった。装飾が特別立派な訳では無かったが、黒檀に灰色の生地を張っただけの一般席に比べれば十分豪華な印象はあった。

 出入口は二ヶ所。ひとつは議員席の真後ろにある観音開きの大扉で、普通議員はこちらから出入りする筈だ。もう一ヶ所は幹部席の右脇にある普通の扉だが、これは陛下専用の出入口になっており、特務室を通って陛下執務室を経由し細い通路を使う経路しかない。

 その、国王陛下専用口のドアに背中を着けて、ミナミはうっそり顎を上げた。

 どのくらいの角度だろうか。

 このくらいだろうか。

 ウォルより少し背が高いとして、ハルヴァイトより少し低いとしたら、議事堂に踏み込んで最初に目に飛び込むのは、なんだろうか……。

 天井が、嫌になるほど高い。

 外観が釣り鐘型なのだから、中から見れば当然頭上はドーム型だった。ラウンドした梁が中心に向かって集中し、中央にだけ巨大な円形のシャンデリアがぶら下がっている。

 灯かりは全て壁に取り付けられていた。だから、そのシャンデリアは光を放つ物ではなくて、外周を取り囲んだライトに照らされて輝く物だった。中心に何本もの長いクリスタルを生やし、それを取り囲むように壮麗な飾りを施されたシャンデリアは、ひっくり返したファイラン浮遊都市そのものに見えて、ミナミは思わず失笑した。

「……そっか。これって…………そうなんだよな」

 議事堂の天井を見つめる、ダークブルーの双眸。

 そこにはファイランが浮かんでいた。

 そしてそのファイランの周囲には、天使と悪魔が………無数の…天使と悪魔が手にした剣と盾を翳して戦う様が遠い歴史のように描かれ、忘れてはならない創世神話を無言で語っている。

 愚かな人間の滅ぶ歴史。

 愚かな人間を救おうと戦う天使。

 愚かな人間のために戦う天使を滅ぼそうとする悪魔。

 天井いっぱいに描かれた勇壮な戦いの情景にはしかし、一際明るく美しく、まるで今にも動き出しそうな臨場感を持って描かれた一組の天使と悪魔がいた。

 浮遊するクリスタルのファイランを抱き締めるように腕を伸ばした、白い羽根の天使。

 乳白色の肌に金色の髪に憂いた蒼い瞳の天使は、真白い衣をなびかせて都市を両腕で抱く。

 しかし、その瞳が見つめているのは都市ではない。慈しみ深く眇められた双眸からの視線が注がれている先には、都市を挟んだ向いに描かれた……。

 悪魔。

 その姿は天使より二回りは大きかった。頑健な体躯に蝙蝠に似た被膜を持ち、雄々しく先端の付き上がった二本の角と長い尾をくねらせた、漆黒の悪魔。獣に似た形相は恐ろしかったが、その貌に埋め込まれた灰色の瞳は表情に似つかわしくなくひどく優しげに天使を見つめ返している。

 都市を抱えた天使を抱き締めるように広げた、逞しい腕。

 その背後にまで迫っている小ぶりな悪魔の軍勢を見つめているうちに、ミナミはふと思った。

 きっとあの悪魔は、傷付き疲れているのだと。

 都市を護る天使に手を差し伸べた瞬間、同族からさえ忌むべくように責め立てられて、疲れ果てているのだと。

 それでもあの悪魔は動かなかったのだ、そこから。

 ただただ、目の前の天使を見つめていただけで…。

「…………………ほんと、それだけでよかったんだよな…」

 天井のフレスコ画から目を逸らさずにずるずるとその場に座り込み、ミナミは無意識に呟いた。

「浮遊都市なんてのもさ、ただの言い逃れに過ぎなかったんだろ?」

 天使に問い掛ける。

「あってないような理由が、欲しかったんだよな」

 創世神話の天使と悪魔に出逢えたら、訊いてみたいと思った。

「…………俺が、ここに居てあのひとを好きだってそう思うのに、自分を赦さなくちゃなんなかったのと同じで…さ」

 泣きたい気持ちだった。

 出来ない相談だけれど。

      

      

 不意に名前を呼ばれて、ミナミは顔を上げた。

 床に座り込んだまま膝を抱え、膝を抱えた腕に額を押し付けてぼんやりしていたから気付かなかったのか、すぐ側までヒューが来ている。

「お前、大丈夫なのか? 本当に…。ますます顔色悪いぞ」

「…腹減ったのかも。昨日から吐いてばっかで、食事した憶えねぇし」

「とりあえず、クラバインから資料室の使用許可証を受け取って来たんだが、仕事はやめて、今日はもう帰った方がいい」

 黒檀の机に置かれた許可証(といっても、小さなディスクなのだが)をぼんやりと見つめ、ミナミは首を傾げた。

「そんなもん頼んでねぇし、言われてもねぇけど?」

「? でもさっき、クラバインがお前に届けるよう俺に言ったぞ。議事堂に居るからすぐに行けってな」

 不思議そうな顔のヒューを下から見上げるミナミは、本当に今にも倒れそうな顔をしている。

「……お前が特務室にいなくてよかったよ…。俺が出てくる直前にガリューが来て、お前がガリューに逢いたくないなんて言い出すから、大変だったんだぞ」

「来たの? あのひと…。あぁ………報告か…」

 そうだった。と溜め息混じりに呟いて、ミナミは立ち上がった。

「…だからか、クラバイン室長が意味不明の行動取ったのは」

 実はミナミがクラバインに頼んだのは、ヒューを議事堂に呼んで欲しい、という内容だったのだ。別に、資料室の使用を申請した訳ではない。

 多分、ミナミが体調を崩している理由を知るクラバインには、言えなかったのだろう。徹底的にハルヴァイトには内緒なのに、ミナミがヒューに何か…クラバインにも陛下にも言えない事だ、とわざと含みを持たせた事柄をよりによってヒュー・スレイサーに頼もうとしているのに、内容は知らない、などと言って、果たしてあのハルヴァイトがはいそうですか、と快くヒューを送り出してくれるとは思えない。

「じゃぁ、早いトコ用事済ませて、ランチまでになんとか言い訳考えとかないと、俺、二度と登城させて貰えねぇかもな…」

 微かに苦笑いして言ったミナミに、ヒューは大きく頷いた。

「俺の命も危ないぞ、そろそろ。で? 資料室は?」

 何を調べるのか、自分の手が必要なのか、と訊いたつもりのヒューに、ミナミはゆっくりと首を横に振って見せる。

「それは口実だから、どうでもいい。今から話す事は、誰にも言わねぇでくれる? クラバインさんにも、あのひとにも…誰にも」

「? アイリー次長の命令なら言わないが?」

 陛下専用口横の壁に背中を預けたヒューが答えると、ミナミはそれにも首を横に振った。

「違う。約束して欲しいだけ。これはさ…俺の個人的な頼みなんだよな」

「魅力的だな。内容にもよるが。ガリューに殺されない程度なら、協力する」

「殺されたりしねぇだろ。呆気に取られてるうちに、全部………カタ付くから」

 死にたいのはミナミの方。でもそれも、無理な相談。

 相変わらず顔色は悪いし無表情だし、ミナミが何を考えているのかヒューにはさっぱり判らない。

「頼み事はひとつ。ヒューには迷惑掛からねぇようにする…」

 それでヒューは、ここ二ヶ月ちょっと付き合って来て始めて、ミナミがまったく彼の顔を見ないで話し続けているのに気付いた。

 どんな無茶を言う時も、どんな無理をやって退ける時も、ミナミ・アイリーというこの摩訶不思議で綺麗な青年は、相手の瞳を覗き込んで観察し、逃げ出せないようにしっかり捉え、まるで淡々と何も問題ないような顔で話した筈だ。

 だから、おかしいと思う。ミナミは、何を…隠しているのか。

「では、ミナミ。その頼み事とやらを聞く前に、ひとつだけ言わせてくれないか」

 ヒューは黒檀の座席に寄りかかったミナミの横顔を見つめたまま、議事堂の静寂を波立たせない静かな声で囁いた。

「ガリューに話せない事を悔んでいるなら、断る」

「…………………ねぇよ…」

 迷ったのは、一呼吸にも満たない時間。それで、もうここまで来てしまって引き返せないミナミは、一度俯き、長い睫を閉じ、それから真っ直ぐ顔を上げて瞼を持ち上げた。

「俺は何も悔んでなんかねぇし、きっと、後悔だってしねぇよ」

 ただ…………永久に腐って行くだけ。

「…違うか。今は悔んでるから、それを解決してぇんだ」

 付け足すように呟いて、ミナミはヒューに視線を据えた。

 瞬間、目眩に似た風景の揺らぎを感じたヒューが、微かに目を細める。そう離れていない場所に佇んでいるミナミの「気配」が激変したのに、ヒュー・スレイサーの方が着いて行けなかったのか。

 まるで文字列でも書き換えるように塗り替ってしまった、気配。つい今しがたまで感じられていた戸惑いだとか、もしかしたら些細な恐怖だとかは刹那で消え去り、後には、静謐な観察者の双眸を底光りさせた、いつもとは違うミナミが残る。

「……で? なんだ? 頼み事というのは」

 短い溜め息と薄笑みを向けて来たヒューの瞳を覗き込んだまま、ミナミは白手袋の両手をぎゅっと握り締めた。

「………………レジーナさんに、会わせて欲しい」

       

       

 まさかその名前がミナミの口から出るとは思っていなかったヒューがエメラルドグリーンの双眸を見開いて唖然としたのに、ミナミは静かに頷いて見せた。

「今の俺なら誰の手も借りないでレジーナさんを探せるって、それは判ってんだよ。でも……、そういう方法じゃなくて、俺は…ちゃんとレジーナさんに会って謝らなくちゃなんねぇから、「衛視」じゃなく、ミナミ・アイリーとして…」

 ごめんなさい。と謝り。

 もう一度だけ、俺を助けてください。と言わなければならない。

「待て。どうしてお前がレジーを知ってる? あいつが特務室から……出された…のは三年も前だぞ? それ以来特務室じゃレジーの名前は御法度だし、第一、今あいつを知っている衛視だって、数えるほどしか王城エリアに残ってないんだ。…ガリューやミラキ卿は懇意だったらしいが、それにしたって…」

「違うよ。確かにレジーナさんの名前なんかは最近になってあのひとから聞いたけど、もっとずっと前、レジーナさんがまだ衛視だった頃に……………助けられた事…あんだ、俺」

 言ってミナミは、大きく息を吸った。

「それなのに俺は逃げた、あの日に…。何も言わないで、俺を護るために逃げ出した。だから謝りたいんだよ、ヒュー。今度は、逃げ出す前に会いたい」

 ありがとう。と言い。

 ごめんなさい。と謝り。

 お願いです。と懇願し。

……………。と。

「………詳しい事情が判らないんじゃ、なんとも返事のしようがない」

 冷たく言いながら、ヒューは長い銀髪を掻き上げその場にしゃがみ込んだ。

「正直に言う。確かに俺はレジーの居場所を知っているし、時折連絡も取っている。でも別にそれは誰のためでもなくて、あいつが黙って王城エリアからの退去命令に従った意味を尊重して…つまり…………クラバインがレジーを迎えに行くのを、待ってるだけだ」

「………………」

 黙り込んだミナミの反応に何を思ったのか、ヒューは溜め息を吐きうなだれた。

「俺には判らないんだよ、どうしてレジーが移送されたのか。それだって、今となってはどうでもいいんだがな…。もしもクラバインが…クラバインとしてレジーに衛視を辞めて欲しかったのなら、それはそれでいい。なのになぜ、移送なんだ? 王城エリアからの退去命令とは、なんの冗談なんだ? レジーは……それでも…」

「今でも、クラバインさんを信じてる?」

 薄い唇で囁いたミナミを、ヒューがうっそりと仰ぎ見る。

「そんな生易しい覚悟じゃない。消息を絶ち、音信不通になり、そんな事をしても探す手立てがあると知っているのにそこまでやって、二度とクラバインの所へは戻らない、と………、そうして見せる事であいつは…」

「…………いっこ訊いていい?」

 ミナミが不意に、小首を傾げる。

「ヒューって、レジーナさんの事好きなの?」

「まさか。俺はああいう、手の掛からない賢い大人タイプは好みじゃない」

「………じゃぁ、どんなのがいいんだよ…」

「面倒そうで放っておけないようなヤツ」

「やっぱミラキ卿だ…」

 こんな時なのに、ミナミは思わず小さく笑ってしまった。

「…レジーとクラバインは、本当に尊敬してるよ。子供の頃からずっと武術を学んでて、負け知らずでちやほやされてた俺が、素手の訓練で本気まで出したのに勝てなかったのは後にも先にもあのふたりだけだ。だから……そういうヤツらだから、上手く行って欲しいと思う。それぞれ事情もあるのは判るが、だからこそ、俺はこのまま終わって欲しくないと…………。って、何をそんなに笑ってるんだ? ミナミ」

 声を殺してくすくす笑っていたのを睨まれたミナミが、顔の前で左右に手を振る。

「なんでもねぇ…」

 笑い終えて小さく溜め息を吐き、ミナミはうなだれた。

 そういう風になら、誰かのために何かしてやるのは気持ちがいいだろうか? こういう風に、誰かを傷つけて結局逃げ出すようなミナミはどうしようもなく卑怯で卑劣で薄汚れて見えるけれど、ヒューのようになれるのなら、あのひとは………。

 ハルヴァイトの世界は、崩壊しなくて済むのだろうか?

「レジーナさんは、王城エリアに戻る気ねぇの?」

「……今あいつは、第八エリアに居る。何度もこっちに戻るよう言ってるんだが、その気はないという返事しか聴いてないな…。ただ……………それが本当なのか、それともクラバインを気遣ってなのかは、判らない」

 首を横に振ったヒューの顔を見つめていたミナミが、ゆっくりと頷いた。

「無理言ってごめん。でも、どうしても俺はレジーナさんに会わなくちゃなんねぇんだ。それも、出来れば明日の夕方まで………」

「? 急だな。…連絡は取れるが、会って貰えるかどうかは判らないぞ?」

「……………伝えてくれる?」

 いつもの無表情に戻り視線をヒューから天井の天使に移したミナミは、微かに震える声でこう言った。

「ミナミ・アイリーが謝りたいと言ってるつってレジーナさんが俺を憶えてなかったら、…五年くらい前に、百六十番通りの廃ビルで殺されかけてた子供だって言えば、思い出して貰えるかもしんねぇ…」

「………………それは…ミナミ………。そういう事なんだ?」

「そうでなければ、こう言ったらすぐ判る…。王立医療院から逃げ出した、違法組織の「商品」だってさ」

 冷え切ったダークブルーに見つめられて、ヒューは一瞬背筋を凍らせた。

「資料室行ったらすぐ判るよ、ヒューも。丁度使用許可もあるし」

「…お前「商品」って…、それは、なんなんだ!」

 俺さ。とミナミが、まるでなんの感慨もなく呟く。

「身体売らされてたんだよ。それだけ」

 言い終えてミナミは、素っ気無く肩を竦めた。

  

   
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