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番外編 引越し日和

   
         
3)午後六時

  

「引越し祝い?」

 速やかに荷物の運び込みを追えて一旦退場したルードリッヒが、再度アンを誘いにやって来た、午後六時。

「うーん、というか、アンさんの昇格祝いというか、単純に、暇な連中が集まって騒ぐ理由が欲しいというか」

 何か裏があるのかそうでないのか、いつ見ても微笑んでいるようなルードリッヒの表情からそういったものが判る訳もなく、アンは大いに当惑した。

「……まぁ、正直に言うならですね。ここでアンさんを連れて戻れないと、ぼくには「一週間のエントランス掃除」という罰ゲームが既に設定されていて、しかも条件に「連続で七日間」とか書き添えられていて、それについては今現在四時間しか寝てない班長の承諾も取れていたりして、つまり、判ります? アンさん」

 笑顔の影が落ちるルードリッヒの冷え切った表情に、アンは身震いしながら首を横に振った。

「勤務シフトを考えると、どうあってもぼくは一生涯特別官舎のエントランス掃除当番のままになるんです」

「………………」

「それってかわいそうじゃありません? ぼくが」

 ここで、ルードリッヒが薄気味悪いほど朗らかな笑顔を見せる。

「…………ルードさんて…」

 爽やか好青年系の笑顔を深い溜め息で切り返し、アンは荷解き途中の室内を振り返らずに、後ろ手でドアを閉ざした。

 理由はなんであれ、お祝い(?)してくれるらしいのは単純に嬉しいし、特別官舎の衛視たちは、アンが魔導師だとか貴族だとか…なんだとか…別に気にしてもいないようだし、休日はまだ少し残っていたから、急いで荷物を片付ける必要もないし。

「基本的にはいい人ですよね…」

「? 基本的ですか?」

 歩き出したアンと肩を並べたルードリッヒの不思議顔をちらりと見上げる、透明な水色。

「だって、あそこで笑えるのは「普通の」威圧程度でしょう?」

「……………」

「誰とは言いませんけど、ぼくの「知り合いたち」ときたら、最初からずっと笑っているか最後まで絶対に笑わないか、その罰ゲームをぼくに押し付けるかしますよ。「普通に」ね」

………………。

 ルードリッヒはその日始めて、この小粒で愛らしい少年もまた、あの魔導師隊で「普通」に暮らしていたのだと実感した。

「みんなローエンスだ…」

「…エスト小隊長は、もっと凄いですよ…」

「「……………」」

 短い吐息に溜め息で会話し、ルードリッヒとアンが顔を見合わせる。

「「……………………」」

 ただし、それ以上その件を掘り下げる勇気は、ふたりになかった。

       

       

 アンの新しい部屋は特別官舎四階の東側突き当りで、真下がヒューの部屋らしかった。

 そんな話をしながら一階まで降り、エントランスを通って共有施設の食堂へ向かう。部屋にはちゃんとキッチンもあったが、ここに住んでいるのは勤務時間が極めて不規則な衛視ばかりだったから、食事の面倒をみてくれる料理人が常駐して居るダイニングが一階に備え付けられているのが他の官舎との最大の違いだ。

「ダルビンさん、口は悪いけど面倒見のいい人ですよ。頼んでおけばお弁当も作ってくれますから」

 と。

 本人を目の前にして平然と言い放ったルードリッヒから、腕組みして見下ろしてくる細面の料理人に視線を移し、アンが頬を引き攣らせる。普通そういう事は先に言っておくんじゃないのか? と思ったが、突っ込むのは控えた。

 灰色の髪を短く刈り込んだ、意外と若い男。アンより遥かに背が高く、着込んだTシャツの肩がはちきれそうに膨らんでいて、かなり筋肉質な印象を受ける。

 その、ダルビン・トウスの三白眼が、じろりとアンを睨んだ。

「アン・ルー・ダイです。どうぞよろしくお願いします、トウスさん」

 上空から注がれる視線に臆する事もなく、少年はにっこりと微笑んで頭を下げた。ルードリッヒの失礼な物言いに内心冷や汗を掻くも、ダルビンの強面には動じていないらしい。

「「……………………」」

「?」

 黙り込んだダルビンとルードリッヒの間で視線を往復させながら、アンは笑顔で当惑した。挨拶は普通にしたつもりだし、ちゃんと礼儀正しく頭も下げたのに、この雰囲気はなんなのか…。

 食堂の入り口に立ち塞がる、ダルビン。

 そのダルビンを見上げる、アンの笑顔。

 そのアンをみつめる、ルードリッヒ。

 三竦み?

 程なくして、誰かが食堂の中で吹き出した。

「先手を打って威圧し食堂での主導権を握っておきたいのは解るがな、ダルビン。残念ながら、アンくんには通用しそうもない」

 笑ってはいるがどことなく覇気のない声に、アンの視線がダルビンの後ろに流れる。

「出た」

「…出たはないだろう、出たは…」

「いかにもわざとらしいストーリー展開に、そろそろ読者もそう思い始めてるんじゃないかなー、とか思っただけです」

「衣装部で会ったのは偶然で、あとは、きみがこっちに引っ越して来たんだから、頻繁に顔を合わせても仕方がないだろう? というか、読者ってなんだ…」

 いやぁ、なんとなく。などと、意味不明の照れ笑いで色の薄い金髪をぽりぽりと掻く、アン。

「…魔導師殿だって聞いてたんで優勢を印象付けておこうと思ったのに、失敗したのは確かだな…。ま、いいさ。こちらこそよろしくな、ルー・ダイ魔導師。普通に生きてても失礼なルードの言った通り、ご所望とあらば…」

「あ。じゃぁ、その…、早速ひとついいですか? トウスさん」

 にこやかさはないものの気さくな口調で話しかけてきたダルビンを遮ったアンが、少し困ったように眉を寄せて小さく手を挙げる。……旧第七小隊では発言の前にこういう自己アピールを示さないと、どこかのお節介やどこかの世話焼きやどこかの美人が耳を貸してくれない事も多いし、まず、あの小隊長が注意を向けてくれないものだから、自然と少年には、発言の前には礼儀正しく(?)挙手する癖がついていた。

 例えば他人の話を途中で中断させようとも、か?

「…………どうぞ…」

 またもじっと見つめてくる三白眼にやや引き攣った笑顔を向けたアンが、「はい」と頷く。

「ルー・ダイ魔導師じゃなく、アンでいいです。…なんか、魔導師って呼ばれると………それ、ぼくじゃないみたいで背中が痒いんですよね」

 言って少年は、どこかの真白い少女ばりにふかふかした笑顔を佇む料理人に向け、瞬間、特別官舎食堂を取り仕切るダルビン・トウスにえこひいきされる事が決定した。

       

        

 引越しを手伝ってくれた七名とヒューの他に、見知らぬ青年がふたり、それからダルビンと、主賓のアンを入れた十二名が食堂の大テーブルを囲む。あってないような階級で言えばヒューがここでは一番上位のはずだが、食堂の大将はもちろんダルビン・トウスで、官舎の大将はジリアン・ホーネットという黒髪の衛視らしく、小粒なアンの左右には彼らが座った。

 別に固い挨拶がある訳でもなかったが、改めて自己紹介などしてすぐに乾杯。ジリアンは「アンさんに何か言ってもらおうよ」と提案したが、ダルビンの「料理が冷める」という一言であっさりとその提案は棄却された。

 夜半からの勤務が待っている数名はアルコールなしのソフトドリンク、アンとジリアンには甘いフルーツエードにリキュールを少し垂らしたカクテル、他の青年たちにはスコッチウイスキーなどが振る舞われる中、ダルビンはなぜかヒューにだけ、ただの氷水を手ずから渡した。

 その様子をじっと見つめる、水色の瞳。

「ヒューさん」

「…なんだ」

「乾杯したら何か食べてくださいね」

 で、少年、笑顔。

「…………」

「ここでぼくに生活態度を改められたくなかったら「はい」です!」

「……………はい」

 咎めるように眉を吊り上げたアンがかなり強い口調で言い放ち、他の衛視たちはぎょっとし、ダルビンとルードリッヒが大爆笑し、ヒューは渋い顔で銀色の髪を掻き毟る。

 とりあえずそれで満足したのか、アンはまた笑顔に戻った。

 デキる…。と部下たちが内心冷や汗を掻く。

 さすがは魔導師。いや、元第七小隊か…。

 ささやかな乾杯の後、席を立ったダルビンと入れ替わって官舎管理人のエドワース・オゾルが顔を出した。エドワースは企業の営業マンみたいに愛想のいい中年男性だったが、彼が姿を現した時、他の衛視たちは会釈し、ヒューはわざわざ立ち上がって頭を下げた。

 笑顔で挨拶しながらも訝しそうな表情を拭い去れなかったのか、ダルビンの席を占拠したエドワースはすぐ小さく笑って、アンにこう耳打ちした。

「わたしね、先王時代は衛視で、警護班にいたんですよ。ま、いわばあすこでふんぞり返ってる小僧っこの先輩ですよね」

 にやにや笑いのエドワースが、立てた親指でヒューを差す。

 ちょっと、驚いた。

「ヒューさんにも先輩とかいるんですねー。なんか、ヒューさんて生まれた時から「班長」って感じなんで、意外だなぁ」

 暢気に言いながらフルーツカクテルを舐めるアンの平和な表情を、その場の全員が笑う。

「俺にだって親も兄弟もいれば先輩も上官も、何の躊躇いもなく半殺しにしてくれる師匠だっているぞ」

 溜め息混じりの抗議に、わざと「へぇ」と答える少年。それで部下たちはますます笑い、ヒューはそっぽを向いた。

(……………………)

 そこここで笑いのさざめく食卓。エドワースは勤務中だからと管理人室に戻り、厨房と食堂を忙しく行き来するダルビンが、暖かいスープや色取り取りのオードブルを運ぶ。

「どうかしました? アンさん」

 空いたアンの隣に移動して来たルードリッヒが、相変わらず正体の知れない笑顔で問いかけると、アンは慌てて首を横に振った。

「なんか、みなさんいい人だなーって、そう思って」

 少し当惑したような笑みと伴に漏れたセリフにルードリッヒは首を捻ったが、やや離れた位置で氷水…実はスピリット…を傾けていたヒューだけは、今まで少年がどういう状況で生活して来たのか朧げながら知っていたから、その意味に気付いた。

 気付いても、何か言おうとは思わない。この「安息」が陛下の犠牲……の上に立っていると判ってもいるから、まだ、何か言う事は出来ない。

 次の「乾杯」があるならその時は、アンにも本当に笑って欲しいなとは思った。

        

          

 ほどほどに時間も経ち、若い者の呂律もほどほどに怪しくなって来た頃、夜半で交替するのだという数名が手を振りつつ出て行くのを見送る。

「アンさんは、お酒呑まないんですね」

 いかにも固い感じのする黒いセルフレーム眼鏡のブリッジを指で押し上げたジリアンが、傍らでエードを舐めているアンの耳元で囁く。…無意味に密着気味…、と思いつつも笑顔で「はい。弱いですから」と答えたアンはそこで、青年の前に置かれているのも自分と同じ甘いエードなのに気付く。

「ホーネットさんもお酒じゃないんですね」

「ジルでいいですよ。オレはね、今週…禁酒命令出てるんです」

 苦笑の浮んだ唇に載せられた、ロックグラス。氷塊の沈むそれを包んだジリアンの指先に注がれる視線に気付いたのか、青年が微かに小首を傾げた。

「禁酒ですか?」

「先週のとある日、班長とスピリットを三本空けて、オレが先に潰れたんですよ…。だから罰ゲーム」

 もしかして、特別官舎は罰ゲームの宝庫なのか?

 囁くように話すジリアンの手元に視線を据えたまま、アンは甘いエードを一口飲んだ。クリアフルーツの自家製ミックスだとダルビンが言っていたエードは甘いが甘だるい訳ではなく、口当たりも滑らかで少年の好みに合っている。

「じゃぁ、ジルさんもお酒好きなんですね」

「班長ほど呑まないですけど、まぁ、好きかな。あと、呑めば普通に酔いますし」

 そう言ったジリアンが朗らかな笑顔を見せた、瞬間、なぜか青年が後にひっくり返った。

「だめだめだめだめ。だめですよ、アンさん。ジルの人好さそうな偽笑いに騙されちゃったら、だめですって」

 床に転がったジリアンを蹴り飛ばして座席を占拠したのは、大柄で厳つい顔の男。年齢はヒューと同じか、それ以上に見える。

「確かに、ここにいんのは陛下に仕える精鋭揃いの衛視ですがね、生活態度なんかロクなモンじゃねぇんですわ。班長を筆頭に」

「…というか、なぜそこで俺を引き合いに出す、ドーラ」

 遥か彼方から、ぼそりと突っ込み。見れば、ヒューは食堂の壁際に設えられているベンチに寝転がっていた。

「そんなに眠いなら、部屋に帰った方がいいんじゃないですか? ヒューさん」

「…………………」

 ヒュー、なぜかそれについて無回答。

「…ふっ、ふっふっふっふっふ」

 と?

 かなり薄いスコッチの半ば残ったグラスを手にしたままテーブルに突っ伏していたルードリッヒが、背中を震わせて笑いながら幽鬼のように上半身を起こす。

「誰だよ…ルードに酒なんか呑ませたのは…」

 溜め息混じりに呟いたダルビンが、アンに新しいエードを差し出した。それを受け取りながらなんとなく笑顔を向けてみると、細面の料理人も薄笑みを返してくれた。

「恒例! ルードリッヒ・エスコーによる今回の調査結果はぁ!」

 完全に据わった目付きでテーブルを睥睨する、ルードリッヒ。その様子に唖然とするアンに、ドーラ…ドラグン・ハスルが「あいつ酒弱くてねぇ。酔うと無闇に他人の秘密を暴露したがる癖あんですよ。ここの連中限定ですけど」と教えた。

 背筋に悪寒。ルードリッヒがあのローエンスの血を引いているとすれば、知らない事まで知っているのではないか、と…。

 知らない事。本人も気付いていない事。無意識の意識。意識しない些細な行動。そういうものから目ざとく個人の秘密を抉り出し、本当はどうだか知らないけどね、という笑顔で遠回しに確信を突つき回す。

 助けて、ミナミさん! とアン少年は思った。この酔っ払いに的確且つ無情に突っ込んでやって下さいっ! とも思う。

 残念ながら、ミナミは自宅でハルヴァイトと平和に過ごしているだろうが。

「はんちょおがなぜ部屋に戻らないってそりゃあ」

 言いつつ、悪意のまったく感じられない笑顔をアンに向けたルードリッヒの輪郭が、瞬間霞んだ。

 ぎょっとする。

 まさかと思う。

 思わず、誰もが壁際のベンチに目をやってしまう。

 しかしそこに、たった今まで顔の上に腕を翳してうたた寝していたヒューの姿は、なかった。

「だから、自分にも被害が及ぶんだからルードに酒を飲ませるなと言ってるだろう、俺はいつも!」

 いつの間に移動していつの間に技を仕掛けたものか、椅子に座っていたはずのルードリッヒは既に目を回して床にうつ伏せで組み伏せられており、ベンチから消えたヒューはルードの襟を捻り上げて肘で背中の真ん中を押さえ付け、ご丁寧に、口まで塞いでいた。

「うわっ! 班長! 締めない締めない!」

「落ちますって、そのままじゃ!」

 停めろ停めろ、と大騒ぎの部下が慌ててヒューを羽交い締めにし、ルードリッヒから引き剥がす。別に抵抗するつもりはないのか、うつ伏せに倒れた青年から警護班最強を誇る班長は大人しく遠ざかり、微妙に不機嫌そうな表情でその背中を見つめていた。

 油断も隙もないな、この隠れエスト卿め。とでも言いたそうな表情をアンは小さく笑ったが、ヒューにとっては笑い事でない。

 ミナミといいルードリッヒといい、どうしてこう勘のいい、扱い難いヤツばかりが自分より先に気付くのか…。とヒューは、しがみ付いている部下を振り払って溜め息を吐いた。

「でも、やっぱりヒューさんて格好いいですよね。それで恋人いないのが不思議です、ホント」

 アンの屈託ない呟きに、室内の空気が凍り付く。

「俺は仕事が好きなんだ」

 複雑な気配を無視したヒューがいかにも平坦な口調でアンに言い返し、しかし、たったひとり、厨房のカウンターから顔を覗かせていたダルビンだけが、どこか感情的な、どこか諦めたような声で呟いた。

「班長は、防御がなってねんだよ…」

 アンはその意味が判らなくて、カウンターに片肘を突いてそっぽを向いたダルビンの横顔に、不思議そうな目を向けるしかなかった。

       

         

 それからまた散々騒いで、復帰したルードリッヒが本格的に酔っ払い手がつけられなくなったところで、アンの歓迎会(?)は解散した。

 おやすみと、ありがとう。笑顔の少年がぺこりと頭を下げるたび、新しい同僚たちは相好を崩して少し照れくさそうにしながら食堂を去っていく。

「片付け、お手伝いしましょうか? ダルビンさん」

「いいや、いい。あんたに手伝って貰ったら、オレの「仕事」がなくなっちまう」

 空いた皿をカウンターに運びながら、ダルビンが苦笑する。

「いいんだよ、アンくん。ここはダルビンの職場で、俺たちが衛視であるように、やつはここの厨房長なんだからな」

 そう言われても、なんだか落ち着きなくきょろきょろする、アン。屋敷には使用人も料理人もいたが、どちらかといえば自分の事は自分でする方が多かったし、官舎生活が身についてしまって、誰かに何かをして貰うのが少し申し訳ない。

「気にすんなよ、アンさん。引越しやらここの連中に付き合うのやらで疲れただろうからな、部屋戻って寝ろ」

 言いながらダルビンは、カウンターの隅に置かれていた透明な液体の残った瓶を手に取ると、無造作にヒューめがけて放ってよこした。

「ボトルキープはお断りだ、班長」

 放物線を描く、ほっそりとしたシルエットの瓶。それをこれまた無造作に出した手で受け取ったヒューが、微かに肩を竦めた。

「今日はいつになく冷たいな」

「おれはいつだってあんたにゃ冷てぇよ」

「……………そうだったかな」

 何か含みありげに言い置いたヒューが、最後に残ったアンを促して食堂を出ようとする。

「ミシガンから、結婚式の案内が来たぜ」

 わざとのように繰り出されたセリフ。ヒューの足が停まった。

「ああ、そう」

「式の前に、あんたに会って謝りてぇってさ」

「別に、謝って貰うような事なんかない」

「………停めねぇのか?」

「理由がない。………。ところでダルビン」

 何の話しなのか、いや…多少の予想は付くのだが、アン少年は、カウンターの前に佇んで呟くように告げるダルビンと、そのダルビンに背を向けたまま冷たく答えるヒューの間で視線を往復させた。

「なぜ、今ここでその話しなんだ?」

 軽く肩越しに振り向いたヒューの微かに咎めるような視線を受けて、ダルビンが口元を歪める。

「言っていいのか?」

「……よくない」

「ま、そういうこった。おやすみ、班長、アンさん」

 細面の料理人はさも可笑しそうに笑いながら、立ち去るヒューの背中に軽く手を振った。

       

          

 何か話していいのか、それとも素知らぬふりがいいのか、アンは戸惑った。

「あまり俺に気を遣わないでくれないか? アンくん」

 当惑の気配がうるさかったのか、ヒューが不意に苦笑いを漏らす。

「ミシガンはダルビンの弟で、以前付き合ってた事がある」

「…それって…」

「? ああ、それじゃない。アレは別のヤツ」

 ここでもエレベータを避けて非常階段に向かったヒューが、重い鉄扉を押す。視線で先に行けと促されたアンは、彼の目前を通り過ぎる間際、いつもと同じに涼しい横顔見上げて微かに表情を曇らせた。

 付き合っていたと聞いてアンが思い出したのは、あの晩餐の日、アンとマーリィが無理矢理聞き出した「別れた恋人」の話。しかし「ミシガン」とその人物は別だと、彼は言う。

 一体何人くらいいるのか…。「別れた」恋人が。

「好きだったよ」

 鉄扉の軋む音に紛れた呟き。アンは階段に爪先を載せたまま背後のヒューを振り返った。

 薄暗がりに仄かな、白い人影。

「−−衛視なんか辞めて、道場継いで、結婚しようと思った」

 自嘲するような、独白。

「フォンソル・・・片親と、弟たちと会って、あいつは俺に言った」

 しかし、後悔はない。

「「かわいそうね」ってな」

 銀色の残影が音もなく移動し、凍りついたアンの肩を大きな手が軽く叩く。

「だから別れた」

 そのひとは飾り気もなく、気配もない。

「という、昔話だ」

 溜め息ではなく吐息のような笑いと伴に、ヒューを取り巻く空気が変わる。

 本当に彼は後悔していないのだろうか。もしかしたら、停めに行きたいのではないだろうか。そう思ったもののアンの痺れた舌は言葉を拒否し、結局、少年は手招きされて階段を駆け上がっただけだった。

 急に黙り込んだアンを見下ろし、ヒューが内心溜め息を吐く。ダルビンが余計な事を言わなければ、少年にこんな顔をさせなくても済んだのに。

 参った。

「俺だけ白状させられるのは癪に障るからな、きみの恥ずかしい過去のひとつでも?」

「…………恥ずかしい過去だらけで、今更どれが恥ずかしいのか判りませんよ…」

 にやにや笑いを含むヒューの意地悪な物言いに、アンが抗議の呟きを返す。

「だからもしかしたら、恥ずかしい事なんか今まで一度もなかったのかなー、とも思います。ぼくは…デリみたいに辛い思いもしなかったし、アリスさんみたいに晒し者にもならなかったし、小隊長や副長みたいに、周りの全部が本物の敵だなんて最悪の状況も知らないし…。

 なんでしょうね…、その時は、……その、ね? 例えば一般官舎でいろいろあったりとか、訓練校でいろいろあったりとかしてた時は、自分が世界で一番不幸みたいに思ってたかもしれないですけど、今になってみれば…」

 もしかして多少酔っているのか、しきりにアンの金髪を掻き回す、ヒューの手。

「そういう事を経験して、積み重ねて、今の自分が出来てるのかなと思います」

 うるさそうに払い除けられた手を再度アンの髪に伸ばそうとしたヒューは、そう呟いて短い溜め息を吐いた少年の横顔から視線を引き離しつつ、伸ばしかけの手も引っ込めた。

「大人だな」

「…からかわないでくださいよ、もう。いつもぼくは「今」の事で手一杯なんです!」

 眉を吊り上げたアンの拗ねた横顔をわざと笑い、行き先を失くした手で銀色の髪をかきあげる、ヒュー。

「からかってはいない」

 つい漏れた小さな呟きを確かめるように、アンがゆっくりとヒューの涼しい顔を振り仰いだ。

「君は立派だよ」

「………………」

「振り返って、考え直して、その上で自分と周りを同じように許すのは、難しいよ…」

 中空を見据えるサファイヤの瞳に、非常灯の橙色が乱反射している。長い睫の先で弾ける仄かな光は色彩が淘汰され、全て、密度の高い透明みたいな銀色になった。

「………多分な」

 溜め息で付け足したヒューが、「3F」と書かれた鉄扉を引き開けようとする。

「本当は!」

 咄嗟にアンは、足下の暗がりと拡散する橙色に溶けそうな淡い銀色の背中に手を伸ばした。

 もしその指先が届かなければ、アンはそれ以上何も言わず部屋に戻っただろうか。それとも、追いかけて行ってまで今胸に沸いた不安を彼に訴えただろうか。どちらにしても、頼りない指先は遠ざかろうとするヒューの袖、丁度肘の辺りを捉え、彼を振り返らせた。

 ひととき、静寂。

 水色の瞳から注がれる、戸惑うような視線。何か言いたげに震えた桜色の唇から伝えようとする言葉が形になって現れるまで、ヒューは黙って少年を見つめていた。

「……本当は、すごく緊張してました…。新しい場所に移るって、新しい生活とか、仕事とか…、そういう全部が今までと違うものになるって事で、でも、ぼくは…」

 ぎゅ、と、ヒューの袖を掴んだアンの指先に、力が篭る。

「ぼくにとっては、それ…、結構思い切りのいる、大変な事で」

 その意味をヒューは。

「訓練校の宿舎から一般の官舎に移った時も、すごく、いろいろ大変で。普通に生活するのに慣れるのも、すごく……大変で…」

 待ち続ける、サファイヤの瞳。アンはそれから逃れるように俯いたが、ヒューの袖を離そうとはしなかった。

「ぼくは臆病だから、そうじゃないって思いたいのに、また……その」

「判ってたよ」

 何気無い答えに、アンがはっと顔を上げる。その、驚きともなんともつかない表情を微かな笑いで受け取ったヒューは、さりげなく少年から目を逸らした。

「判っていたから、ルードを残して俺は一旦退場。ああ見えて、あいつも色々と苦労して来たからな。特に、軍に入隊してからはあらぬ噂で相当な被害を被ってな、ぶちキレて何度乱闘騒ぎを起こしたのか判らない」

 唖然とする、アン。

「君、衣装部で俺とルードが組み手する前から、引越しだからどうとか言ってただろう? 以前部屋を訪ねた時に見てそう大きな荷物がないのは判ってたし、それなら、もしかしてルードが官舎の連中を連れて手伝いに行くと言い出すんじゃないかと思って、わざと何も言わずに別れた」

「………そ…」

 そう思い通りに行くのか?

「ルードは、頭もいいし勘もいい。何より、どこから仕入れて来るのか知らないが、隠し持ってる情報量が半端じゃない。それに、ミラキほどじゃないがお節介、というか、なんだろうな…。

 差し伸べられる手が自分のものだった時、あいつは迷わない」

 だから。

 アンが新しい場所に対して抱いた不安を、微かな表情と気配の変化だけで読み取ったのか。

「それに、ここの連中はみんな君を歓迎してるよ」

 旋廻したヒューの視線が、惚けた少年の頭上に戻る。どこを押すのか、どこで引くのか、誰がどう動くのか、ヒュー・スレイサーの「強さ」は、まず、それを読み誤らないという部分に始まっている。

 微笑んで小首を傾げたヒューの腕から自然に外れた指先に視線を落とし、アンは戸惑うように瞬きした。もしかして、自分ひとりが緊張したり思い詰めたりと無駄に忙しくしていただけで、周りの「衛視」たちは…。

「あ………あの…」

 気配だけで判るほど戸惑って、耳まで真っ赤になって、アンは、引き寄せた手を握り締め胸に掻き抱きながら小さく呟き、俯いた。

 どうして自分はそうなのか。

 どうして周りが見えていないのか。

 どうしてもう少し冷静になれないのか。

 特別官舎の「衛視」たちを疑っていた訳ではないと思いたいけれど、結果的にアンは、一般官舎に移った時の「大変」を繰り返すのではないかと、我知らず、身構えていたのか。

「君は、そのままでいいよ」

 昼間と同じに言い置いたヒューが、少しだけ迷ってから、俯いたアンの髪に手を伸ばした。指先が柔らかい金髪に触れて、驚いたように持ち上がった水色の瞳に見つめられ、無意識に苦笑いが零れる。

 小さな子供か弟たちにするように、ちょっと乱暴なくらいに頭を撫でてやるつもりだったのに。

「………酔ってます? よね」

 瞬きしない大きな瞳が、一瞬だけ、ヒューが左手に提げているスピリットの瓶に移った。

「ああ、俺もそう思う。じゃあ…おやすみ」

「………」

 佇む少年から逸らされた視線。一拍遅れて離れた大きな掌と、最後まで残り、滑り落ちるように頬を通り過ぎた指先。

 鉄扉の向こうに消えた銀色を半ば呆然と見送りながらアンは、左の頬に手を当てていた。

 武骨ではないが見た目よりもずっと硬い、関節の浮いた指とマメだらけの掌がそっと触れた、左の頬。

「……冗談なら、もうちょっと冗談らしくして欲しいよな、もう」

 ヒューの手が伸びた瞬間、どうせ子供扱いで頭をぐるぐるされる程度だと思っていたアンは、その手がまさか髪を滑り頬に来るとは予想していなかったのだ。

「ヒューさんて、きっと酒癖悪いに違いない」

 そうわざと忌々しげに呟いて、少年は階段を駆け上がった。

  

   
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