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番外編-10- からくりキングと嘘つきピエロ |
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L字型に組み合わせた二つのパーツの端と端を指で挟み、小さくて細いボルトで締めた連結部分の稼働を確かめるように二、三度閉じたり開いたり動かしてみて、少々の違和感に小さく溜め息を漏らす。 先まで俳優だとか脚本家だとかがこっそりと言い争ったり不穏な空気を撒き散らしたりしていたベッカーの私室リビングには今、あの、部屋を仕切るように下げられていた分厚いカーテンを開け放ち、その内側に並べられている様々なパーツの間に座り込んだ主人だけが取り残されていた。 手の骨格の一部になる予定の華奢な部品を慎重に組み立て、時々関節部分の動きを確かめながら、ベッカーはあれから何度目かになる溜め息を、また吐いた。 普段ならば何も考えずにただ黙々と、今ベッカーを囲む無機質たちを組み立て、繋ぎ合わせ、時にはまたばらして納得行くまでやり直すという…男を取り巻く様々な不快と憂鬱から五感を切り離す…作業に没頭する筈が、どうにも上手く行かない。理由は判っている。判っているから。 それまで慎重に扱っていたパーツをぽいとぞんざいに放ったベッカーは、折り曲げていた長い脚を伸ばして投げ出し、その場に大の字になって寝転んだ。 「旦那様」 手元だけを明るく照らすライトの光の届かぬ天井の暗がりに視線を投げていたベッカーは、掛けられた声の方に意識だけを向けた。 「少し、お話をよろしいでしょうか」 「なんだ」 ベッカーが答えてすぐ、扉がぱたりと閉じる音。この屋敷で男を旦那様と呼ぶのは、執事であるドイルの他にはいない。 「クレイ・アルマンドの件ですが」 やや戸惑いがちに言われて、疲れた表情で虚空を見つめていた男が苦笑する。 「―――彼とは、大学院で同期生だった以外の繋がりは、正直、ありません。その彼がなぜわたしを尋ねて来たのか、…ただ会いたかったと言われただけでは、理由も思い浮かばないのです」 ドイルが戸惑うのも、判る。そんな、ある意味他人である男にずっと会いたかったと言われても、どうしていいのか、多分自分が当事者になっても判らないだろう。 「ですから…その…」 「上級庭園の常時入場許可は撤回しない、ドイル。クレイ・アルマンドはお前でなく、オレに、いつでも自由にドイルと会わせてくれと申し出て、オレがそれを許可した。でも、クレイ・アルマンドがどうしたいのか、お前がどうするのかは、オレの管轄外だ」 そう。クレイはベッカーと挨拶を交わした後、いきなり、上級庭園の常時入場許可…今現在ラド邸に居候しているセイルにも発行されている…をくれと言い出したのだ。 「ですが、わたしには、屋敷の仕事もありますし」 案外ずけずけと物を言うドイルにしては歯切れの悪い言い方に、ベッカーはつい笑ってしまった。 「お前があの脚本家先生をすげなくするのも自由だろ。別にさぁ、付き合ってくれとか言い出してるワケじゃないんだし」 「…この歳になって友達になりませんかと真顔で言われたわたしのいたたまれない心情は、ご理解いただけないので?」 「……何そんなこっ恥ずかしい事言われてんだよ」 「だからイヤなんですよ!」 ひょいと上半身を起こして顔だけを向けて来たベッカーを、ドイルが睨む。 眦も険しく語気荒くした執事のエメラルドグリーンを数秒間見つめ、不意に主人が意味不明の笑みを零す。馬鹿にしたようなでもない、しかし可笑しそうなでもない、どこかこう…生ぬるく微笑ましい感触のそれを目にして、金髪の執事は忌々しげに眉根を寄せた。 そんな。そんな。そんなそんな! 十六年間強固に変わらぬ捻くれ者で素直さの欠片もない「主人」に、まさかこんなほのぼのした視線を寄越されるとは! 「いいんじゃないの? それこそ三十をとうに過ぎたいい大人がさぁ、今さら友達になってくれなんて宣言しちゃうくらいに切羽詰ってんだから、そこは拒否するモンじゃないでしょ。 まぁ、オレは当事者じゃないからねぇ、気楽なんだけどもさ」 相変わらずの緩い口調で言い置いて、ベッカーはまたもや床に放り出してあった何かのパーツを摘み上げた。だから、この話題はこれでお終いだ。 まるで全てを拒絶するように向けられた背中を見つめ、ドイルは内心そっと溜め息を漏らした。 クレイ・アルマンドと必要以上に関わりたくない理由は、酷く複雑だ。そしてそれが、人間嫌いの主人に対する忠誠心から来る感情でない事を、ドイルはちゃんと理解している。だからこそ、主人であるベッカーを今不快にさせている事も。 それ。 その感情。 その内情。 大学院時代の恩師を連想させる事柄を屋敷に持ち込むのを、ドイルは良しとしていなかった。
翌日から、クレイ・アルマンドは暇さえあればラド邸に出入りするようになった。 とはいえ、意味もなくやって来てドイルとの友情…を深める訳ではなく、突如申し渡された脚本について監督と細やかに話し合いを持ち、ワンシーンずつ丁寧にシナリオを作ってはテスト撮影し、時に手直ししたりしながらの、実質的な本編の製作に入ったのだ。 おかげで忙しく屋敷を歩き回るスタッフも増え、自身の出番も増えたセイルが当初抱えていたおかしな悩みも、解消という訳ではないが、あまり青年を苛まなくなった。 「…つまり、ラド卿が、なんで登城しないか判らない、って?」 「うん、そう。別に、撮影に顔出す訳でもないし、何か言って来るような素振りも見せないのに、日がな一日屋敷に居るんだよ? まさかこっちの撮影に付き合ってくれてるワケじゃないだろうけど、じゃぁなんで? って思うよね」 一体どんなシーンの撮影だというのか、相当薄汚れた衣装を着せられた上に顔に泥まで塗られていたセイルが、血糊に塗れた手をタオルで拭きながら小首を傾げる。 「じゃぁ、訊きゃぁいいんじゃないの」 「なんで仕事に行かないんですかーって?」 小道具など細かなものに溢れ返ったそこは、衣裳部屋として支度して貰い、比較的多くのスタッフが忙しく出たり入ったりを繰り返している場所だった。 先ほど室内でリンチされるシーンを撮り終えたばかりのセイルが、難しい顔で眉間に皺を寄せながら、唇の端にへばりついた血糊を拭き取る傍ら、クレイは持ち込んだラップトップ式端末を睨んで何かを忙しく打ち込んでいる。 クレイの言う事は尤もだった。気になるなら訊けばいい。しかしセイルは、なぜか、それを躊躇していた。 何から何まで、踏み込んではならない人のような気がする。訊けばきっと彼はのらりくらりと答えをはぐらかし、結局、何も判らないまま煙に巻かれて終わるのではないだろうか。 そう思うから、そう答えたセイルの顔を、鏡越しにクレイはきょとんと見つめた。 「じゃぁ、諦めたら?」 「そう簡単に諦められないから、困ってるんじゃないか」 大きな姿見。そこに映る青年が汚れた衣装のまま、肩越しに写し出された男を剣呑な目付きで睨み返す。 一瞬の静寂。 その合間。 それなりにざわついていたドアの向こうが、俄かに騒がしくなった。 ひっきりなしに出入りするスタッフが開け放ったままにして行った扉の向こうは玄関ホールで、この小さな部屋は元々客人に着いて来た使用人用の待機所らしかった。 主に一階の大広間や談話室、食堂などを中心に撮影を行っている事と、近付いてはならないと言い渡されている主人の私室などが二階に集中していたから、多少手狭ではあるが、この待機所を衣装室兼小道具室に使わせて貰っているのだが、玄関ホールが近いからなのか、時々こういう…騒ぎに遭遇してしまう。 セイルたち主要俳優が本格的な撮影に入る前から、ラド邸には多くの「客人」が訪れるようになった。 まぁ、つまり。 溜め息混じりに視線を交わし合ったセイルとクレイは、足音を忍ばせて開け放ったままの扉に近付くと、そーっと片目だけを覗かせて向こう側の広い空間を窺った。そこには予想通り、なんだかきらびやかに着飾った見知らぬ若い男が気持ち悪いくらい満面の笑みで立っており、背後に控えるタキシード姿の中年男性に羽織っていたコートを脱がせられている最中だった。 居座る気満々か。 「ベッカーは? 居るんだろう?」 「申し訳ございません、エルダス卿アヌ様。旦那様は本日これより登城の予定となっておりますもので…」 「ああ、じゃぁ、戻るまで待たせて貰っても良いかな。うん、君も、私たちには構わなくても良いから」 全体的に派手な出で立ちの男はさも親しげに言いながら、佇むドイルの脇をすり抜けて屋敷に侵入しようとする。それを引きとめて良いものかどうか執事が戸惑ったのは一瞬で、ドイルはすぐに表情を引き締め、行き過ぎようとする男に向き直った。 「旦那様はどなたにもお会いになりません、アヌ様。申し訳ございませんが、お引き取り下さい」 固い口調できっぱりと言い切り、深く頭を下げたドイルをアヌが振り向く。 「生意気な執事め。取り次ぎもせずに勝手な事を」 「元より、旦那様より取り次ぎは必要ないと申し渡されておりました」 「だから、ベッカーを呼べ!」 「旦那様はどなたにもお会いになりません」 主人を呼べと喚き立てるどこかの貴族。彼の目的がベッカーでない事は明白で、屋敷の中を歩き回る俳優陣、ジャンだとか、リリスだとかとあわよくばお近付きになりたいだけなのだろう。 会わせろ、会わせないとどちらも引かぬ言い合いは延々と続く。貴族は最早取り繕う事も辞め、眦を吊り上げて口汚くドイルに対する罵りを混ぜ始めたが、ラド邸執事は眉一つ動かすことなくひたすら引き取れと主張した。 しかも、こんな騒ぎは決して珍しくないものだから、玄関ホールで騒がしい声がし始めると俳優やスタッフは極力姿を見せないようにする。それで余計に、貴族どもは苛立つのだ。 こうして自分の都合良い時にだけ作り笑顔ですり寄って来る貴族どもを、あからさまではないが嫌悪している主人を護るために、ドイルも必死だった。ここで引いては、これまでの十六年でようやく築き上げた主人と自分の信頼関係が、脆くも崩れ去ってしまう。 ただでさえ、クレイ・アルマンドのせいで少々綻びが出来ているのに! 「お引き取り下さい。旦那様はどなたにもお会いに…」 なりません、と続くはずだったドイルの言葉が途切れて、アヌが眉のお終いをぴくりと震わせる。 「大変申し訳ございませんが至急お引き取り下さい、アヌ様。 如何なさいました? お一人でいらっしゃったのでしょうか、ナイ・ゴッヘル卿…イムデ様」 再度おざなりに頭を下げたドイルは、不審げな顔をしたアヌの背後に立つ執事に目くばせするなり、失礼を覚悟で彼らを軽く押し退け玄関ドアの前を空けた。それで当然、ますます顔を真っ赤にして今まさに喚き散らそうかとする貴族の背後、いつの間にか細く開けられたドアの隙間から、砂色の髪が覗いている。それが、執事に声を掛けられた瞬間、びくりと震えた。 「ナイ・ゴッヘル卿?」 アヌが肩越しに振り返り、不審げな声を発するなり、ナイ・ゴッヘル卿…王都警備軍電脳魔導師隊第九小隊小隊長、イムデ・ナイ・ゴッヘルは、寝癖なのかなんなのか、毛先のあちこち跳ね回った光沢のない砂色の髪を震わせて、小さな声で、本当に聞き取れるか取れないかというぎりぎりの声で、今にも泣きそうに、「ベッカーは?」と、呟いた。
なんとかかんとか平身低頭したドイルがアヌと付添いの執事を追い返すまでの時間、なぜなのか、イムデはそのドイルの背後に張り付いてタキシードの裾を掴み、俯いてふるふると震えていた。 その一部始終を細く開けたドアの隙間から窺っていたセイルとクレイが、煩い貴族がようやく退散したのを確認して、そーっと控室から滑り出して来る。それを目端に捉えたドイルはあからさまに困った顔を作ったが、色んな意味で好奇心旺盛な俳優と脚本家は気付かない振りをして、一歩、彼らに近付こうとした。 動いた人影に恐れをなしたイムデがまたも大袈裟に肩を揺らすのと、同時、玄関ドア正面の大階段の上から、いつもと同じにやる気のない、しかし驚きを含んだ声が掛かった。 「イム?」 覇気がなく、低く、聞き取り難い声。 それがこの屋敷の主人だとセイルとクレイが認識し、首を巡らせて声の主を振り返るのと同時に、二人の視界を掠めてイムデが駆けて行く。 「ベッカー…」 多分それが彼らの常なのだろう、転がるような勢いで、階段の途中に佇むベッカーの元に駆け込んだイムデ少年は、何の気遣いも戸惑いもなく、手摺に身体を預けた男の細い胴体に腕を巻き付けるようにして、その胸に飛び込んだ。 「おーおー。一人で来たのか? どうした」 セイルと背丈はそう変わらない…決して、俳優が小さい訳ではない…体当たりを食らってもびくともしなかったベッカーは、胸元にぐりぐりと額を押し付けながら小さくしゃくりあげるイムデの頭を撫でてから、その痩せた身体をひょいと抱き上げた。 「少し落ち着こうな、もう大丈夫だから。―――ドイル、お茶とお菓子の用意」 小さな子供にするように膝裏を抱えてイムデを持ち上げたベッカーは、首根っこに噛り付いて小さくなった少年の頭を自分の肩に押し付けて颯爽と身を翻し、控室前に呆然と立ち尽くすセイルとクレイには目もくれずにまた階段を上って行く。 まるでその場には誰もいないかのように。 まるで。 完全に、彼らの存在を。 無視し。 イムデの耳元で何事かを囁きながらL字に折れた階段をゆっくりと登って行く薄い背中を見送りながら、なぜなのか、セイルは酷く動揺し、ショックを受け、瞬きも忘れて二人を目で追っていた。 「申し訳ございません、セイル様。ナイ・ゴッヘル卿がおいでの間は、リビングへの入室をご遠慮願えますでしょうか」 つかつかと近付いて来たドイルに頭を下げられてはっと意識を取り戻したセイルが、慌てて執事に視線を当てしどろもどろに返す。 「あ、え、…あの、はい。判りました…」 「それでは、失礼いたしま―――」 「ドイル、今の…誰?」 再度低頭し二人の元から離れようとしたドイルにクレイが固い声で尋ねると、金髪の執事は一瞬眉根を寄せ、それから、溜め息交じりに答えた。 「王都警備軍電脳魔導師隊第九小隊小隊長、イムデ・ナイ・ゴッヘル卿です」 明らかに迷惑そうなドイルの返答に、クレイとセイルが頬を強張らせる。確かに自分たちは招かれざる客かもしれないし、ラド家の事情に首を突っ込む気もないが…。 「あ、や! すまん…その…」 執事の発する冷えた空気に恐れを成したのか、クレイが慌てて言い訳しようとする。何に対してなのかは、多分、本人も判っていないだろうけれど。 「ナイ・ゴッヘル小隊長は旦那様の上官に当たるお方です。現在は自宅療養中との事でしたが、お一人でお屋敷を出られるのは稀な方ですので、旦那様も何事かとご心配なされたのだと思います。失礼いたします」 苛立ちを含んだ声で早口に説明し、ドイルはさっさと踵を返して階段横を通り抜け、キッチン方向へと歩き去って行った。その背を見送り、見えなくなって、セイルとクレイが同時に溜め息を漏らす。 「失敗しちゃったのかね」 「―――そうみたい」 俳優どもを冷やかしに現れる貴族の誰とも会おうとしなかったベッカーが自ら部屋を出て来た珍事にいらない興味を抱いたのは、認める。 「まいったなぁ」 ドイルと健やか且つ発展的な友人関係を築きたいと望んでいるらしいクレイにとっては、痛い失態だった。 本気で弱ったように呟いて項垂れた脚本家を目端に捕らえたまま階段の向こうをしばし見つめてから、セイルは。 なんだかもやもやとした気分のまま無言で控室に向き直り、さっさと引き返した。そうだ、もうすぐ次のシーンのカメラテストがあるんだった。お仕事お仕事! と気分を変えるように心の中で自分を叱咤してみるが、今見たばかりの光景が目に焼き付いて、離れない。 躊躇なく胸に飛び込んだ華奢な背中と、その背に回された、細長い腕。 いつも飄々と、誰も必要以上に近付けず、――――。 聞き取り難い低い声が呼んだあの少年の名前が、酷く耳に残った。
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