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番外編-10- からくりキングと嘘つきピエロ |
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どこかしら大人びた表情で、自分を取り巻く全てのものを達観し、または諦め、時に放り出し抱え込み。 たった、十二歳と数日。 少年は最後の最後で、玉虫色の光をゆったりと回す双眸を眩しいものでも見るかのように眇めて、薄く微笑んだ。
「じゃぁ、ドイル。約束だ。ぼくとお前の「秘密」は、絶対に誰にも漏らさない事。もしお前がこの約束を違えたら、二度とラド邸の門は潜らせない。でも、お前がぼくとの「秘密」を守れたら、ぼくはお前が望む限りお前の「主人」でいる
秘密。秘密。秘密。毎日のように溢れ返る、秘密。まるで若い執事がそれをうっかり漏らしてしまうのを望むように、秘密は山積みにされていく。 それから、十六年。 積み上げられた秘密はいつの間にか減り。 執事は、今もこの屋敷に居る。
無言でありながら、さぁよこせ、と圧力を掛けているベッカーに引き攣った顔を向けたクレイは、口の中でごもごもと何かを呟き、視線だけをうろうろと彷徨わせていた。ここでまさか「はいどうぞ」とは言えないだろう。何せ、クレイの「計画」は始まったばかりで、なのにラド邸の出入り禁止となれば、その始まったばかりの計画が頓挫どころか立ち消えの危機さえ迎えてしまう。 「困ります? んですけどねぇ」 「オレは困らんよ」 「こ…困りますよね!」 「いや、全く」 顔の前に突き出された掌は一向に動く気配なく、しかも即答で冷たい事を言うベッカーの薄笑みを真正面に、クレイは背中に嫌な汗をかきつつソファの中で目一杯後ずさった。 「困りますって、おれが!」 「アルマンド様のご都合に関しましてはこちらの与り知らぬ所ですので、申し訳ございませんが、旦那様の仰る通り許可証の返却をお願いいたします」 これっぽっちも申し訳ないと思っていないような平坦な声を背後から掛けられて、クレイは青褪め振り返った。 「そりゃないだろ、ドイル!」 で。 クレイはますます顔色を悪くして固まった。 いつの間にか近付いて、ソファのすぐ後ろに立っていた執事は今まで見た事も無いような冷たい無表情で、脚本家を見下ろしていたのだ。そう! びっくり系のホラー映画さながらに! 内心の悲鳴が口を衝いて出なかったのが不思議なくらいの衝撃! 「旦那様から今日まで明確な拒否のお言葉がありませんでしたので私も我慢に我慢を重ねておりましたが、こうなればもう遠慮は必要ありません。今すぐ、即刻、通行許可証を返却し、とっとと屋敷から出て行って下さい」 鋭い刃物でざっくざっくと胸を抉る言葉を情け容赦なく吐きつけて来るドイルに返す言葉も無く、クレイはその場に凍りつく。いやね、判ってたけども。うすうす感付いてたけども! 刹那、膠着。 脚本家の口から、飾る事も抜け落ちた素の言葉が零れ落ちる。 「…そこまで嫌われてたなんて…」 「いや、嫌われてはないでしょ」 しかし。 絶望に塗り潰された力ない一言を、正面に座す旦那様があっさりと一蹴した。 「………」 姿勢良くぴしりと佇んだままのドイルからは、否定も肯定も帰らない。 だから。 差し出していた手を元通り頬杖の形に戻し、ベッカーはちょっと意地悪そうに笑った。 「ドイル・ハスク個人としてはさぁ、別にクレイ・アルマンドを嫌ってはいないでしょ。ただし不幸な事に、脚本家先生が再会のきかっけに使った「大学院時代に見た事がある」って事実が、ドイルには許せない」 そんなの。 「そんなの…おれに、どうしろってんだよ」 にやにやするベッカーを呆然と見返したクレイの呟きを、執事が首肯する。 「私はそれをどうして欲しいとも思いませんし、どうにもならないというのも判っています。しかし、どうしても、旦那様とドリー教授にこれ以上の接点を持って欲しくはありません。そんな私の独り善がりを旦那様が良く思っていらっしゃらない事も、判っているつもりです」 消えない過去がクレイとドイルを再会させ、消せない過去が、これ以上の関わりを否定する。 忘れてはならない。クレイ・アルマンドは、今、試されているのだ。 面白がっているというよりも何か探るような玉虫色の光を見つめ返し、クレイは考える。ここで諦めたくはない。だから、諦めずに済む方法を。 「―――嫌な気分だ」 「そりゃそうだろ。理不尽な言い掛かりだからな、これは」 「でも本当に嫌われているのでないなら、どうにかしたい」 「どうしたい?」 「少なくとも、おれにはどうしようもない理由で尻尾を巻いて逃げ出すのは、ごめんだ」 「へぇ」 「ドリー教授を知ってるって、それだけで、「おれ」を無かった事にされるなんて、冗談じゃない」 「なかった事に、ねぇ」 「おれは、おれの前からドイルが消えてから一度も、彼を探さなかった。方法も、手掛かりもなかったからだ。そう思っていたからだ。でも、あの日おれは小さな写真の片隅に写っていたドイルを、一度で見分けた。すぐに気づいた」 「再会する運命だって?」 「まさか!」 そこでクレイは大仰に肩を竦め、大きく首を横に振った。 「どんな犠牲を払っても、卑怯な手を使っても、今度こそドイルを振り向かせようと思ったよ。リリスに殴られる覚悟で無茶を言ってこの屋敷に連れて来て貰ったのも、全部、おれがおれの為に決めた! おれはこのチャンスを、おれの手で作った」 さぁどうだ! とでも言い出しそうな勢いで肩をいからせたクレイを数秒見つめてから、ベッカーは苦笑しつつ肘掛け椅子の背凭れに身体を預けた。 「だから?」 からかう風でもなく、咎める風でもなく、嘲笑も哀れみも無く、ただただ平坦な声でベッカーに問われたクレイが、表情を引き締め背筋を伸ばす。 「だから、おれはこのチャンスを、手放したくない」 表面上は冷静にベッカーを説き伏せようとしているように見えて、クレイは多分必死なのだろう。いつもはどこかしら飄々として掴み処のない男の頬が白く緊張に強張っているのを全く感情の窺えない表情で見返した、当主は。 もう一度ゆっくりと腕を上げ、もう一度、急かすように掌をクレイに向けた。 「じゃぁ、やっぱり通行証は返して貰わなくちゃなんないねぇ」 腹立たしいほど落ち着いた声に、クレイが微か目を細める。 「―――脚本家の先生。あんたは、どうあっても、逆立ちしても、事実、ドイルがこれ以上オレに近付けたくないと思ってるユアソン・ドリー教授の興味を引く存在だ。今すぐじゃないにせよ、近くをうろちょろしてればいつか、どこかから、あんたがドリー教授の教え子だったってのは本人に知れるだろうよ。 で、だ。多分、それが知れたとしたら、向こうは間違いなくあんたに接触して来る」 「ドリー教授が、中途退学の不真面目な生徒の事なんか覚えちゃいないとしても?」 可能性を提示するベッカーと、可能性を潰したいクレイ。 「ドリー教授が脚本家先生を覚えてるかどうかは、問題じゃない」 「じゃぁ!」 何が言いたいんだ、と叫びだしそうなクレイの顔を、暗い光を封じ込めた玉虫色が見つめ返す。 睨み合う二人の間にあったベッカーの手がゆったりと翻り、細長く筋張った指がこつこつと自分のこめかみを叩いた。 「確実に食い付くよ、セシル・ドリーは」 言われて、瞬間、クレイは聞き覚えのない名前に、え? と目を見開いた。 「「彼女」はドイルと接触する機会を窺ってる。今は家族の監視が厳しくて大人しいけどもね、少しでもその手が緩めば、またすぐ騒ぎを起こす。屋敷を脱走するために監視の執事の情に訴えて泣き落とし、それでも駄目なら色仕掛け、それも失敗すれば今度は寝巻きに裸足で逃走して捕まり、軟禁された部屋から出るためにオーバードーズまで、何でもアリだ」 苦笑も漏らさず淡々と並べられ、クレイは唖然とする。それは…それは、誰、の話だ? それは。 「セシル・ドリー。オレの元妻で、ドイルに恋焦がれる余りこの屋敷に執着して、他の男の子を身篭ってまで居座ろうとした、哀れな女さ」 硬い表情で硬直したドイルを、クレイがはっとして振り返る。 それは、秘密。 ベッカーとドイルの、知る、秘密。 クレイの凝視する先で、ドイルは見る間に青褪め、ぶるぶると震え出した。それがどうにも異常に見えて、脚本家がソファから立ち上がろうとした時には既に、音もなく肘掛け椅子から離れていたベッカーがゆっくりと執事に近付き、腕を広げて男を抱き締める。 「旦那様…。だんな、さま、旦那様、旦那様、旦那様旦那様旦那様」 「大丈夫、大丈夫。あいつはもう来ない。だから、大丈夫だ、ドイル。怖い事は何もない。大丈夫。オレは、お前だけには嘘は言わない、ドイル。そういう約束だっただろう?」 だから、少し、休もうか。と、ベッカーは、小さくなって震える執事を抱き締めたまま、いつものように覇気なく、呟いた。
脳裏にこびりつく、小さくなって肩を寄せ限界まで項垂れて顔を隠し、背丈ばかり高い痩せぎすの主人の胸に収まった、白手袋に見事な金髪、タキシード。
様子のおかしいドイルを自室まで送り届けたベッカーがリビングに戻ると、ソファには今だ呆けた顔のクレイが力なく座り込んでいた。 「さて、脚本家先生、どこまで話したっけ?」 胡乱な顔を上げたクレイに、ベッカーが軽い調子で話し掛けて小首を傾げると、脚本家は眉を寄せて不快そうな顔をした。 「もっと真面目に話す内容なんじゃないですかね、旦那様」 嫌味全開の尖った声を耳にして、ベッカーがこれまた不真面目に肩を竦める。 「それは、失礼」 やる気がないのか、わざとなのか、ベッカーはあくまで軽い調子を崩さない。 「……それで、ドイルに何があったんですか」 問われて、ベッカーは細長い足を組み肘掛に預けた両手を身体の前で組み合わせた。 「セシルはこの屋敷に来てすぐからドイルに、まぁつまり、オレの知らない所で、好きだ愛してる自分に愛情のないオレにではなくドイルに愛されたい、離れたくない、ぶっちゃけた話、抱いて欲しいと再三再四迫ってたらしくてさぁ、でもドイルはオレを裏切るつもりはないって、ずっと突っぱね続けてた。それで業を煮やしたのか、癇癪を起こしたのか、ある日、おかしな時間に部屋に呼ばれて行ってみたら…」 瞬きの少ない玉虫色が、クレイの反応を見逃すまいとしている。 「ユアソン家から同伴して来てた執事頭の、それこそドリー教授と大差ない歳のおっさんとヤッてた所を見せられて、パニックで過呼吸起こしてぶっ倒れた」 は。の形に口を開けたクレイに、ベッカーが苦笑を吐きつける。 「完璧な当て擦りだろうよ。連絡を受けてオレが城から戻ってみれば、セシルも執事頭も平然としてるのに、ドイルだけが酷く怯えてて手が付けられない。だから、絶対に誰にも話さないから、何があったのかオレにだけ教えろって散々説き伏せて、ようやく口を割らせたんだよ」 「―――そいつらは、何を考えてたんだ!」 「執事頭はただのお愉しみ程度だろうな。一般居住区にも「恋人」の大勢居る精力旺盛な御仁でね、元々どうにも怪しいんで、休みの度に居住区に下りては立ち回り先を徹底的に当たって、数人の「恋人」に接触してた最中の出来事だった」 おかげで、オレに大勢愛人が居るような話になってたのは、洒落にならなかった。とベッカーは乾いた笑いを漏らした。 「クビにする理由を探してる内に事件が起こって、おまけにセシルが妊娠してな、証拠衝き付ける前に尻尾巻いて逃げられたけども」 なんという。酷い話だ。 「その…ドリー教授の娘は、ドイルが好きだったんだろう? なのに、その執事長と関係を持ってたって事は、結局はドイルも裏切ってたのか? 好きだとか、愛してるとか、言っておきながら」 「本人はそう思ってなかったんだろうよ。ドイルが振り向いてくれない。だからちょっと刺激的な所を見せて、意識して貰おう、くらいの気持ちじゃないの?」 聞いて、クレイはばすんとソファの背凭れに身体をぶつけ天井を仰いだ。 「不誠実過ぎる! そんなんじゃ気持ちなんて伝わらないだろう」 「なんでも自分の思い通りにならないと気の済まない、わがままなお嬢様だったからな。…つうかさぁ」 最後の部分をちょっと気の抜けたように呟いて、少し、じっとクレイを見つめた後で、ベッカーはなぜか小さく苦笑を漏らした。 「まさかあんたの口から「不誠実」なんて台詞が出るとは、思ってなかったわ」 言われて、クレイはぐっと言葉に詰まった。 分かっている。自分の見た目がつまり、少々軽く見られがちなのも、その見た目に合わせてわざと軽薄に振舞っているのだから、分かり過ぎるくらいに、分かる。おまけに自分は「小説家」で「脚本家」だ。美しく飾り立てた耳障りの良い言葉の羅列で数多の観衆を虜にするのが仕事の。 つまり、頭の悪い女主人に簡単に裏切られた執事から見たら、到底信用できる人間には見えないのだろう。 と、分かっては、いるのだが。 「―――ドイルがおれの前から消えて、十六年。当然、身奇麗だったなんて寝言を言うつもりはないさ。それなりに派手な世界に居て、それなりに…まぁ、色々とあったし。しかしだな」 センターテーブルに身を乗り出して力説しようとしたクレイに向けて、声を殺して笑いながら顔の前に掌を翳す、ベッカー。 「そりゃ、こっちだって分かってるけどねぇ。別にさぁ、あんたが今の今までドイルを一途に想ってたなんて、それこそ当のドイルだって考えちゃいないでしょ。だから、いいんだよ、それは。オレがあんたに望むのは、この先の「誠実」であって、昨日までの清い生活じゃないんだし」 過去なんてさぁ、もう、どうでもいいんだよ、この場合は。 と、いやになるほどあっさりと、ベッカーは言った。 ひとしきり笑って気が済んだのか、ベッカーは肘掛け椅子にだらしなく座ったまま、再度、腹の上で両手を組んだ。 「―――結局、オレには出来なかった。なぁ、脚本家の先生。あんたに、最後までドイルを「守り切る事」が出来るか?」 その組んだ手の指先に視線を据えたまま、ベッカーが疲れたように呟く。 天蓋越しの陽光を躍らせる、美しく磨かれた大窓。その大窓を背にしたベッカーの、艶の死んだ金髪がゆっくりと動いて、血色の良くない、頬の削げた顔が上がり、普段は眠たげに瞼の落ちそうな双眸が、意思を持ってはっきりと、あの玉虫色の中に金属光沢を宿す。 注がれる、射るような視線。 「セシル・ドリーの歪み切った執着から、ドイル・バスクを、護る事が出来るか?」 問われる。 瞬時に喉が干上がり、言葉を発する事も、呼吸もままならない。 「出来ないなら、今すぐに通行許可証を置いて、二度と屋敷に来るな。出来るなら、あんたの持ってる「来賓用」じゃなく、家族用の「常時通行許可証」を渡す。 さぁ、どうする、クレイ・アルマンド」 細長い足を組み、光の溢れる室内に居ながらにして、ベッカー・ラドはまるで夜気のような冷たく沈んだ気配を放った。
「どうして、あなたが、まもってやらなかった!」
まるで、自分たちが出会った「過去」と戦えるか? と訊かれているようだと、クレイは思った。
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