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番外編-10- からくりキングと嘘つきピエロ

   
         
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と、まぁ。

脚本家クレイ・アルマンドには言ったものの。

その実、事態はそれ程深刻でもなければ逼迫した状況にもないんだけどもね。含み笑い。というのが、色々としでかしてくれた脚本家をじんわりと追い詰めて溜飲を下げたベッカーの内心だった。

朝から居住区のショッピングモールに行ったり、現状確認のために少々遠回りして帰宅したり、クレイ・アルマンドを脅かしたりしていたおかげで、時刻は既に夕暮れ時になっていた。

果たして、戻る自室が今だ荒れ果てたままのベッカーは、仕方なく、先ほど散々クレイを「からかった」応接間の肘掛け椅子に収まり、普段通り覇気のない、眠たげな表情で暮れて行こうとする室内に留まっている。

そう。

概ね目的と質問の内容に偽りはないが、ベッカーがクレイに話したドイルと元妻、セシル・ドリーの顛末には、実は続きがあった。

セシル・ドリーは結局、生家に戻されて何度か脱走騒ぎを起こした後、あっさりと、ドリー家から連れて行った当時の執事長と関係を持ち、妊娠し、その執事長に脅かされる形で堕胎を「繰り返していた」との書き置きを残して、自殺未遂事件を起こす。当人は死に切れなかったのか、単に怖気づいたのか、軽い怪我をしただけで命に別状はなく、しかし精神的に不安定と診断されて、今は医療院に入院したままであり、退院の目処は立っていなかった。

だから、ベッカーがクレイに言ったセシル・ドリー云々というのは、腹いせというか八つ当たりというか…。

静寂というよりはどこかしら騒々しい静けさの蔓延する、室内。斜陽の赤はただただ赤く、しかし天蓋のそのもっと向こうは既に群青色を濃くし、星の瞬く夜が忍び寄っている。

室内。

定位置の肘掛け椅子に収まったベッカーは、着崩した白いシャツの襟足に掛かるアッシュブロンドを微かに揺らし、頬杖を突いたままくすりと笑った。

数多の魔導師たちがそうであるように、いくらどんなに「らしくなく」やる気も気力もないようにして、結局はベッカーも様々な選択肢をその都度その都度徹底的に弾き出してその先を予測し、「ああ、やっぱそう来たね」といつ何時も揺るがぬ眠たい表情で緩く答えるくらいには、魔導師だった。だから、あれだけ不必要に緊張感を持たせて吹っかけた「問い」に対するクレイ・アルマンドの「答え」自体に、驚きはない。

驚きはしないが、ああも即答されるとはね。くらいは思ったが。

「………」

結果。ベッカーの質問にクレイは。

     

「なら、迷わずにそれを差し出して頂きたいモンですね。旦那様?」

     

と、いかにも芝居がかった大袈裟な仕草で言いながら、「Guest」と書かれた通行許可証を差し出し、にこりと微笑んだ。 それを別に相当な覚悟の上だとはベッカーだって思わない。しかし、少しくらいは迷うだろうという予測は、算出した中で最も短い思考時間で「OK」を返して来た。

三十をとうに過ぎた良い大人、というよりは、もう四十に手が届きそうな地位も名誉も財もある有名人が、もしかしたらその全てを投げ出す覚悟で関わるには、ドイル・バスクというラド邸執事の「価値」は低い。しかしそれは多分他人の不幸と愛憎を面白おかしく書き立てるゴシップ誌を含む世間大多数の意見であって、当人が当人の「気持ち」で判断する世界の価値観とは、交差し倣うなんてもっての他、もしかしたら歩み寄りもしないだろう。

だから、クレイ・アルマンドは「迷う」、とベッカーは判断した。

ただし、その一方で、「迷わない」という選択肢が最後まで消せなかった理由も、彼にはあった。

十代、二十代の、恋愛に浮かれ脳内がお花畑になって浮き足立つ年齢であるはずもなく、再会するまで全く関わりの無かった、つまりはつい昨日までどうやって暮らしていたのかさえ知らぬ相手だからこそ、勢いではなく、きちんとそこに至るまでに熟考し、プロポーズしていたのだとしたら。

つまり、覚悟が決まった上での、「今日」だったとしたら。

「まぁ、どっちにしても、脚本家先生が「断る」とは、オレも思ってなかったしなぁ」

だらしなく肘掛け椅子に収まったまま、ベッカーは溜息混じりに呟いて苦笑した。そう、回答に至る経緯と時間はどうであれ、断るか断らないか、という単純な二択のうち生き残るのは「断らない」だろうと男は予測していたのだ。今後の流れで最終的に二人が袂を分かつとしても、今は。

「…転がり込んで来た十六年後の再会を、クレイ・アルマンドは簡単に諦めない。そもそも二人は当時親しい友人関係に無かったのだから、共有出来る思い出も少ないだろう。だとしたら、脚本家先生が次に考えるのは、まず」

きちんとお互いを知り、理解し合い、その上でこの先の人生手を携えて歩めるかどうか、見極める事だろうよ。と、ベッカーは。

薄っすらと口元に緩い笑みを浮かべ、目を細めた。

ある意味慎重でありながら、しかしいきなりプロポーズして断られるなんて「予定通り」のルートを進んでしまうあたり、あの男は繊細で大胆で無鉄砲な癖に、策士だ。なんだそれすげぇ。というか、侮れない。さすが? うん、さすが。

「思い通りに物語を紡ぐ、彼は「シナリオライター」だって事かね」

ブラボーブラボー。

ベッカーは再度くすりと口の端で小さく笑い、では、さて、今度は舞台を「こちら」に切り替えますか。と内心一人ごちて、執事を呼び出すためのベルを、リン! と鳴らした。

     

     

ここ数日そうであるように、「お食事の用意が出来ました」とドア越しに沈んだ声を掛けられ、部屋の主(あるじ)…臨時の、だけれど…セイルは、また今日も何もせず、何も考えず、ただ無意味に失望したまま終わったなと感じた。

膝を抱えて丸くなっていたソファからのろのろと降り、ふと気になって、屋外の闇を写す窓に目を向ければ、そこには血の気の失せた不景気な顔の、自分。ああ、なんて不幸そうな顔だろう。そんな顔をする資格も意味も、自分にはないのに。

と、思った途端全身に掛かる、意味不明の重み。

「…セイル様?」

再度、遠慮がちにドアをノックする音と小さな声が室内に響いても、青年は応えどころかピクリともせず、ただじっと窓に閉じ込められた幽鬼のような自分を見つめていた。

「セイル様!」

世界は残酷だ。いや。世界を構成する小さな密集した点であるところの、人間は残酷だ。良かれと思って取った行動が裏目に出る。それはつまり、自分が自分を裏切るようなものなのだろうか。分からない。判らない。

「失礼します、セイル様!」

数回激しくドアを叩き中からの応答が無いのを確認してから、ドイルが飛び込んで来る。それに顔も向けず、しかししっかりと自分の両足で部屋の中央に置かれた応接セットの傍に佇んでいる青年を目にして、執事は明らかに安堵の吐息を漏らしたようだった。

その執事の表情が俄かに曇ったのは、立ち尽くすセイルの胸に抱かれた、白く、無表情に、ひび割れた、仮面(マスケラ)に注意を引かれたからか。

青年の胸に抱かれたマスケラは、無表情に虚空を見つめている。それと同じように、青年もまた青白い顔で窓を見つめている…。

まるで。

天井から吊るされて、身動きの出来ないからくり人形(ドール)と、身じろぎしない青年の姿が、被る。

「――――セイル様の、言う通りでした」

不意に、ドイルは硬い声で呟いた。

ドイルの存在など始めからないもののように、じっと窓を見つめたまま動かないセイルの横顔。その、表情の抜け落ちた、だからこそ酷く清廉で脆い、朧な身の内に届くように、執事はゆっくりと、しっかりと、言うべき事を口に上らせる。

誰も動かない。

だからまるで、誰も居ない。

音楽は、ない。

夕暮れ。灯りも点さず薄暗い室内で、暗い玉虫色の光で射るように執事を見つめた主人が言った。

おれが、夕食を作ってやろう。

だからお前は、ムービースターを部屋から連れ出せ。

     

お前も、「観た」なら判っただろう? オレたちの十六年は無駄でも無意味でもなかったが、「オレたち」はひたすら愚かだったって。

オレたちは、お互いに、拘り過ぎてたんだよ。

     

そう、あの主人が言うのなら。

「私が、主人をお護りしなければならなかった。それなのに、私は護られてばかりで、それに気付きもしないで、…臆病で…」

どこまでも独白になるかもしれないと予想しつつ話し続けるドイルの視線の先で、意外にも早く、セイルがゆっくり瞬きする。それは間違いなく注意を向けられているサインだと、執事は思った。

「事業に失敗した両親が家財を畳んで他のエリアに移住し、その時、もう成人しているのだから一人でもなんとかなるだろうと置いて行かれた事を、恨んだり悲しんだりはしていません。ただ、これだけあれば新しい生活を軌道に乗せるまでなんとか暮らせると渡された僅かなお金も、安いアパルトメントの契約権も、質の悪い取立屋に毟り取られた時は、本当に、絶望しましたが」

苦笑の滲む声で淡々と話し続けるドイルを、青年は振り返らない。

「行き場がなかったんです。どうしていいのかも、判らなくなって。パニック状態だったんでしょうね、きっと。無意識のうちに、退学したばかりの大学院に向かって」

そこで、恩師であるドリー教授に会ったんです。

自分でも笑ってしまうような震えた声だった。それに反応したかのように、ゆっくりとセイルの首が旋回し、ひたりと、琥珀色の双眸がドイルの碧眼を捉える。

室内の静寂が一気に緊張する。

     

私は、多分必死だった。突然失くしてしまった自分の居場所を求めて、ただひたすら必死だった。紆余曲折あったにせよ、旦那様はそんな私を受け入れてくださった。どんなに捻くれた事を言っても、私にも、周りにも無関心なようでいて、あの方は、決して何かを放り出すような事だけはしなかった。ラド家という家族の形が壊れても、夫婦という…セシルお嬢様との関係が歪になっても、粉々に、砕けても、旦那様は。

     

「私が、旦那様を苦しめた。私がどこかで旦那様との「秘密」を諦めれば、あの方はいつでもこの屋敷を捨て、過去の柵を捨てて、自由になれた。それなのに、私がその…毎日積み上げられていく些細な「秘密」にしがみ付いていたばかりに、旦那様はどこにも行けず、自由にもなれず、ただ」

     

不意に俯いたドイルは一度言葉を切ると、ぎゅっと固くその唇を引き結んだ。

最後まで、言うのだ。言わなければならないのだ。息苦しい家の中。山積する問題。そういう、冷たく、硬く、刺々しいものに耐え続けた主人のために。

言え! その「仮面」など、最早何の意味もないのだと。

「あの日、いい大人がみっともなく泣きながら一人では生きて行く方法さえもう判らないと訴えた私のためにだけ、「あのからくり人形(ドール)を作り続けなければならないから、この屋敷は捨てられない」と言い続けた」

一度俯き、それから顔を上げたドイルは、じっと見つめて来るセイルを真っ直ぐに見返した。

「セシルお嬢様の件があってから私は、旦那様をお守りするつもりで、周囲の、旦那様を煩わす全てのものを遠ざけようとした。近付かなければ、何も起こらない。でも、本当は違っていたんですね。

私たちはお互いに、もっと外に目を向けなければならなかった」

     

しょうがないのだから、しょうがない。

自分の手でどうしようもないのだから、しょうがない。

仕様が無いから。

許そう。今更、どうにも出来ない「過去」など。

     

「私も旦那様も、結局、十六年前からちっとも成長していなかったなぁ」

言いながら口元に不器用な笑みを浮かべたドイルの視線は、無言で佇むセイルの腕の中、無機質な仮面に向けられていた。

     

   
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