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番外編-10- からくりキングと嘘つきピエロ

   
         
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失敗したのではなく、上手く纏められた気がする。と吐息のように呟いたベッカーに、何事も無い平穏な…とは言い難いまでも今までと変わらぬ…生活を取り戻した執事が、苦笑と共に同意する。

「ムービースターはさ、あそこで発言しない筈だったんだけどなぁ」

データ不足か、それとも、見誤ったのか。

「きっとそれですよ、旦那様。あの時、いえ、あの方は、私共に接する時、一度も「俳優」であった試しは無かったのでしょう」

俳優、ムービースター、リリス・ヘイワード。そう呼んでいたのは自分達で、彼はいつだって「セイル・スレイサー」だった。だから、ベッカーの予測を裏切る行動を取ったのか。

「…お前、クレイ・アルマンドと結婚しないの?」

「しませんよ」

あ、即答。

てきぱきと、いつもの調子でいつもとは違う、他人行儀な客室のテーブルに軽いアルコールを用意しながら薄く微笑んだドイルが返すと、受け取ったベッカーもちょっと笑った。

「ま、そこは正真正銘オレの管轄じゃないからねぇ、好きにしたらいいんじゃないの」

「私は、誰よりも旦那様を理解し愛して下さる伴侶の方が現れるまで、旦那様のお傍を離れるつもりはありませんので」

わざとのようにつんとそっぽを向かれて、ベッカーは普段よりも狭い肘掛け椅子に足を組んで収まったまま、渋い表情で唸った。

「そりゃ壮大な計画だな。脚本家の先生に呪われそうだ、オレがさ」

「? そうですか? 私は、案外早くに決着がつくと思っているのですが」

ふふふ、と意味ありげに含み笑いしたドイルの横顔をあえて作った剣呑な表情で睨み、しかしすぐに相好を崩したベッカーが、細長い足を持て余し気味に組み変えてから、椅子の背凭れに身体を預ける。

執事殿? その返答では、考え方を変えれば、貴方が脚本家先生の伴侶になるのもそう遠くない、という意味に捉えられるのでは? と思ったが口を噤む。

そこは、本当に二人の問題で、主人の口出し出来る事柄では、ない。

「――明日の昼前に、一旦登城する。丸投げして来た捜索の件も有るし、小隊の件も出来る準備は片付けなくちゃならないだろうしな。面倒だけども、まぁ、しょうがない。自分でやるつっちまったんだし」

どこかしら眠たげな眼差しを虚空に投げていたベッカーは、ふと。

「ミラキがさ」

「はい?」

ベッカーの夜着を抱えて視界の隅を行き過ぎたドイルにでもなく、まるで独り言のように呟いた。

「使用人たちが誇れる主人になるのは難しい、ってさ、前に言ってたんだよ」

「………」

肘掛に預けた腕で頭を支えたベッカーの口元を、ほんのりとした穏やかな笑みが飾る。

「そうかもしれないなぁ」

なんだか、どこかしら他人事のような台詞に、執事は忍び笑いを漏らした。

「突然どうなさったんですか、旦那様。まさか、明日から「立派な主人」でも目指すおつもりで?」

「まさかそんなつもりはないけどもね…。引き受けたモンを適当にあしらう様な真似は、出来ないと思ってさぁ」

それこそまさか、と執事は、抱えていた夜着を寝室に運びながら、小さく肩を竦める。

特に返答の欲しい話題でもなかったのだろう、ベッカーはそれきり黙り込み、ドイルは長らく使われていなかった寝室に明かりを灯して、清潔なベッドの上に手の中の夜着を置いた。半壊した自室の修理が終わるまでの間、ここが主人の一時的なプライベートルームになる。

一旦空気の入れ替えでも、とベッドからカーテンの引かれた大窓に近付いてそれを引き開け、張り出したテラスの床に描かれた隣室から漏れる淡い光の筋を目にして、執事は一度だけ、ふむ、と納得したように息を吐いた。

休む前に衣装室へ行き、魔導師隊の制服を取り出してブラシを掛けなくては、と思うのと同じくらい気軽に、一つ、口の重い主人に進言しなければならない事がある。

「旦那様」

寝室から出て廊下に続くドアまで一直線に進みながら、ドイルは平素と同じように淡々と、述べた。

「居住区に大勢愛人が居るという「間違った噂」は、訂正しておいた方がよろしいと思いますが」

「―――? 大勢じゃないにせよ、間違いでもないでしょうよ」

「ああいうのは、茶飲み友達というのでは?」

「そんな清らかな友人は居た試しがねぇな」

「まぁ、相手の下心を汲み取った上での行動ですから、褒められたものではないにせよ、不必要に大勢と関係を持っていたと思われるのは、些か不味いのではないですか?」

ドアの前に立ち止まり、不思議そうに目を細めた主人に身体で向き直った執事が、ことりと小首を傾げ平坦な口調で言い置くと、ベッカーはうんざり肩を竦めた。

「あのね、オレは別に…」

「旦那様は良いのですよ。ただ、もしかしたら気に病まれるのはないかと思いまして」

言われて、一呼吸。不意に組んでいた足を解いて肘掛け椅子から腰を浮かせようとしたベッカーを、ドイルがわざとみたいに沈んだ声で押し留めた。

「もし、本当にそういったお相手が大勢居たのだとしたら、あの方は、意外にも気になさると、私は思いますよ」

眉間に皺を寄せたベッカーが、ドイルの顔を見つめる。

主人の顔には、さて一体何の話なんですかねぇ、というわざとらしい心情がありありと浮かび、しかし受け取る執事の表情は、この期に及んでまだすっとぼけるおつもりで? とばっさり斬り返している。

「素晴らしく身奇麗であったとは当然言えないでしょうが、性的な匂いを嗅ぎ付けた途端に距離を置いていたのですから、身の潔白を弁明するくらいは、した方が良いのではありませんか? あの方に」

「だから…! いやいやいや、真っ黒でしょうに! オレ!」

しつこくも判らない振りをするベッカーの少々慌てた顔を、ドイルはなぜか、にやりと人悪く笑って見つめ返した。

「残念ながら灰色です、旦那様。限りなく白に近い、灰色です! 自称「愛人」の方が怒りに任せ、何度屋敷にまで電信して来たとお思いで? 曰くお前の主人には他に抱く相手が居るのかとか、自分以外の愛人は何人居るのかとか、果てはもしかして不能なのかとまで。その度丁寧に事情を尋ねましたところ、殆どのお方が揃いも揃って仰られました」

     

「折角いい雰囲気になってさぁこれからって時に、突然頭痛を起こして帰ったきり、二度と連絡も寄越さない!」

     

きっぱりと言われて、ベッカーは渋い顔にぴしゃんと掌を打ち付けた。

と、これ以上は主人の名誉のために暴露するのを控えた執事は、殊更晴れやかに微笑んで「おやすみなさいませ、旦那様」と言い残し、颯爽と退室した。

しんと静まり返った廊下に出てにやけた表情を引き締め、誰も見ていないのに姿勢良く踵を返したドイルは、暗く霞む先にある破壊されたドアと床に散らばった数多の残骸を思って、一瞬だけ、頬を強張らせた。ドアと、床と、照明器具と、フレームと、ワイヤーと…。

最早顔も無く、物言わぬ、「過去という名の時間」を寄せ集めた、発条と螺子、金属部品、すべらかな外殻。

目的の衣裳部屋は屋敷の端、荒れた主人私室の更に奥の細長いドアから出入りしなければならないため、ドイルは束の間戸惑うように停めた足を一歩踏み出した。きっと今だ中で唸っているのだろう主人の部屋の前を離れ、人の気配の全く無いセイルのドアの前を行き過ぎ、数歩、小さなボルトが、こつん、と執事の磨かれた靴先に当たる。

ふとその感触に気を引かれて、ドイルは冴え冴えとしたエメラルドグリーンの双眸だけを動かし、歪に転がるボルトに視線を落とした。これは、パーツ。既に「過去」という集合体ですら無くなった、ただの部品。

いっとき冷たい表情で足元を睥睨した執事は、視線を正面に戻し、忌々しげにでもなく、物悲しげにでもなく、淡々と粛々と。

半壊したドアの少し先に山を作った元ドールであったものの裾野を、無造作に踏みつけて通り過ぎた。

弱々しい廊下の明かりを頼りに壁の一部分に偽装された細長のドアを静かに開け、衣裳室の中に身体を滑り込ませる。今日はさすがにもう誰も自室を出ないだろうと決めて、本来ならば硬く閉ざす筈のドアを少し開けたまま室内灯を点け、その白い光の中央に佇むトルソーに、ハンガーに掛けられていた深緑色の長上着を着せかけた。

糊とアイロンの利いた白いシャツに、折り目も美しく整備されたスラックス。黒い細身のネクタイ、同じく黒いベルトは腰に巻く物と肩から斜めに掛ける物が二本。それから、磨かれた表面に鈍い光を照り返す、長靴(ちょうか)。白手袋。

黙々とそれらをトルソーに着せブラシを掛け、ハンガーに吊るし染みや皺の有無をチェックし、作業台に並べては柔らかい布で丁寧に拭く。

ドイルは今でも自分を、尽くしたいタイプだとは思っていない。だからといって執事という仕事を、「仕事」として割り切っている訳でもない。ただ…、そう、ただ…。

不意に、コンコン、と軽くドアをノックする音が衣裳部屋に響き、ドイルははっとして開口部を振り返った。

「仕事熱心だね、こんな時間まで」

細く開け放っていた筈の開口部、そのドア部分に肩を預けて腕を組んだクレイが、口元に薄い笑みを載せたまま、執事に緩やかな視線を据えていた。

胸の奥がざわめく、いたたまれない気分にさせる、眼差し。

「旦那様が明日朝登城なされると仰られたもので、準備を」

硬い声で答えたドイルは、室内に入って来ようとしない男から不自然に顔を背けた。

これで、判って欲しい。もう、――――。

「おれとは、これ以上関わりたくなって顔だ」

ふと、薄暗い足元に落ちたのだろう呟きに、長靴を撫でていたドイルの手が停まる。

まるで追い詰められてでも居るかのように、頑なに、クレイに背を向けたまま、ドイルは眉根を寄せ唇を引き結んだ。

「ラド家御当主に恋愛物は止められたが、やっぱり、はいそうですかってワケにゃいかんでしょ。この場合」

独り言みたいな呟きの直後、きっ、とドアのきしむ音。

「ドイルは、おれが傍に居なくても生きて行ける。おれはドイルに袖にされても、きっと、生きて行ける。安っぽい…今までおれが書いてきた小説みたいに、貴方が居なければ息も吸えなくなって消えてなくなるなんて事はなくて、普通に悲しんで、ちょっと落ち込んで、でもすぐにそんなの忘れて、他の誰かにキスをして、手軽な愛で妥協出来る」

「では、そうなさればよろしい」

「ヤだよ、そんなのは」

一歩一歩近付いてくる重たい足音を遠ざけるように、作業台に置いた手を硬く握り締めて絞り出すように吐き捨てたドイルを、クレイはきっぱりと一蹴した。

「そんな出来合いのハッピーエンドなんかいらねぇ」

静かな声とは裏腹の乱暴な手付きでドイルの左肩を鷲掴んだクレイは、抵抗する間も与えず執事を強引に振り返らせると、背にした作業台に両手を突いて、彼をその腕の中に閉じ込めた。

ガン! と、ドイルの腰に当たった作業台が揺れる。

「主人がなんて理由も、ラド家がなんて理由も、なんとかいうお嬢さんの事がなんて理由も、いらねぇ。そんなにおれが迷惑で嫌いなら、そう言ってみろ。そしたら、今すぐこの屋敷も出て行くし、二度とお前の前には姿をみせねぇ」

鼻先が触れてしまいそうなほど近くで、クレイはドイルのエメラルドグリーンを見つめた。

そうしたら諦めるから。本当に、そうなら、もう悪足掻きはしないから。

でも、もし、ベッカー・ラドの言うように、ドイル・バスクがクレイ・アルマンドを本気で拒否しているのではないなら。

「―――傍に居たいと思うおれの気持ちだけは、判ってくれ」

間近で小さく呟かれた懇願の言葉に、ドイルははっと緑色の双眸を見開いた。

息を呑み言葉を失くしたドイルの唇に、乾いた感触。

見開いたエメラルドに癖のある飴色が迫り、すぐ、離れて行く。

無言で。

驚愕に固まったドイルを囲っていた腕が作業台を離れ、二人の間に冷たい夜気が割り込んだ。

「…おやすみ、ドイル。良い夢を」

一歩後退して両手をポケットに突っ込んだクレイはそう吐息のように言って目を眇め、執事に背を向けた。

取り残されて、ドイルは。

白手袋に包まれた手でしっかりと作業台の縁を握り締め、耳どころか首まで真っ赤になって、俯いた。

     

   
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