■ 前へ戻る   ■ 次へ進む

      
   
   

番外編-5- 夢が見れる機械が欲しい

   
         
(5)

         

 降参の条件は? という、いかにもハルヴァイトの気に障りそうな素っ気無い言い方のヒューに対して、鋼色が微かに眉を吊り上げる。

「どちらかが落ちるまでやります? それでも構いませんけど」

 ほぼ予想通りの返答に、仕掛けたヒューが喉の奥でくすりと笑った。

「笑えない冗談だな。全力出して俺が先に落ちたら、失職する」

 そんなつもりなどないくせに平然と言って退けたヒューの涼しい顔を見つめる、動かない鉛色。その、続きを待っているのだろう極めて居心地悪い視線を真っ向から受け止めて、ヒューは朗らかに微笑んだ。

 静寂というよりも、痛いくらい張り詰めた空気に満ちた、冷たい室内。人工木の壁面と、到底役に立つとは思えない薄っぺらなクッションフロアを敷き詰めた無愛想な床。叩き付けられれば痣の一つや二つ覚悟しなければならないだろう状況だ。

「では、こうしよう。

 お前が俺に一発入れれば俺の負け。お前が床に膝を突いたらお前の負けだ」

「それはそれは、随分甘い判定基準ですね」

 本気でそう思っているらしいハルヴァイトが浮かべた冷笑に、ヒューが小さく肩を竦める。

「甘いか?」

「そう思いますけど?」

 ぴくりとも動かず交わされる会話を、ギャラリーはじっと見ている。

「つかそれってさ、警護班の訓練と同じだよな?」

 突っ込むというよりも質問に近いミナミの呟きに、ヒューは無言で頷いた。

 と、いう事は。

「めっちゃ本気じゃん、ヒュー」

 警護班の訓練といえば、ヒューに「触れれば」向こう一週間は自慢していい偉業を成しえた、とまで言われているのだ。殆どの衛視はその攻撃を弾き返され、落とされないまでも床に沈められて、評価に値しない、と言い棄てられるらしい。

「ガリュー班長に敬意を表したつもりなんだがな、俺としては」

 これまたなんだかムカつく感じに小首を傾げたヒューの口元が、仄かに笑っている。

「では、それでいいでしょう」

「アンタぜってー後悔するからな…」

 ステージがいつもと違うというのに気付いていないのか、それとも本気でヒューに勝てると思っているのか、ハルヴァイトは呆れたように言い放ったミナミににっこりと微笑んで見せてから、対峙するヒューに全身で向き直った。

 こうして見ると、ヒューがどうしても動き難そうに見えてしまう。もしかしたら、その利点を最大に生かしてハルヴァイトが勝ってしまったりするのだろうか? となんとなくドレイクとタマリは顔を見合わせたが、実際、どう見ても動き難そうな制服だとか普段着だとかで平然と部下なり機械式なりを完膚なきまで叩き潰す様を目にした事のあるアン少年だけが、内心そっと溜め息を吐く。

 多分、ハルヴァイトは負けるだろう。それって凄いもの見ちゃうんじゃないかな。などと始まる前から不安になって、少年は、なんとなく逃げ出したい気持ちになった。

 実は。

 ハルヴァイトはヒューが本気で組み手しているところを、見た事がないのだ。

 複雑な思惑の周囲をよそに、ハルヴァイトとヒューが同時に浅く一礼する。

 ゆったりした衣装に身を包んだハルヴァイトが攻撃体勢に入るのを眺めるヒューは、やや体を左に開いて無造作に両腕を垂らし、瞬きだけをやめた。

 鉛色を囲む気迫が膨張する。対して、銀色の纏う空気が一気に冷える。似通った立ち姿とどこかしら無機質な印象のふたりが、正反対の気配でそれぞれを威圧した、瞬間。

 ハルヴァイトが動いた。すり足で大きく一歩踏み込みながら、顔の前に翳した右の裏拳を水平に高速で滑らせ、佇むヒューの鼻先に叩き付けようとする。

 当然、ヒューは左に開いた体を更に左に引き、ハルヴァイトに対して完全に右を前に出す形でその拳を避けようとする。セオリーか? それが誘いだったのか、予測だったのか、ハルヴァイトは右を出す反動で後方に引き付けていた左の掌底を、向けられて近付いたヒューの脇腹に突き刺した。

 その左腕が急激に角度を変えて斜め下へ叩き払われ、さすがのハルヴァイトも微か目を見開く。早い。というか、速い。ただぶら下がっていたはずの右腕が動き手首の骨を水平に打ち据えられた、と判った時反射的に前進を止め一歩退いたのは、悪くない反応だった。

 ハルヴァイトの腕を叩き払ったヒューの右が刹那で上昇し、右から左へ高速の拳が走り抜けていた。眼前を過ぎた握り拳の起こす風圧が、ハルヴァイトの鼻先を掠める。

 あ! とギャラリーが息を飲む。一瞬停滞したハルヴァイトと対照的に、ヒューの動きは停まっていない。

 右の拳を左に振る勢いで、その身が反時計回りに回転している。軸足をその場に残し左で踏み込む裏拳が、後退してやや沈んだハルヴァイトの側頭部に襲い掛かった。

 鋼色が急落し、ヒューの拳は空を切り、真下から突き上げた肘が漆黒の腕を捉えるかと思われた瞬間、振り抜けた腕が直角に折れ曲がって肘撃ちを回避。打撃の勢いを残したハルヴァイトの腕が空振りから攻撃の態勢に移行する刹那、曲げた左の手首を返したヒューの掌が、防御するように顔の前に翳されている悪魔の腕を背後へと突き飛ばす。

 一瞬の攻防の末よろけて数歩後退ったハルヴァイトを冷たいくらいの表情で見下ろしていたヒューが、ふん、と小さく息を吐く。

「悪くないな。お前はバランスがいい」

「…あまり褒められた気がしませんね。あなたが一歩しか動いていないと思うと、わたしの動きは無駄だらけだ」

 そう、ヒューは一歩しか動いていない。正確に言うなら、左足を踏み込んだだけで一歩も動いていない、だったが。

「褒めてないからな」

 素っ気無く言われて、ハルヴァイトはひくりと頬を引き攣らせた。

 正直なところ、降参するのは癪に障るが勝機は皆無。誘い込まれれば背中を向けるのも厭わない完全攻撃態勢で返り討ちに合い、防戦に持ち込もうなら押されて終わる。しかも常人では考えられないほどにその動きは速く、ほぼ全ての攻撃は「振り抜けない」。

 瞬間で、当てて引く。

 全ての動きは脳の命令によって制御されている。

 恐ろしいまでに無駄がない。

 見た目よりも痛烈に弾き飛ばされた左腕に鋭い痛みを感じながら、ハルヴァイトは一旦ヒューから距離を取ろうとした。

 しかし。

「ここで退くのはセオリーだな。ただし、相手が俺でなければだ」

 ヒューが動いた。

 防戦に持ち込まれないためではなく、押すための誘いだった突き飛ばしに掛ったのはハルヴァイトの方。鋼色の髪を宙に流した長身が背後に体重を動かした瞬間、ブレるように沈んだヒューの身体が目前に迫り、ハルヴァイトは舌打ちしつつも、握った拳をヒューの腹腔に叩き込もうとした。

 ばしん! と乾いた音と伴に停められた拳が、またも背後へと圧される。左で防御。いや、これは防御ではなく、相手の力を使った攻撃かもしれない。圧された拳に巻き込まれる形で右斜めによろけ、またもや数歩後退するハルヴァイト。反撃する暇も手段も思い浮かばない状況で咄嗟に出た左でヒューの肩に掴みかかろうとしたのを、跳ね上がった腕で弾き飛ばされ今度は左に一歩後退する。

 つうか。とミナミは、その様子を見ながら。

「あんた弱い?」

 地雷を踏んだ。

 かなり態勢を崩しながらもハルヴァイトの放った中段回し蹴りが、その場に踏み止まったヒューの長上着を引き裂くように走る。回転し、その勢いでバランスを取り直した悪魔が、相当? 強張ったにやにや笑いを浮かべて睨んで来たのに、ヒューが思わず溜め息を吐く。

「面白いな、お前。ふつーの人間みたいで」

「それはどうも」

 凶悪に無邪気なまでの無表情で小首を傾げたミナミと、腹を抱えて笑い転げるギャラリーにまで八つ当たり気味の視線を送る、ハルヴァイト。それに戦いたアンは立てた膝に腕を乗せてくつくつと笑っているデリラの背中にひしと抱き付き、ドレイクは笑いを堪えようとして失敗し、タマリはわざとハルヴァイトに背中を向けて床に転がったまま、ぴくぴくと痙攣して見せた。

 笑い死ぬ。多分。ミナミにいいところを見せる云々を抜きにしても、普段やる気ないくせに地獄のような負けず嫌いのハルヴァイトが、果たしてこのまま黙ってやられるだろうか?

 しかし。苦し紛れとはいえ各段にリーチの広がった回し蹴りさえ、ヒューの身体には少しも触れていなかった。翻った長上着の裾をちょっと掠っただけで、つまり、目の前の銀色は、それなりの間合いをきっちりと取ってハルヴァイトと対峙しているのだ。

 気持ちが高揚する。

 強張っていた顔の筋肉が緩み、本物の笑いが浮かびそうになる。

 判っている。

 勝てそうにない。

 ここまで彼我の差が歴然だと意味の判らない笑いが込み上げて来るものなのかと、ハルヴァイトは始めて知った。

 こんなのが頂点に据わっているなんて、警護班は地獄だとまで思う。

 ハルヴァイトが、吸い込んだ息を短く吐きながら、息一つ乱さずに佇んでいるヒューの間合いに強引且つ無謀にも踏み込む。膝を折って水平に走らせた高速の蹴りで大腿部を狙うが、それは本当に軽く上げただけのような右の膝で外に蹴り返された。腹が立つ。余裕ばかりが目に付く。ダン! と踵から床に叩き吐けた足裏から背中まで激しい痛みが掛け上がったが、ハルヴァイトはそれを無視して弾き返された勢いに逆らわず、逆に、体を開く事で前に出た右の拳をヒューの上腕に突き刺そうとした。

「熱くなり過ぎたヤツの相手はごめんだ。怪我させると、ステラが煩い」

 溜め息混じりに呟いて、一歩退くヒュー・スレイサー。胸の前を左から右に走り抜けようとする腕にぴたりと当てた右掌がハルヴァイトの肩に到達した瞬間、ヒューは勢いで沈んだハルヴァイトの襟首を鷲掴みにするなりそれを手前に引き倒しながら、よろめくように踏み込んで来た足首を正面からがつんと蹴飛ばし、即座に身体の前後を入れ替えハルヴァイトの背後に回るなり、軽くその膝裏をも膝で蹴ったのだ。

 前のめりに倒れそうなハルヴァイトの身体が、その場で急落する。何が起こったのか判っていないのだろう、それには本人もぎょっとしたらしい。もしかしたらミナミでさえ始めて見るかもしれない、唖然とした表情のハルヴァイトを見下ろすヒューは。

 自分並に背の高いハルヴァイトの襟首を猫か何かを捕まえるように掴んだまま、彼の真後ろに立っていたのだ。

 床に膝を突いたハルヴァイトに、向き直り。

「はい、おしまい」

 言ってぽんと軽く肩を叩かれ、ハルヴァイトはヒューの顔を見上げた。

 旋廻する冷たい色彩の長い髪と、涼しい横顔と、透き通ったサファイヤの瞳。勝って当然なのか、そうなのだろうが、笑みもなければ退屈そうでもない、つまり平素と変わらない表情。

 膝を突いたら終わりだとヒューは言った。

 だから、熱くなったハルヴァイトを「終わらせる」ために、床に膝を突かせる。

 始まる前から負けが決定していた錯覚に、ハルヴァイトは思わず顔を顰めた。

「まぁこんなものだろう? 警護班の部下じゃないと思えば、善戦だな」

「どこがだよ。強制終了だろ、今の」

 苦笑さえ混じったミナミの突っ込みに、ヒューが肩を竦めて「そうか?」と言い返す。

「すげいよ、鬼がいるよ、マジでここに」

「なんとでも言え。この件に関して言うなら、鬼呼ばわりは慣れてるしな」

 そうだろう、確かに。というか、警護班の部下たちは、ヒューの事を普通に鬼班長と呼んだりしているし。

 床の上を転がってヒューの足元に到達したタマリが、きゃぁきゃぁ言いながら長上着の裾にじゃれついている。それをなんとなく見遣りつつもミナミは、さっきからじっと床の一点を見つめて動かなくなったハルヴァイトの横顔を窺っていた。

 何か、こう、まだ何か起こりそうな…気配?

「……………………」

 殆ど猫みたいにヒューの翻す上着の裾に絡みつこうとする、タマリ。器用にも、そのタマリを踏み付けないで平然と歩くヒュー。いや、つうか、タマリはいってぇ何をしたいんだ? とミナミが首を傾げ、ドレイクが無言で立ち上がったのとほぼ同時に、ハルヴァイトもまたすっくと立ち上がった。

「班長」

 呼ばれて、今にも蹴飛ばすぞと言い出しそうな表情でタマリを睨んでいたヒューが、顔を上げる。

 不穏な空気が道場を食い潰そうとしていた。

「少々相談があるんですが」

 それまでヒューと目線を合わせようともしなかったハルヴァイトが、呟いて、ゆっくり銀色を振り返る。

 不透明な鉛色で。

「相談? なんだ?」

 タマリを軽く蹴飛ばして転がしたヒューが、にこりともせずに答える。

 嫌に澄み切ったサファイヤで。

 それを無言で見つめるのは、深海のダークブルーと、曇天の灰色。

「…後学のために、データを、取らせて頂けませんか?」

 そこでようやくハルヴァイトは、唖然とする数多を見つめ返し、最後にひたとその視線を恋人に据えて、ふと微笑んだ。

 それはそれは、ミナミでさえ背筋を凍らせるような、威圧的な笑い方で。

  

   
 ■ 前へ戻る   ■ 次へ進む