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番外編-5- 夢が見れる機械が欲しい

   
         
(9)

         

 思考転送誤差率ゼロで、「ディアボロ」が悪魔となって疾風のごとく突進する。

 突き刺すように流れた鋼の残影を紙一重で躱した銀色が、その胸元に滑り込んで剥き出しの肋骨に左の掌底を叩き付け、背後から高速で引き戻されて来た腕を肘で払って、空いた脇をするりとすり抜け交差する。

 間合い一杯。

 軸足を残し回転しながらヒューの側頭部を打ち据えようとした悪魔の裏拳は、同じく間合いを抜けずに反転した銀色の翳す腕に激突し、双方が左右に跳ね飛ばされた。

 同時に、ヒューとハルヴァイトが微か顔を顰める。

 それでも決着がつかないからか、よろめいた「ディアボロ」が咄嗟に出した足でその場に踏み止まれば、ヒューは流れる勢いに逆らわず肩から横に転がって体勢を立て直す。どっちもどっち。恐ろしい勢いでまたも接触する髑髏と人と。

 凶悪な尾が足首を狙って滑り、それを避けて軽く跳躍したヒューの足がまたもありえない中空で回し蹴りを繰り出し、浮いた身体を抑え付けるべく「ディアボロ」が鉤爪の生えた腕を伸ばす。

 わざとその腕に肘を当てて落下途中に軌道を逸らしたヒューの爪先が着地。すぐさま沈んだ頭上を「ディアボロ」の拳が通り過ぎ、床ぎりぎりで繰り出された低位置の蹴り払いが悪魔の足首を水平に打ち据える。

 滅茶苦茶だと思う。尋常な光景ではない。

 身体のどこかに一発入って、ヒューが降参すればこのゲームは終わる。しかし、「ディアボロ」の攻撃は全て計算通りに誘い込まれているもので、正直、ダメージを与えているものではなかった。

 激しく常軌を逸したとしか言いようのない反射速度と、抜群の運動センス。自分の身体の使い方を熟知していなければ出来ないだろう、強引な回避や攻撃。

 呼気を読むのではない。

 空気を感じるのでもない。

 何せ、相手は呼吸さえしない鋼の髑髏なのだ。

 ではなぜヒューは、こうまで完璧に「ディアボロ」の動きを見切ったように避けるのか?

 瞬きしないサファイヤが微細に動き、剥き出しの骨格を目に焼き付ける。

 やり難い、という内心を面に出さない完璧なポーカーフェイスは、今回に限り、完全にミナミさえも欺いた。

 微かに金属の軋む音。それから、「ディアボロ」の背後に立つハルヴァイトの目線。

 ヒュー・スレイサーが探っているのは、その二つだけだった。

 足元を掬われた「ディアボロ」の尾が、またもヒューを急襲。これが厄介だな、と内心舌打ちしつつ、一旦大きく後退して間合いを抜ける。

 どう考えても、長引けば長引くほど人には不利な闘い。ほんの冗談かシャレだとしても、どうせなら勝って締めたいと少し思う。

 ではどうするか。

 あの固い、尾のある、均衡の取れた回避と攻撃を繰り出す悪魔を、どう攻略するか。

 ヒューは、「ディアボロ」が様子を窺うように動きを停めた時、攻撃の構えを解いてやや左肩を開く、という、いつもと同じ姿勢を取ってその場に直立した。

「次の攻撃を避け切れば「ディアボロ」の勝ちですね…」「ああ。そこで掴まれば、班長が勝つぜ」

 呟きに似た通信がドレイクとハルヴァイトの間で一往復する。

 それまで張り詰めていた気配を収束したヒューの白い背中を見つめ、アン少年とタマリが目配せし合い、デリラとミナミは息を殺して身を縮めた。

 ハルヴァイトがにやにやと笑っている。世界をその足元に傅かせ、だた笑っている。

 そしてヒューもまた、薄っすらと笑っていた。

 仕掛けたのは、ヒューの方だった。

 それまで静まり返っていた室内の空気が一気に膨張し、全てを圧する。動くな、息を吸うな、瞬きするな、と高圧的に命令され、否応もなく従わされるような、錯覚。その中で一つだけ動く銀色が、静寂を呼気で引き裂く。

 その人の呼吸を始めて感じた。

 防御の構え。身体の正面で長い両腕を交差し、喉元と胸元、正面からの打撃を受ければバランスを崩すだろう部分を保護して腰を落とし両足と床に着いた尾に力を込めた悪魔の正面で、不意に、銀色の残影が急落する。

 ヒューは、「ディアボロ」の間合いに入るなりその正面に飛び込んで、床に置いた両腕に身体を引き付け力を蓄えると、それを突き放す勢いで全身を伸ばしながら悪魔の交差した手首に、突き刺すような蹴りを叩き付けたのだ。

 真正面から。

 斜め上空へ向かって。

  当然、「ディアボロ」は予想と逸れた位置から突き上げて来た衝撃にその上半身を浮かせられ、踵と尾に力を入れ踏み止まろうとする。転倒を回避するならば当然の行動か? そして、浮いた上半身を前傾させて体勢を立て直し、眼前で片膝を床に付くほど下げているヒューの頭上に固い金属の拳を叩き下ろすのか? セオリーとして?

 果たしてその常識は、通用するのか?

 答えは。

「非常識に常識は通用しない、残念だったな」

 微かに「ディアボロ」の背骨と肩が軋み、ハルヴァイトの視線がにやつくヒューの足に移った瞬間、銀色は、伸ばした左腕で悪魔が身体の正面で振り払おうとした右腕を掴み、中心から外に向かって流れた、人間よりも数倍はあるだろう腕力に逆らわず、掴んだ手を支点にして、わざと、振り回されたのだ。

 半円を描いて「ディアボロ」の背後に舞い、折り曲げた膝を剥き出しの頚椎に叩き込む。ぎしりと悲鳴を上げた悪魔の首ががくりと垂直に落ち、勢い、元より前傾しようとしていた上半身が更に沈む。しかし、まだ悪魔は落ちない。激しく振った尾の反動で上体を持ち直そうとするのに、ヒューは目を細めた。

「怪我しても文句言うなよ!」

 着地と同時にそう叫んだヒューは、直前に立つ男の懐に踏み込もうとした「ディアボロ」の顎目掛けて突き上げるような拳を見舞い、それを避けて仰け反った悪魔の肋骨にぴたりと掌を当て、一歩深く踏み込んだ。

 睨めつけてくる眼窩。空洞。それを睨め上げ口の端を歪めたのは、サファイヤ。勝敗は決まった。否。負けていい訳などない。どちらにも。

 だから、悪魔は全力なのだから、人も、全力であるべき。

 刹那、空白、次の瞬間、ぴくりとも動かないヒューの掌に弾き飛ばされたかのごとく、鋼色の骸骨が真後ろに吹っ飛んだではないか。

 驚く間もなく、ようやく踏み止まろうとする「ディアボロ」に追い縋る、銀光。舞い上がり、捻った上半身を追って旋廻した長い足、その爪先が、悪魔の頭蓋骨、顎の間接部分に真横から突き刺さる。常人なら骨を蹴り砕かれかねない衝撃で大きく首を横に逸らした「ディアボロ」の尾が、反動に抵抗するようぐんと跳ね上がった。

 がっ! とその尾の表面で炸裂する音。上昇して来た尾を狙って落とした足裏がそれを蹴り離し、再度中空へ戻るヒューの痩身。ありえない。攻撃されるのを見越して次の攻撃を組み当てるなど、捨て身もいい所ではないか。

 真後ろで浮いた気配に「ディアボロ」が左肘を後ろへと突き出し、軽い手応えと見えている状況に、ハルヴァイトが眉を寄せる。まただ、と思う。勢いの死んだ打撃はその殆どにカウンターを当てられて、ヒューの回避を手助けしてしまう。

 相手の動きを利用して、中空にあって落下軌道を制御する。

 飛び離れ、いつの間にか「ディアボロ」の背後に回り込んでいたヒューの上体が、す、と沈んだ瞬間、ハルヴァイトは反射的に悪魔を振り返らせようとしてしまった。

 失策か。誘われたのか。常にヒューが正面から攻撃していたのは、この一度を狙っていたからなのか。

 旋廻する「ディアボロ」。

 滑るように迫り、またも沈んだヒューの身体。

 両手が床を掴み、捻りを加えた回転で「ディアボロ」の目前に迫ったヒューの長い足がその頚椎を締め上げたのに、ハルヴァイトは無言で肩を竦めた。

 斜め横から引き倒す力を加えたヒューの膝が、「ディアボロ」の頭部を両脇から挟む。やけに今日は足技が多いと思ってはいたが、最初から最後までヒューはこの一撃を狙っていたのか。

 悪魔が螺旋に身体を捻り、その作用を利用する瞬間を。

「ディアボロ」の頭部を左右の膝で挟んだヒューの重さが肩に掛かり、悪魔はまたも反射的に男を振るい落とそうと腕を上げて、微か、仰け反るように上半身を起こした。

 刹那か、瞬間。どうでもいい。とにかく、そういう一瞬。

 浮いて不安定になったバランス。それを更に不安定にしたのは、「ディアボロ」の頭に胸を付けていたヒューが大きく仰け反りながら後方に全ての体重を移動させ、身体を捻ったからなのか。

 瞬きさえ許さない出来事。

 大きく背後に倒れようとする「ディアボロ」の爪先が宙に浮き、ぎゅんと反転した骨格が軋んで、次には、固く冷たい床に顔面から叩き付けられていた。

 激しい衝撃音。空中で「ディアボロ」の頭部から足を外したヒューは胸と両手で床を掴んで転がり、すぐさま立ち上がって悪魔に向き迎撃の構えを取る。しかし「ディアボロ」は一瞬動かず、陣影のないまま佇むハルヴァイトは渋い顔でヒューを冷たく見据えていた。

「参りました」

 落胆もなく悪魔が呟き、「ディアボロ」がごそりと身を起こす。そのままふて腐れたように床に胡座を掻いたのに、さすが、ヒューの口元からも笑みが零れた。

「理想的な勝ち方じゃなかったのが残念だ。まさか、ここまで本気を出してひっくり返すハメになるとは思ってなかったな」

 構えを解いたヒューは座り込んだ「ディアボロ」と佇むハルヴァイトに一礼し、それから、ドレイクと、唖然としているタマリとアンにも一礼し、最後に、何か言いたげなミナミを見据えて、おかしそうに小首を傾げる。

「…………つうか、マジでさ、ヒューて人間なのか?」

 そう思ってくれると助かる。という返事を、残念ながら、その場にいた誰も笑いはしなかった。

  

   
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