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番外編-6- **まで残り、1センチ

   
         
(6)

  

「……初恋、ですか?」

 ソファから追い出されたドレイクとヒューが手持ち無沙汰そうな顔で壁に背を預けて眺める室内に、どこかしら困った呟きが放たれる。

「相手は誰って訊かれても、正直なところ、答え難いんですけど…、ルニ様?」

 そのふたりの代わりにソファに連れ込まれたアン少年は、笑顔のルニにそう言って、色の薄い金色の髪をかしかしと掻いた。

「答え難い? って、どゆこと? アンくん」

「いや、だからですね…」

「それってもしかして、アンくんの初恋の相手をルニが知ってるから?!」

「そうじゃなくて!」

 断じて、天地天命に掛けてそうじゃありません! と不自然な程必死になって首を横に振るアン小年の引き攣った笑顔が、おかしな方向に周囲の空気を和ませる。

 っていうかそれ嘘だろ。アンくんて嘘吐けねぇよな。とミナミは、相変らずヒューの座席を占拠したまま、無表情に内心の笑いを噛み殺していた。

 成就云々の問題を先送りにしたとしても、正直、年齢的に? 初恋というものが比較的最近だろう……もしかすると、まだ現在進行形かもしれない……アンが返答に困る事は、誰にでも予想出来る。初恋などというのは、綺麗な想い出になってから告白されてこそ微笑ましいものだ。

 と、はしゃぐルニの横顔と困惑するアンの横顔を見比べながら、アリスは苦笑し肩を竦めた。

「だからですね…」

 ようやく、ここで何かルニの満足する答えを出せなければ解放して貰えそうもないと思ったのか、それまでしきりにあちこち視線を泳がせていたアンが、ぽそりと呟く。

「…他の皆さんがどうかは知りませんけど、ぼくは、ルニ様?

 初恋って、通り過ぎてから気付くものなんじゃないかなって、そう思うんですよ」

 その時ではなく、いつか、あああれが初恋だったのかと気付くものではないかと、アン少年は言った。

「だからぼくには、まだ、判らないんですよね」

 アンはそこでもひとつ、困ったように微笑んだ。

「いつかそれが判ったら、ルニ様に教えます」

 金色の髪をついと揺らして小首を傾げた少年は、もう一度確かめるように「ね?」と言い置いて、ソファから腰を浮かせようとした。

 ふーん、と判ったような判らないような相槌を打つルニ以外の大人どもが、非常に複雑な笑みを口の端に浮かべる。だからつまり、その返答じゃやっぱ「初恋らしきもの」は現在進行形なのか? とミナミは本気でアンに突っ込みを入れるかどうか迷い、その隙にルニが意を決し口を開く。

「………………じゃぁアンくんにもういっこ質問」

「なんですか?」

 どこへ行こうというのか、ドレイクに顔を向けて口を開きかけた少年の不可解な横顔。逃げる少年を引き止めるかのように呟いたルニに明るい笑顔を見せたアンに、少女はいたく真剣な面持ちでこう問い直した。

「ファーストキスは、もうお済みなのかしら?」

 瞬きもせず正面のアンを見つめる、癖っ毛の姫君。アイスアスという父親譲りの屈託なさで、キャレという母親譲りの遠慮のなさで、ランチのメニューを問いかけるよう気軽に、小首を傾げるその仕草。

 しかし室内は、その微妙な言い回しにぴしりと凍り付く。

 ミナミ、最早突っ込むセリフも思い浮かばない。

 ルニに尋ねられて、瞬間、既に少年という年齢でもないというのにいつまで経っても清々しいほど少年臭い魔導師は、大袈裟な効果音が空耳で聞こえてしまうほど急激に、不自然に、愛らしい桜色の唇を固まらせた。

 ぎくう! と…。

 答え難いだろうよ、そりゃ。とドレイクは思う。

 答え難いでしょうねぇ、それは。とアリスも思う。

 もしかして、答えるのかしら? とマーリィは思い。

 まさか答えんのか? とミナミも思う。

 そして、ヒュー・スレイサーは。

 なぜかふとサファイヤ色の双眸を緩め、固く結んだ薄い唇にほんの僅かばかり笑みを載せて、完全に機能停止したアンからついと視線を逸らした。

 それだけだ。たったそれだけ。後は膠着した空気が全てを飲み込み、次に何かが動き出すまで、ただ諾々と時間は流れる。

 数秒か。数十秒か。一分に満たないそれがゆっくりと、殊更ゆっくりと回り出したのは、アンが停めていた息を細長く吐き、わくわくのルニがぱちりと瞬きしてからだった。

 肺に溜まっていた苦い空気を吐き切ったアンが、ルニに向けていた視線だけを動かし少女の追及から逃れようとする。無理なのだけれど。ここで何か気の利いた…例えばジリアンみたいに完璧な嘘? …でも言い放って笑顔でも見せられれば天晴れだと思いはするが、それが出来ないから青年はいつまで経っても少年のままで、だからこそ、好ましい。

 と、その時、瞬間、誰もが思う。

 アンは、ルニから逃がした視線を自分の膝の上に組み合わせた手に落とし、それからようやく俯いて、酷く困ったように、もしかしたら辛そうに眉を寄せ、ぽつりと一言呟いた。

「言いたくありません」

「……………………………」

 どうとでも取れる返答に微かな反応を見せたのは、意外にもドレイクだった。何を言うでもないが、あの曇天の瞳でちらと少年の項垂れた細い首筋を見下ろす。

「あの…副長、ぼく、資料室にさっきの資料探しに行ってきます」

 不意に曇った上官の表情を押さえ込むようにまたも呟いて、少年は俯いたまま立ち上がり、誰とも目を合わせずに特務室から逃げ出した。

「……? あの、ミナミさん。そろそろ、会議室の準備をお願いしたいのですが?」

「あ、そうだった。んじゃぁルニ様、失礼します」

 アンが退室し、一瞬嫌な空気が室内に降りようとするのを、室長室から顔を出したクラバインが無意識に霧散させる。言われて、慌てて立ち上がったミナミがルニに会釈し消えるとすぐ、当のルニもマーリィに促がされて部屋に戻り、後には、アリスとドレイク、それから、ヒュー、ジリアン、クインズだけが残された。

「…なんだか、アンちゃんもすっかり大人になっちゃったわよねぇ」

「…………」

 ソファに座ったきり自分の膝に頬杖を突いたアリスが独り言みたいに呟くと、なぜなのか、ドレイクは渋い顔でアン少年の消えたドアを睨んだまま溜め息を吐いた。

「何? ドレイク」

「なんでもねぇよ。ま…、アンにだって、いい加減魔導師だって自覚も出て来なくちゃなんねぇ時期だしよ、いくら俺が自他ともに認めるお節介だつっても、こればっかりはどうしようもねぇしな」

「? こればっかり?」

 ソファに戻ってアリスの正面に座ったドレイクが、背凭れに頭を預けて天井を見上げる。

 アリスの問いに答える気がないのか、それとも答えられないのか、ドレイクはそれきり口を開こうとしない。その複雑な表情を訝しむアリスに助けを求めるように見つめられて、ヒューは背中で壁を突き放した。

「ミラキにしちゃ謙虚な意見だな。驚きだ」

 いつもと変わらず。

 ドレイクをからかって。

 何かを知っていながら、勘付いていながら、ヒューは飄々と呟き、薄く笑った。

 少しも、普段と変わらずに。

「…。ところでよ、論外の班長。俺ぁ聞き逃した班長の初恋に興味深々なんだけどな」

 向けられた背中に流れる銀髪を眺めつつ、わざと口調を変えたドレイクがにっと口の端を持ち上げる。

「出来りゃぁ、ルニ姫様に述べた適当な言い逃れじゃねぇトコで、ひとつ白状しねぇか?」

「ほお。聞いてない割には大きく出たな、ミラキ」

「論外なんて書かれてんだ、どうせロクな内容じゃねぇんだろ?」

「いい勘だ」

 さっきまでミナミに占拠されていた回転椅子にどさりと腰を落としたヒューが、横柄に腕と足を組んでドレイクに向き直る。

「連想ゲームみたいなものだ。「初恋」と聞いて俺が最初に思い浮かべたのは、他でもない、アンくんだったよ」

 は? とアリスが煉瓦色の眉を吊り上げてぽかんとし、しかし、ジリアンとクインズはまるで同意するように小さく笑った。

 実の所、彼らも「初恋」という初々しい単語を耳にしてふと思い浮かべたのは、あの、色の薄い金髪と水色の目の華奢な少年だったのだ。

 恋だとか、恋じゃないとか、そういう問題ではなくて…。

「ただ、初恋とイコールなのはアンくんだなと…そう思っただけだがな」

 呟いて、「だとしたら」、やはり初恋なんてものは成就しないのかもしれないと、ヒューは少し可笑しくなった。

      

      

 自惚れを否定する要素が見付けられない。

 例えば恋を語るのに、ヒューは自分をいかにも不適当な配役だと考える。それなら、それが作られた紛い物、シナリオ通りに進む準備された結末への一本道だとしても、弟…セイルの方が数多くの恋…初恋と言って然るべきものも含まれているだろう…に接して来たと思う。

 相手の望む物を望む時に与える。そのタイミングを見逃さない。

 なりふり構わず、周囲の都合など考慮しない。恋なんてそんなものだ。

……………本当に、それだけでいいのなら…。

      

       

 内に沈みかけたヒューの意識を現実に呼び戻したのは、ソファに座り難しい顔で中空を眺めていたドレイクの、何気無い一言。

「こっちは百パーセントお節介だって文句言われるにしても、一応、ハルに電信しとくかな…」

 ぽつりと呟き、それから溜め息混じりに身を起こしたドレイクが、がさごそと懐から携帯端末を取り出すのを見遣り、ヒューが首を傾げる。

「ミナミの様子がよ、なんつうかこう、ちょっとおかしかったと思ってな」

 何か言いたそうで。

 でも、何も言えないようで。

 あの青年らしからぬ、口数の少なさで。

 ドレイクはそれを、「ミナミの問題」だと勘違いする。

「…そんな深刻な状況でもなかったと思うけど? あたしは。ミナミ、意外と普通にしてたし」

 ルニの問いに答えた時のあの柔らかな笑顔を思い出しながらアリスが言い、ドレイクは「判ってるけどよ」と返しつつも取り出した携帯端末のメモリを弄り回す。

「判っちゃいるけどな? ミナミが実は「どう」なのかってのは、結局ハルにしか判んねぇんだよなとかもよ、ちょっと思うワケだ」

 だから自分たちが感じるより、後から何か重大な問題でも起こったら困るだろうとドレイクは付け足し、多分そんな心配は無用だと思いつつも、ヒューは何も答えずデスクに向き直った。

 一般警備部の格闘訓練の終了報告と、個人宛ての訓練メニューを作成しなければならない。ルニの提示した取り立てて問題にもならない些細な騒動などきっぱり忘れて、今はそういう…どうでもいい事を考えている方が気楽でいい。

 その方がいい。

 あの少年が資料に囲まれて、ひとり、何を思っているのかなど、ヒューには。

         

 関係ないのだから。

  

   
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