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番外編-6- **まで残り、1センチ

   
         
(7)

  

 昼食を挟んだ会議は滞りなく終わり、報告書は明日の昼まで各部署に送信すればいいとクラバインに告げられて、ミナミは早々に退室する事にした。

 帰り際、未だ訓練メニューに頭を悩ませているヒューの後ろを通ってドアの横に掲げられているボードに歩み寄った青年が、電脳班の不在エリアに貼り付けられたままのアンのネームプレートを見上げ、一瞬表情を曇らせる。

「…アンくん、あれから戻ってねぇんだ」

「そういえばそうだな」

「ランチは?」

「…俺に訊くなよ」

「だって、気になんねぇ?」

「お前…。ミナミ」

 用事があるからとジリアンが出掛けてしまった特務室には運悪くヒューひとりきりで、だからなのか、ミナミがどこかしら咎めるような無表情で銀糸の流れる背中を見つめ、明らかな抗議を投げ付けて来る。

 それに呆れた溜め息を吐きモニターから視線を上げたヒューは、ドアに背中を押し付けてこちらを睨んでいる青年に顔を向けた。

「いちいち俺につっかかるな」

 ぴしゃりと言われて、ミナミは一瞬黙り込んだ。

 怒っているのでもない。苛立っているのでもない。ただ酷く平坦に事実を突き付け、あっさりと手を退いて、そのくせざくりと内側に斬り込み、ヒューは睨んで来るダークブルーを真っ向から見据える。

「…判ってる、けど、納得行かねぇ…」

 そしてミナミも、ヒューから目を逸らさない。

「どうしようもねぇ、しょうがねぇなんて、思いたくねぇ」

 こういうところ、ミナミは怖いなとヒューは思う。戸惑っているようにして、実はひとつも迷っていない。救いようなく強情で、意外と我侭だ。しかしその強情も我侭も、ミナミがミナミの中で完結し決定した思い込みに端を発する十割傍迷惑なものではなく、つまり、ヒューが…あの少年がそれぞれ見ない振りをしている事柄から、目を逸らすなよと、諦めるなよと言われているようで。

 この天使は、とても、怖い。

「だって、それ、おかしいだろ」

「払う犠牲が自分であれば、なかった事にするのも自分だけでいい。それが偶然双方で起こり、関わる前に…………」

 言って、ヒューはしまったと思った。

 不意に俯いたミナミのダークブルーが振り上げられ、再度真っ直ぐヒューを見つめ直す。衣擦れを伴って捌かれた長上着の裾を閃かせた青年が一歩踏み出した時には既に、銀色は、無防備に曝してしまった急所を一突きされる覚悟を決めた。

「判ってんのに退くなんてさ、ヒューらしくねぇよ」

 瞬きしないダークブルーが、無言の銀色を記憶する。

「俺は我侭だから、全部許す」

 歩きながらゆっくりと差し上げられ、広げた手が。

「どうせなら、さ」

 ヒューの左胸を、突いた。

        

 傷付けてしまえ。

         

 触れた掌が離れてすぐ、ミナミは呆然とするヒューに背を向け、じゃね、といつものように素っ気無く言い置いて特務室を出て行った。

 取り残されて、やはりと思う。

 あの天使は、怖い。ああいう事を平気で言える。しかも無表情に。何でもない事のように。際限なく傷ついて、薄汚れて、堕落して壊れても尚まっさらで無垢な、羽を持たないあの天使は、吹き零れるほど残酷な幸福をその手に握り締めている。

 そしてその「幸福」を感染させる方法は、あの悪魔が、天使に教えたのか。

 なんだか酷く疲れた気分で詰めていた息を吐き、ヒューは椅子の背凭れに身体を預けた。

「…ミナミの声が聞こえた気がしたんだけど、もう帰っちゃったの?」

 電脳班執務室のドアが不意に開いたかと思うなり真っ赤な髪がひょいと覗き、ヒューは「ああ」と答えながら天井に向けていた顔を正面に戻した。

「ミラキは?」

「ガン大隊長のところに行ったわよ。何か用事があるなら、呼ぶけど?」

 別に大した話じゃないから。と付け足しながら微笑んだ赤色の美女をいっとき眺め、ヒューが歯切れ悪くも首を横に振る。

「ナヴィ衛視にひとつ質問があるんだが、いいか」

「……やだ、何? 改まって。班長らしくなくて、気味悪いわ」

 それも酷い言われようだと苦笑を漏らしつつデスクに頬杖を突いたヒューに小首を傾げて見せ、先を促がすアリス。

「絶対に成立しないと判っている恋愛を、どうやって「終わらせ」た?」

 からかうような笑みさえ含まれないその質問に、アリスが眉を寄せる。

「面白いお話ね、班長。なるほど、ドレイクの所在を確認したのは、そのせい?」

「勿論。麗しいひめさまにこんな失礼な質問を投げたと知られたら、どんな目に合わせられるか判ったモンじゃないからな」

「…でも、正直なところ、ドレイクじゃなくてあたしに訊いてくれたのは、嬉しいわ」

「へぇ。俺はてっきり、叱られるのかと思ったがな」

「怒らないわよ。そうね…、そんなのもう過去の事なんだもの、って訳でもないけど」

「………………………」

「班長の言う通り、終わらせたのよ。

 好きだから、一生離れたくないと思ったから、ずっと友達でいて幼馴染でいて棺桶に入るまでああだこうだ言い合って、………………愛されて想いが通じるってそういう幸せより、一生変わらない距離を選んだだけよ、あたしは」

 繊細に微笑んだ赤い髪の美女は、その時、本当に綺麗だった。

「それに気付いててずっと知らない振りしてたドレイクは卑怯だと思うけど、一度だけ気が済むまで泣かせてくれたから、ちゃらにしてあげるの」

 アリスはそこでヒューを小さく笑ってから、わざとらしくも艶やかにウインクして見せる。

「今あたしの事、いい女だと思ったでしょ。惚れた?」

「…………ああ」

 口の端に浮いた苦笑を隠すようにそっぽを向くヒューの横顔をアリスがやたらけたけた笑っているうちに、特務室のドアが開け放たれ、外出していたジリアンが戻って来た。

「? どうしたんです? ひめさま。随分ご機嫌ですね」

「ん? だって、班長に好きだって告白されたんだもの」

「へー」

 そこでジリアンから返ったのは、いかにも信じてない風の、平坦な相槌だったけれど。

  

   
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