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番外編-6- **まで残り、1センチ

   
         
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 戻り際、でも今になって思えば、それを選べたのは…彼が彼の前に現れてからだったかもしれない、とアリスは電脳班執務室のドアに向き直り、ぽつりと呟いた。

…酷く、複雑な気分だった。

       

        

 天井に届くようなラックに隙間なく詰め込まれた、ディスクやマイクロチップ。窓のない迷路のような室内はそれらの作る影に侵食されてひどく薄暗く、外界と自分が切り離されてしまったかのように静かで、ただでさえ沈みがちな気分をますます沈ませるには充分過ぎた。

 細くくねった通路を奥へ奥へと向かうに従って、並べられた資料の日付や期間が古くなる。その古い資料を掻き分けて更に奥へと進み、突き当たりの壁まで到達したところで目的のライブラリーを見付けてみれば、最早廃棄寸前のデータは既に、場所を取るディスク形式ではなくぎちぎちに詰め込まれた大容量マイクロチップ形式に圧縮されていた。

 居残りのドレイクには現行機械式の構造を詳細に調べておくようにとハルヴァイトから言い渡されている、と言って置いたものの、実は、アンの探す資料は全く別のものだった。前大隊長ダイアス・ミラキの関わった着陸調査に関する全データを掻き集めておくように、というハルヴァイトからの指示が何を示しているのかくらい少年にもすぐに判ったから、辺り障りのない口から出任せを先に言っていてよかったと思ったが、まさかこれほど後味悪く部屋を飛び出すハメになるとは…。

 と少年は、膝の上から床へざらざら流れ落ちる二センチ四方のマイクロチップをぼんやりと眺めて、またひとつ溜め息を吐く。

 ルニの質問におかしな返答をしてしまったのは、今更どう後悔しても取り返しがつかない事くらい判っている。どうせなら、「まだです」ときっぱり言い切るくらいの度胸が欲しかったと、アンは資料室に逃げ込んでから思った。

 その上、これだ。酷い注意力散漫。迂闊以外に当て嵌まる単語が思い浮かばない。

「…参っちゃったなぁ」

 疲れたように呟いて、とにかく「これ」をどうにかしなければと思う。

 アンは、せいぜい幅五十センチという細い通路の突き当たり、時間経過という抗えない現実に変色した壁に背中を預け、すぐ側に迫るラックに右肩を預けて、その場に座り込んでいた。全く別の事を考えながら室内を彷徨い、ようやく見付けた資料の殆どは年号の書き殴られたケースに、いかにも無造作、ごっちゃりと適当に放り込まれ、ついでにアンの背丈より高い位置に置かれていた。届かないーなどとぶつぶつ言いつつ背伸びして棚からケースを引っ張り出し、事無きを得たと息を吐いて、瞬間、その不運? それとも不幸? は何の前触れもなく少年の頭上に降りかかる。

 まさに文字通り、撓んだラックのてっぺんに載せられていたケースがバランスを崩してひっくり返り、満載されていたマイクロチップ数千枚が、雪崩れ落ちてアンを生き埋めにしようと降り注いだのだ。

 それで、反射的に頭を抱えてその場に座り込んだまでは、身を守る手段として最適だっただろうと思う。ただし、手に持っていたケースを床に落とし、中身がばら撒かれ、その上に無関係な数千枚が折り重なったのは頂けなかったが。

「さいあくー」

 つまり少年は、ぐったりと疲れ果て、途方に暮れていた。

 この中から目的のマイクロチップを探し出さなければならない。

 くすん、と洟を啜るマネなどしてちょっと寂しい気分を表し、またもがくりと肩を落とす。この状態で全部のチップに任意のコードナンバーを振り、一気に読み込んで解析、必要な物だけを選り分けて残りを除外し転移するくらいの才能が欲しい、と無茶な想像をしてみる。

 数千枚。無理。せいぜい三十枚ずつ並べて内容を解析するのがアンの限界であり、不必要なものは手作業でケースに放り込まなければならない。

 そんな自分が不出来だとは思わないが、どうしてこう中途半端なのだろうとは、思った。

 どうせなら、ハルヴァイトやドレイクくらい無茶苦茶出来ればよかった。それなら、なんでもかんでも、仕方ないやと……諦められたかもしれない。

 なんでもかんでも。あれもこれも。戸惑いも当惑も。嘘も本当も…。魔導師だから仕方がないという理由で。

 ふうと一つ溜め息を吐き、襟元に引っかかっていたマイクロチップを摘んで膝元の山に載せてから、とりあえず何かしようと壁を背中で突き放す。いつまでも座り込んでいたってどうしようもない。才能の不足を悲観? しても、それこそどうにもならない。

 僅かに身じろいだせいでアンを取り囲むマイクロチップがまたもざらざらと流れた。軽い騒音は煩いというほどではなかったが、意味の判らないざわめきみたいで、気分が悪い。

「…枚数を限界まで増やして解析速度を遅らせるより、十枚単位で高速解析した方が早いのかな…」

 乾いたざわめきはまるで自分に届かない噂話みたいだと思いながらアンは、どの手段を選択するかで必要時間の総計がどれだけ変わるか、脳内で演算し始めた。そんな事をするくらいならさっさと作業を始めればいいのに、というのは演算が生活の一部でない一般市民の考えであって、少年にとってこのシミュレーションは、無意識下で行われる癖のようなものだった。

 だから、少しだけ考える。

 すると不意に、ラックの遥か向こうにあるはずのドアに備えられたカードキーリーダーが警告音を発し、誰かの入室を知らせた。

 それで一旦演算を止めたアンが、慌てて言い訳を考える。もしこれがドレイクだったりして、なぜこんな奥地に居るのかと問われたら、上手い事を言って切り抜けなければならない。どうせなら気付かずに入口付近で何か探し、すぐに退室してくれた方が波風立たなくていい、と瞬間的に息を潜めてみたものの、微かな金属の軋みと伴に資料室に入って来た誰かは迷わずラックの迷宮を進み、時置かず、アンの真正面に姿を現した。

「あ……………」

「………………君は…」

 で、がくりと肩を落とし、いつもと同じように呆れた声を…出す。

 薄暗い天井からの灯りにも映える、銀色。

「新手のボイコットか何かで、篭城するつもりか? マイクロチップに埋もれて」

「…………………あー、いえ…。そういう訳では、ないはずです…」

 その、自信なさげなアンの呟きを耳にして、ヒューは額に手を当て天井を仰いだ。

 少年は、姿を現したのがヒューだと気付いてすぐ、見つめて来るサファイヤから視線を逃がし、俯いて小さくなってしまった。こういう反応を示されるというのは予想していたのだから、いつまで経っても戻らない少年を気にかけても、自分ではなく他の誰かをよこすべきだったと、ヒューは心底思う。

 思い当たる理由がまったくない訳ではないが、どうも、暫く前からアンのヒューに対する様子がおかしい。

 始めヒューはそれを、あの…偶然再会してしまったミシガン・トウスの一件が関係しているのだろうと考えていた。

 漠然と、そうではないらしいと思い始めたのはいつだったか。

 少年の些細な変化が何を意味するのか、ヒュー・スレイサーは。

「あの瞬間」まで、全く気付かなかったのだけれど。

「とにかく、そこから出るつもりは?」

「…あります」

 それなのに。

 額から手を下ろしてアンに顔を向け直したヒューは、知らず、眉間に浅い皺を刻んでいた。

 気付いてしまったから、見て見ぬ振りが維持出来ない。何もなかった事にしてそれでいいじゃないかとミナミには言いつつ、こんな些細な瞬間にその嘘が…ぽらりと剥がれる。

 俯いた少年の頬に、薄っすらと赤く引っ掻き傷が浮いていた。きっと、雪崩れたマイクロチップの角でも掠ったのだろう。

 微かな衣擦れだけを囁かせたヒューが、不意に長い足を折り曲げその場にしゃがみ込む。この狭い隙間で身じろいでも着衣の裾さえ周囲のラックに掠りもしない身のこなし。しかし、ここでヒューの取ろうとする行動が予想出来なかったのだろう、アンが伏せていた顔を動かした、刹那。

 伸ばされた腕の先端、白手袋に包まれたあの長い指の背が、さらりとアンの頬を撫でた。

「傷が付いてる」

 驚いたように見開かれた、不安げな水色。

 それがあまりにも可笑しくて、自分で自分が滑稽過ぎて、ヒューは小さく、吐き出すように笑った。澄んだ薄青に映り込んだ自分の顔に酷く冷たい、自嘲気味の笑みが浮かんでいる。

 ミナミは勘違いしているとヒューは思う。確実に、あの青年は「間違っている」。いや、全部が全部綺麗に間違っているのではなく、どこかでズレが生じているだけか。

 そしてそれに、青年はずっと気付かないだろう。例えばミナミの背後に控えたあの最悪が何かを「予測」したとしても、この「ズレ」は修正出来ない。

 当然だ。

 何せ、その「ズレ」は。

 ミナミの知らない場所で密やかに持ち上がり、当事者であるアンでさえ、まさか「それ」をヒューが知っているとは思っていないのだから。

「…………。そうか…」

 薄暗い袋小路の突き当たりに座り込んだアンの心細そうな表情を見つめ、ヒューはふと呟いて口の端を淡い笑みの形に歪めた。

 そのズレは、全ての歯車を狂わせる可能性を秘めている。うやむやに薄れ、なかった事になってしまえばそれまでだが、もし、それが…現実的に色と厚みを持って露呈した時、アンとヒューの抱えるこの危うい均衡は、脆くも崩れ去るのか。

 濃灰色の化学合成素材片に膝まで埋もれた少年の、厳冬の快晴を思わせる希薄だが柔らかい青の瞳が、薄暗がりにありながら仄かに冷たい光を放つ不可解なサファイヤを見ていた。書庫の最奥、天井からの灯りが足元まで届かない室内なのに、なぜそのひとの双眸がこうもはっきり「自分を見ている」と知れるのか。少年は無言のままごくりと固唾を飲み、不意に気付いた。

 ゆっくりと、自嘲気味の酷薄なものからさも可笑しそうな色へ様変わりするその瞳は。

 冷たく冴えた、銀色の細かな燐光を散らしていた。

「片付ける気なら、誰か手伝いをよこすか? 昼の会議が終わって戻った連中が、珍しく暇そうにしてたからな」

 滑らかな頬の表面を通り過ぎた手袋の感触。周囲の暗がりを映して灰色に翳った銀髪が俯き、曲げた膝にその白手袋が置かれるのをぼんやり見ながら、アンがぽつりと呟く。

「…革手袋、なんですね」

「ああ。君たちのとは材質が違うな、そういえば」

 下層のファームで加工される上質の革を使った製品は、一般にはほとんど出回らない超高級品で、アンを含む大抵の王都民に馴染みのある「皮」というのはつまり合成皮革なのだが、ヒューの手を包んだそれは、正真正銘、柔らかく湿ったような感触の革手袋だった。

 贅沢品ではなく実用品だと、アンは膝に置かれたヒューの手を見つめて思う。確かに、ただの布手袋など嵌めさせても、すぐ破いてしまいそうなひとだとも。

「それがどうかしたか?」

 まるで一瞬前の不機嫌や当惑などなかったかのように言いながら、ヒューはアンの視線が吸い付いたきりの手を顔の前に翳した。アンに向けられた掌は広く、伸ばした五指は細長く見えるが、実は節が浮いていて皮膚が固く、それから。

「左…」

「?」

 膝を埋めているマイクロチップをさらさらと床に払い落としながら俯いたアンの唇に、どこかはにかんだ笑みが浮かぶ。

「左の中指が、少し曲がってますよね」

 伏せた睫の作る影に、淡い水色が滲む。

「小指の外側に、裂傷の痕があって」

 ヒューはただ、少年の小さな顔を見ていた。

「右の人差し指にも、骨折の痕が」

 そういう事に、とアンは続ける。

 ゆっくり一度瞬いた水色が持ち上がり、無言で見つめてくるヒューのサファイヤを捉えた。

「どうして、気付いちゃうんでしょうね」

 言って少年は、ちょっと困ったように微笑んだ。

  

   
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