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番外編-6- **まで残り、1センチ

   
         
(9)過去ログ-1

  

「あの日」から、その手が酷く気になって目を逸らせないでいる。

 そして「あの日」から、その青に映る事を意識的に拒んでいた。

 絶対に関わり合わないはずの別々の「あの日」。

 気付いてしまった「あの日」と、判ってしまった「あの日」はしかし、少年の内で無情にも重なり合い、たった一個の事実で繋がれる。

 解答は、間違いだったのだろうか?

       

      

 なんとなく暇を持て余し、なんとなくウインドウショッピングにでも出掛けようと思ったのは単なる気紛れだった。ここ暫くの騒動続きで荒れていた部屋を掃除し、キッチンに入って戸棚を開けてみれば、食料らしいものがまるで見当たらない。とはいえ、特別官舎にはダイニングもあるから特に困る事はないのだが、これは人間の生活としてどうかと少年は苦笑を漏らした。

「…ヒューさんじゃないんだから、何か置こうよ、食べるものとか」

 無意識に、唯一の上官であるハルヴァイト並みかそれ以上に生活能力が低いとアンの中で判断されている同僚を思い出し、食料の調達と散歩を心に決める。最近運動不足だよなー、などと嘆息交じりに思い浮かべつつクリーム色のハーフコートを羽織って部屋を出たのは、丁度昼を過ぎてすぐだった。

 城の敷地から外に出たのはいつ振りか。通用門を抜けて人の行き交う大路の交差点に立ち、アンはどこへ行こうかと思案する。

 まず思い付いたのは、そう遠くない場所にある巨大ショッピングモール。少し前なら迷わず爪先を向けただろうその場所に行くのを躊躇ったのは、人ごみは疲れるからなどという平穏な理由ではない。

 行けば、思い出す。

 振る舞われる甘いシュークリーム。菱形のペーパーナプキンでそれを包む清楚な横顔と、どこかしら不機嫌そうな…サファイヤ。

 目の前の青信号を一回見逃し、少年は歩道の隅に佇んだままぼんやりと天蓋を見上げた。空は快晴。忙しく歩き過ぎるサラリーマンに紛れて交代したばかりらしい警備兵の姿もちらほら見える大路の波は、いつもと同じに一時も休まず流れ続ける。

 アンの周囲で信号待ちをしていた無関係な背中たちが一斉に歩き出し、少年も慌てて歩道を降りた。別に行く当てなどないが、いつまでも歩道に突っ立っている事もない。

 押されるように信号を渡り切ってすぐ、アンは正面に見えるショッピングモールを躱すよう左に折れた。車道を滑るフローターを眺めながら、一般企業向け乗用タイプの新型が発売されたというニュースを思い出し、暇潰しにペーパークラフトでも買ってみようかと、裏通りに抜ける路地を覗き込む。

 六丁目の商店街は、通称マニア・ストリート。王立図書館でも極端に利用者の少ない、いわゆる「古書」のレプリカだけを専門に取り扱う店や、先述のペーパークラフト専門店…ここにはなんと、ポピュラーな魔導機の図版まで置かれていて、実は、現大隊長グラン・ガンの使役する「ヴリトラ」の模型は一番人気だったりする…、使い方の判らないキッチン用品とか、オーブンで焼いて作る陶器の材料だとかもある。

 フローターの入れない狭い路地は、それなりに混雑していた。浮遊都市という閉鎖空間では、趣味という娯楽もある程度多彩に提供して置かなければ都民のストレスは溜まる一方なんだと、いつか陛下が言っていた。

 言葉は悪いが、そういうものまで管理しなければならない。選択は自由だが供給は自由に出来ないのも、都市の不幸であり閉鎖空間の宿命だと思う、という陛下の言葉は、アン少年に「世界」の在り方を考えさせた。

 全てが、とは言わない。けれど、ほとんど全てが、その原理に習っているとアンは思う。

 いつもは目的もなく通り過ぎるだけのショップをあれこれ覗いてみようという気になったのも、気紛れだったのか。

 軒を連ねる数多のウインドウ。その中で少年の興味を引いたのは、組み立て式の楽器を売る店だった。簡単なものでは吹き口だけを削って加工するタイプのストレートホイッスル、既成の枠組みに皮を張るタイプの打楽器は、「バウロン」という胴の浅いものから、「スルド」というかなり深いものまで、十数種類もあった。

 それから、仕上がっているパーツを組み立てて塗装加工する、ヴィオロンやギター、極小さなインテリア風のアップライトピアノもある。さすがにこのあたりまで来ると相当マニアだなと苦笑が漏れたのは、なんの変哲もない凝結人工木材をくり貫きキーを取り付ける、本格的な管楽器を目にした頃だろう。

 漆黒の胴体を飾る、眩しい銀色。なんとなく何かを連想させるその色合いに、少年は苦笑ではない笑みを零す。

 そういえば、あのひとは今日、何をしているのか。

 とそこで、アンは並んだ銀色のパーツの背後に貼り出されているポスターに目を停めた。

「MUSIC(ムジカ)」と大きく描かれたそれは、どうやら自主制作の単館上映シネマの宣伝らしい。ポスターそのものは暗色で描かれているのだが、憮然とした主人公の手に握られた柔らかな曲線のブルースハープにだけ、スポットライトが当たっている。

 音楽映画かな? と小首を傾げ、もう一度それを見直して、アンは「あ」と口を開けたままその場に固まった。

 暗い表情で虚空を睨んでいる主人公の顔に、見覚えがある。金色のヴェールを纏った亜麻色の髪を風に嬲らせた、目端の吊り上がった緑色の双眸を持つこの青年は。

「…リリス・ヘイワード?」

「へぇ、よく気付いたね」

 不意に声をかけられて、アンはぎょっと背後を振り返った。

「あ、驚かしちゃった? ごめんごめん」

 そこに立っていたのはひょろりと背の高い若い男。親しげに言われて、でも見知らぬ男に警戒しているのか、唖然としているのか、答えないアンにちょっと気弱そうな笑みを返した彼は、店の奥にあるカウンターに顔を向けると、店主に「これ、剥がして行くから。どうもね、おじさん」と気安く声をかけた。

「剥がしちゃうんですか?」

「うん。昨日までだったんだよ、このシネマ。それにしても君、よく気付いたね、これがリリスだって。余程のファン?」

 くしゃくしゃの金髪。神経質そうに鼻筋の細い、顎の尖った顔。よれよれのデニムシャツに、小汚いジーンズに、擦り切れたスニーカーという出で立ちのいかにも怪しげな男が、妙に人懐こくにこにこ笑いながらポスターを剥がす。

「…ファンっていうか、そうですけど…、気付いたのは偶然です」

「笑ってないからさぁ、この彼。まぁ、まさかど素人の撮った自主制作シネマに出演してるなんて誰も思ってないからだろうけど、意外に気付かれないんだよねぇ」

 笑ってない。カメラを見ていない。あの特徴的な緑の瞳に力を込め、全てを魅了するように微笑んでいない。

「自然でいいと思いますけど」

 壁から剥がされて男の手に移ったポスターを目で追いながら、アンは何気なく呟いた。

「…え?」

「だって、リリスさんて結構…こういうつまんなそうな顔してますよね、普通に」

 アンの知る、ムービースターでない「リリス・ヘイワード」は。

「もっと早く知ってれば、観たかったな」

 ヒーローを演じるリリス・ヘイワードではない、もしかしたら、リリス・ヘイワードの姿を借りただけのセイル・スレイサーを観てみたかったと、アンはくすりと微笑んだ。

          

        

 それは、とても短いムービーだった。

 都市に紛れた「MUSIC」という、誰にも意識されない「もの」が、取り留めなくスラムを、ファームを、都市を彷徨い、意識されず漂って、汚れた地下道で死んで行こうとする。生活の滲む、まったく脚色されていない様々な音に紛れて時折吹き鳴らされる、ブルースハープの寂しげな旋律。

 叱られて、歩道の縁石に座って泣きじゃくる小さな子供の傍らに座った「音楽」が奏でるのは、慰めるような優しい音。子供は泣くのをやめ、袖で涙を拭って立ち上がり両親の元に駆け寄る。恋人と別れ立ち尽くす男に向かい合う「音楽」が悲しい旋律で囁いて、男はついに涙を流し嗚咽を漏らす。

 汗みずくで働く人々の只中では励ますような音楽を。楽しい時には楽しい音楽を。苦しい時には希望に満ちた音楽を。ドキュメンタリーのように映し出される都市の生活を、音楽だけがなぞる。

 台詞のない、音と音楽だけが何かを訴えるそれは、この都市を映し出していた。

 決して美しい映像ではない。拙いといってもいいだろう。でも、酷く心に残るものだった。

 最後に、音楽は死んで行こうとする。意識されない事の寂寥を、溜め息のような旋律に載せて。

 しかし音楽は救われるのだ。

 泣いていた子供が両親と手を繋ぎ、恋人と別れた男が天蓋を見上げて、労働者たちが声を合わせて、それぞれが上手くもなく口ずさむ旋律が重なり合って「音楽」を作り、新しい「MUSIC」がブルースハープを受け取る。

 そうして音楽は、また都市へと彷徨い出す。

        

         

 たった三十分ほどの映画を小さな部屋で見終え、天井の明かりが灯されて、アンは慌てて俯いた。なんでもない日常が綴られ、音楽という姿かたちのないものが救われただけなのに、酷く心に残ったし、酷く…泣いてしまいたくなる。

 戸惑うように広げた掌で顔を擦る少年の痩せた肩を見下ろし、男は満足そうに微笑んでいた。片付けたばかりのディスクを再度映写機に繋いだだけの甲斐はあっただろう。

「君が泣いてくれて、とても嬉しいよ。なんでもいいんだ、感じて貰えるのは。ただ、何も感じて貰えないのは、寂しいけどね」

 そう言って男…このシネマの監督だというレスキン・バルコフは、ちょっと照れたように笑った。

  

   
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