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番外編-6- **まで残り、1センチ

   
         
(11)過去ログ-3

  

 しきりに時計を気にしていたセイルが途中で帰ると言い出し、それを機にアンもその場を辞す事にする。帰り際、また機会があったら誘ってよとセイルはそこだけトップスターみたいな余裕綽々の笑顔で言い、アンは見送りのレスキンに会釈して店を出た。

 小さな店から通りに出て、ようやくふっと息を吐いたアンの横顔を、どこか申し訳なさそうな表情でセイルが覗き込む。

「…レスキンが無茶言っちゃって、ごめんね、アンさん」

「でも諦めてくれたみたいですし…」

「そうじゃなくて」

 遠回しな出演依頼の件だとばかり思ったアンがそう笑顔で答えると、セイルは困ったように短い髪を掻きながら、苦笑を漏らした。

「なんていうか、アンさんには想像出来ない世界じゃない? ああいうのって。娯楽を提供するぼくらがどうとか、アンさんが…ああいう場所で働いてるから偉いとか、そう思ってる訳じゃないけど、なんだか、戸惑ってるように見えたから」

 アンには、そのセイルの言葉が否定出来なかった。

「……、夢が…」

 チェックの短いシャツからアンダーウエアの裾を覗かせ、左右の太ももをポケットで飾ったワークパンツに、すっかり傷だらけになったショートブーツという、いかにもそこいらにたむろっている若者みたいな格好のセイルから正面に視線を戻したアンが、ぽつりと呟く。

「ああいう風にみんなで語り合う夢があるのは、幸せだなと思いました」

 少年は、品のいいVネックのプルオーバーに細身のジーンズ、穿く機会が極端に少なく、未だに真新しい印象のスニーカー、クリーム色のハーフコートという、確かに、育ちの良さそうな姿をしている。

 もしかしたら、こんな裏通りを並んで歩いているはずのない、奇妙な隔たりは。

「セイルさんの言う通り、確かに、誰かと「夢」を共有するなんて、ぼくには想像出来ないのかも。

 でも、それがどうとかね、思うんじゃないんですよ。ああ、みんな幸せなんだなって、よかったなって思うだけで、だからってぼくが幸せじゃないんでもなくて、ただ…」

 路地を二・三度折れて見覚えのある通りに出る。レスキンに偶然出会ったマニア・ストリートの店はどれもシャッターが降りていて、昼間と違い廃墟のように見えた。

 雑多に張り巡らされた、様々なポスター。路地の片隅に掃き寄せられた塵。通りの向こう、お終いなのか始まりなのかに見える白亜の尖塔群が、暗い天蓋にきらきらとした光を反射しそそり立っている様を遠くに見上げ、アンは口元を綻ばせた。

「ぼくの「世界」は狭いんだなぁって、時々思います」

 正面を見据えたアンの横顔を見つめ、セイルは静かに息を吐いた。

 少年は、なんてしっかり立っているのだろうと青年は思う。頼りなさそうに見えるのに、本当は少しも頼りなくない。自らを戒め、律し、制し、立とうと躍起になっているのでもない。

「……」

「でも、ぼくの世界は狭くてもね、セイルさん。本当の「世界」に在るのはぼくだけじゃないから、それに関わるぼくの世界も、本当は狭いんじゃないんですよ」

 とまぁ、これはガリュー班長とドレイク副長の受け売りですけどね。とセイルを振り向いたアンが見せた笑顔に、青年は…納得した。

「だから」なのだと。

 だから、この少年だったのかと。

「…この間、ぼく、特務室に出頭したじゃない?」

 唐突に言い出したセイルに不思議そうな顔を向け、アンが「はい」と答える。

「その時ミナミさんと色々話しして、というか、お茶飲んでお話ししただけで帰って来たんだけど、その時ミナミさん、こんな事言ってたんだ」

 思い出すのは、見透かすようなダークブルー。何度会ってもはっとする綺麗な青年の桜色にのぼる、氷菓子のような薄笑み。

「魔導師っていうのはひとりで完結する事が可能だからこそ、余計に、他の誰かを求めるもんなんだって」

「ミナミさんがそう言うなら、きっとそうなんですね」

 少しの疑いもなく答えたアンの小さな顔をほぼ同等の高さから眺め、セイルもそうだねと頷く。

 あの天使を疑ってはならない。

 レスキンと出会った楽器店の前を通り、城を囲む大路の近くまで戻ったところで、アンは不意に眉を寄せ傍らのセイルに顔を向けた。

「セイルさん、これからどこに行くんですか?」

「どこって、家に帰る。久々の長期オフだから、撮影所傍のアパルトメントから逃げて来たんだもん、ぼく」

「逆方向じゃないですか」

「送って行くよ。って今更か」

 あははと笑うセイルの顔をぽかんと見ていたアンが、ふと息を吐いてからぺこりと頭を下げる。

「すみません、ありがとうございます」

「やだなぁ、そんな堅苦しいのナシにしようよ。ぼくとアンさんの間柄じゃない」

「親しき仲にも礼儀ありです。っていうか、そういうところは、セイルさんヒューさんと似てませんね」

 言われて、青年が無言で首を傾げる。

「ヒューさんならきっと「気にするな」って言いますよ。気になるから言ってるのに、本当、判ってないですよね」

「………」

「もう慣れましたけど、それでも時々、どうしてこのひとはこうなんだろうって思います。怒るのも呆れるのも通り越して、いっそ感心しちゃいますよ」

 どこかしら拗ねた口調でぶつぶつ言うアン。

「でも、さっきの話じゃないですけど、ヒューさんがもっと柔らかく世間に接してたら、かなり驚きますけどね」

「ヒューは、不器用だから」

 優しい笑みを含んだ呟きを漏らしながら大路に出て足を止め、途端、セイルが…ゆっくりと左右を見渡す。

「不器用で不安定なのにバランス感覚が抜群に良くて、本当ならひっくり返っちゃうくらいダメなくせに、不運にもね、倒れる事も出来ない」

 フローターのヘッドライトが流れる大路。正面は高い外壁、右に折れれば高級住宅地を含む居住区、左に折れればショッピングモールや専門店が立ち並ぶアーケード。アンの帰路は、左に曲がって暫し進んだ先の信号を渡り、目の前に見える城の通用口かもっと大きな通用門から敷地に入るコースか。

 しかしなぜなのか、セイルの視線は右側に向けられたところで微か細められ、一瞬停まった。ただそれは本当に一瞬の事で、すぐに旋回した暗い琥珀がアンの小さな顔に戻った時には、いつもと変わらなかったが。

「自分と同じように世間に接するか、ただ見てるかしか出来ないんだよ、アイツは」

 難解な台詞の最後を締め括るのは、晴れやかな笑顔。行こうと背に手を添えて促され、アンは当惑しつつも大路を左に折れた。

「…まぁ、こういうチャンスってそうそうないだろうから言っちゃうけど…」

 随分人通りのまばらになった歩道をゆったりと歩く、セイルとアン。本当なら人だかりが出来てもおかしくないだろうムービースターはしかし、すれ違う誰の視線を集める事もない。

          

「アンさん、本気でぼくと付き合う気、ないよね?」

         

 その。

 あまりにもあっさりと転がり出た、しかも拒否される事前提の言葉に、アンはぽかんとセイルの横顔を見つめてしまった。

 付き合うと言われても種類は色々ありますよねああもしかして友達って意味? とアンが混乱気味の脳で考え終えるよりも前に、セイルがにこりと微笑んで「好きだ」と付け足す。

「それって…あの…、スキャンダルじゃないんでしょうか? かなりの…」

「セイル・スレイサーに恋人が出来て騒がしいのは、家族くらいのものだよ?」

 そうじゃない方向はどうなるのか、リリス・ヘイワード。

「うん。でもやっぱりアンさんは、ぼくを友達として大事にしてくれてるだけでいいや」

 ほとんど硬直状態で左右の足だけを動かしているアンにいたずらっぽい笑みを見せてから、頭の後ろに手を組んで天蓋へと視線を振り上げたセイルは、なぜなのか妙にさっぱりした顔をしていた。

「ぼくはね、結構本気なんだよ? こう見えても。だから、ぼくがアンさんを好きなんだって言いたかっただけで、それで、この先何が…お互いにさ、何があっても一生友達でいられるくらい好きなんだって、判ってくれる?」

 水平に戻った琥珀が呆然とする水色にぶつかるのと同時に、アンが慌ててこくこく頷く。

「先手必勝。攻撃は最大の防御。で、つまりこれは卑怯な防衛線でね? ぼくは君と一生友達でいたいと本当に思うから、

 君が、

 彼を、

 本気にさせて失望させて、終わってしまうのが、すごくイヤなんだ」

 まばらな人通りが途切れて、アンとセイルの周囲を冷たい風が取り巻いた。

        

         

「だって、ぼくよりヒューの方が好きだよ、アンさんはさ」

          

        

 脳にセイルの言葉が行き渡らない。何の事? と少年は本気で首を捻り、それなのに、息が詰まるほど胸が苦しくなって、アンは益々戸惑った。

 ついに少年の足が止まる。運よくそれは信号の少し手前で、だからセイルも足を止め、この震えの正体はバレていないと少年は安堵した。

 バレていない訳などないのに。

 俯いた色の薄い金髪の隙間から覗く耳まで真っ赤になって、それこそ頼りなく震える薄っぺらな肩だとか、しきりに瞬きを繰り返す睫だとか、硬く結ばれた唇だとかが、全てを語っているのに。

「ヒューはね、ぼくの初恋の人なんだ。本当、兄弟だったの恨むくらい好きだった。好きで好きで、泣きたくなるくらい好きで、でも、ヒューにしてみればぼくは弟でしかなくて、…ぼくにしてみればヒューは、恋人よりも大事な家族だった」

 赤信号を眺めるセイルの瞳に、懐かしいものを見るような色が浮かぶ。

「家族だったから、ヒュー以上に他の誰かを好きになりたかった。ずっとそう思ってたし、今だってそう思ってる。それがアンさんだったのは、偶然だよ? ぼくがアンさんを好きになる前に、アンさんがヒューを好きになったのが偶然だったのと同じで」

 だから何も悲しくないのだとセイルは微笑む。

「これが他の誰かだったらぼくは少しも迷わないで、その誰かからアンさんを攫うくらいの意気込みあるんだけど、ぼくさ、アイツに勝てた試しないんだよ、今まで。だからヒューに喧嘩売るような馬鹿な真似はしない。無益過ぎるしね」

 信号が赤から青に変わり、しかし俯いたきりのアンはその場を動かず、セイルも、動かない。

「…アンさんで、よかった」

 暫しの静寂。大路を走り去るフローターのヘッドライトだけが佇む横顔を撫で過ぎる様を眺めていた青年は、点滅し出した歩行者用信号からアンに向き直って、溜め息みたいに囁いた。

「ヒューを好きになってくれたのも、ぼくが好きになったのも、………。

 アンさんでよかった」

 飲み込まれた台詞に顔を上げたアンの潤んだ水色が見張られた瞬間、固く結んだ少年の唇に、ふわりと柔らかな感触。

 それが微かに身を屈めたセイルの唇だと気付いて、アンは思わず一歩後退った。

 仄かな温度。ふくよかな肌触り。それこそくちづけ本来の姿であるはずが、しかし、少年が思い浮かべたのは全く違うものだった。

 乾いた皮膚が、通り過ぎるように唇をなぞる。

 あの、指先。

「…このくらいの抜け駆けは許されるでしょ? 美しく身を引いたぼくには。あ、でも、アンさん脅かしたなんてバレたらヒューに殺され兼ねないから、内緒ね」

 最早自分の身の上に何が起こったのか認識する速度さえ極端に遅くなったアンの、呆然と見開いた水色の中でセイルは、緩やかな弧を描いた

 くちびる

 の前に人差し指をぴんと立てた。

         

        

 柔らかくて暖かい。

 多分それが、キスの正体。多分それが、憧れたもの。

 多分それが、好きという記号に色と形と温度を与えるもの。

 抽象的な曖昧を、現実的に認識させる、もの。

 それなのに。か?

 それだから。か?

 今は少しだけはにかんだように微笑む青年の唇が、戸惑う少年の唇に触れて、少年は「あの正体」に気付いた。

         

「あの日」から、酷く気になって目を逸らせないでいる手の理由。

        

 気付かなければよかった。

       

       

 少年は途方に暮れる。否。落胆する。それもまた否。絶望する? そんな重大問題ではないだろう。きっと聞いた誰もが呆れるような、どうでもいい事だ。仲間たちとわいわい騒いで夢を語るのと同じくらい、なんでもない事だ。誰かを好きになる事。誰かに好きになって貰う事。

 それは、なんでもない。悩むほどの事でもない。

 市民であるならば。

 そして、人、であったなら。

 少年はしかし、末席ながら「貴族」であり、魔導師だった。

 唇から離れて自然に下がろうとするセイルの手を無意識に目で追っていたアンの顔から、驚愕と困惑が薄れて行く。ともすればミナミというあの綺麗な青年にも似た不吉な無表情が、じっと自分の手を見つめているのに、セイルは微か眉を寄せた。

 視線を逸らされているという感覚ではなかった。単純に、手を、見られている。

「…ありがとうございます」

 刹那を隔て、さすがに笑顔はなかったものの、小さいがはっきりした声でそうセイルに告げたアンが、ぺこりと頭を下げる。伏せられた睫の向こうに煙る水色が揺れて滲んで見えるのが恥ずかしさからなのか、それとももっと違う理由からなのか、その時点でセイルには判断出来なかったけれど。

「すごく、嬉しいです」

 俯いたまま呟いて、アンはようやく淡い桜色の唇に仄かな笑みを浮かべた。

「でも、ごめんなさい」

 その言葉に含まれるのは、謝罪ではなく感謝だとセイルは思う。全てに、「ありがとう」。「嬉しい」。だから「ごめんなさい」。この少年の唇を飾るには複雑過ぎるそれに青年は当惑し、らしくなく慌てふためいて、助けを求めるかのようにきょろきょろ左右を見回す。

「ぼくも、セイルさんが好きです。…みんなと同じくらい」

 先よりはっきりした声音に、セイルはなぜか酷く驚いて、その暗い琥珀で目の前の少年を見据えた。

「…ぼくに「何が」あっても、ずっとお友達でいてくださいね…」

 一瞬、何か続けようと唇を震わせたアンが、すぐにそれを閉ざしてもう一度ぺこりと頭を下げる。ごめんなさい。今度は悔恨に掠れた声で短く言った少年にその理由を問い質す間もなく、薄闇に映える小さな顔には。

         

 いつもと変わらぬ、透明な笑顔が戻る。

        

 セイルはそれを、妙だと思った。

「まだ、なんか色々バタついてて忙しいんですけど、お休みが取れたら名画座でロングランしてる「エマーソンの生涯」をね、観に行こうって、今日のシネマ観終わってから思ったんですよ。リリス・ヘイワードが酷評されたでしょう? あの、不貞腐れた主人公。でもぼくきっと、好きだと思うんです。そういう…「リリス・ヘイワード」が」

「乱暴もので捻くれてて、ちっともかっこいいトコない汚れ役なんかリリスには似合わない、って、言われたやつ…」

「でも名画座でロングランしてるって事は、世間のリリスファンもああいうアンチヒーローみたいなリリスが好きなんじゃないんですか?」

 くす、と小さく笑って肩を竦めたアンの水色が、惚けたように佇むセイルを見つめる。

「きっとぼくは、セイルさんを思い出すんでしょうけど」

「………」

 乱暴ものというほどでもないけれど、確かに口より先に手足が出て、ちっとも素直じゃなくていつもつまらなそうに不貞腐れてて、少しもカッコイイところなんかない。

 なんと答えていいのか戸惑うセイルに、アンが続けて問う。

「メブロ・ヘイメス・クラウンの実写版をリリス・ヘイワード主演で撮るって、本当ですか?」

「…ヴィータ・イブニングの三面にデカデカ掲載された、あのスクープね…。アンさんだから教えるけど、本当だよ」

 売れないピエロが町の平和を守ろうと躍起になるのに、どうにも上手く行かない三流コミックみたいな子供番組。それを実写で再現し、更には相当滅茶苦茶なヒールにしてしまおうという、少々乱暴な娯楽作品のすっぱ抜き記事が三面トップを飾ったのは、今より少し以前の話だった。

 思わず溜め息を漏らして肩を落とした青年をまたもや小さく笑ってから、アンが虚空に光を放つ城の尖塔群を見上げる。

「あの記事が載ってから、深夜にキッズチャンネルで再放送したりしましたよね? それに、セイルさんがレスキンさんに主題歌の歌詞を訊いたって言ってたので、噂話だって事務所は否定してましたけど、もしかしたらそうなのかなって」

「レスキンと知り合って「音楽」を撮ったの、つい最近だからね。他の撮影の合間に撮り溜めて編集しただけの作品だし…。歌の事は確かに訊いたよ、レスキンに。契約するかどうか悩んでた時で、本放送をスタッフのうち五人以上観てたら契約のテーブルに着いてもいい、くらいの軽い気持ちだったのに」

「レスキンさん、主題歌どころか、内容までしっかり覚えてて言いたい放題語ったんでしょ」

 熱弁を振るうのっぽを思い出し、セイルが呆れたように苦笑する。

「その最後にね、レスキンが言ったんだ。メブロ・ヘイメス・クラウンは、最強で最高の道化だ、って。

 だから契約した。

 中途半端なムービースターじゃなくて、最強で最高の道化になりたくなったんだ、ぼく」

 アンにつられる格好で上空を見上げたセイルが、ふと顔を顰めて首を傾げる。

「ってアンさん、ゴシップ紙とかよく読むの?」

「いえ。ちょっと…、丁度その頃、某所からの情報漏洩疑惑があって、公表されちゃマズいものだったんで…ふっちゃけた話ですけど…圧力とかね、さくっと掛けて貰ったんですよ。とりあえず情報は抑えたって聞いたんですけど、確認のために、一週間くらいゴシップ紙と週刊誌流し読みしてたんです」

 さくっと圧力って…。とセイルは思わず呆れた。兄の口からこんな風に仕事の話を聞いた事はないが、色々と暗躍してる部署だというのは判っているつもりだ。けれど、ここまで日常会話だと、ちょっと驚く。

「…その頃って…」

「ぼくが衛視になって、一ヶ月半くらいだったかな」

 中空に据えられていたアンの視線が足元に落ち、唇にまた意味不明の仄かな笑みが上った。

「…すごく昔の事みたいな気がします」

 少年が、最早…少年と表すにはあまりにも複雑な表情でぽつりと呟く。

 色の薄い睫の先端で、ヘッドライトの光が弾ける。しかし澄んだ水色の瞳にはその細かな光の残滓さえ見えず、ただ酷く透明で、ただ酷く寂しそうなのに。

 幸せそうだった。

「そうだ、セイルさん。今度マニア・ストリートでパスタマシーン買って、ダルビンさんに習った生パスタご馳走しますよ」

 ね? と水色を眇めたアンが小首を傾げ、内心ますます訝りながらも、セイルが無言で頷き返す。

「それじゃ、偶然でしたけど、今日は楽しかったです。また、今度」

 流れていたヘッドライトが緩やかに停止するのと同時、アンは笑顔でそうセイルに言い残し、歩行者用信号が青になるとすぐ、クリーム色のハーフコートを翻して駆け出した。

 痩せた背中が夜に霞みながら遠ざかり、広い大路を渡り切って向かいの歩道に上がる。セイルは、城壁を背に滑るクリーム色の朧な影が閉ざされた都市の中で尚閉ざされた、壮麗で荘厳な要塞に吸い込まれて消えるまで、ずっとそこから動かなかった。

 何か、妙な感じがした。

  

   
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