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番外編-7- ステールメイト

   
         
(7)一日目 20:00

     

 そこは見慣れた場所だった。殆ど、ミナミの仕事場といってもいいほど、毎日のように顔を出す場所でもある。

 現ファイラン国王、ウォラート・ウォルステイン・ファイラン私室。私室であるからには余程親しい間柄でなければ爪先を向ける事さえ出来ない部屋だが、忠実な…とは少々言い難くとも…部下である以前に無二の友人であるミナミは、登城している限り、日に最低一度はここへ赴き、陛下の顔を辞めたウォルとささやかなお茶を楽しんでいる。

 部屋はそう広くない。薄暗く細長い廊下から質素な印象の小さなドアをくぐってすぐは、いわゆるリビングになっていた。猫足の白いテーブルを挟んで置かれた、深緑色の人工ビロードを張った安楽椅子と、精緻な刺繍を施したオフホワイトのクッションを幾つも並べた長椅子。扇のように広がった背凭れは滑らかな曲線を描き、痩せた青年の背をいつものように優しく受け止める。

 ミナミが部屋を訪ねた時、ドアの横には当然のように王下特務衛視団衛視長クラバイン・フェロウが姿勢正しく立っていた。彼は、本来なら部下のミナミを賓客でもあるかのように恭しく迎え、丁寧にもやや腰を折って長椅子を手で勧めると、自分は備え付けのサイドボードに歩み寄り手際よくお茶の支度を始めた。

 その後ろ姿を無言且つ無表情に見つめたまま、ミナミは今日も、おかしな人だとクラバインについて思う。

 そう、彼は間違いなくミナミの上官…陛下を除けば、唯一青年に「命令」する事の出来る立場に在る。しかしながらクラバインは、この綺麗な青年が登城し自らの下で働くようになっても「命令」などした試しなく、それどころか、仕事を言いつける際さえ相当本気で謝るのだ。

 すみませんが、ミナミさん。と。

 その上、陛下のお召しで青年が私室に現れようものなら、ほとんどその陛下と同じように扱う。

 当然、ミナミはそれをおかしいと思った。だから、なぜなのかと尋ねた事がある。

「俺はさ、クラバインさんから見たらただの部下なワケじゃね? 百歩譲って、ここ…ウォルんトコに遊びに来た時は確かにお客さんかもしんねぇけど、でも、俺は「陛下」でもなんでもねぇよな。なのになんでクラバインさんは、俺を「ミナミさん」て呼んで、そういう風に扱うワケ?」

 相変わらず無表情ながら本当に不思議そうに首を捻ったミナミにクラバインは、ただでさえ真面目そうな顔を益々真剣に引き締めて、「はい」ときっぱり頷いた。

「陛下の親しいご友人であるだけでも、ミナミさんは大変貴重な存在です。重ねて、あのガリュー小隊長(ミナミがクラバインにそれを尋ねた頃、ハルヴァイトはまだ電脳魔導師隊に所属していた)を唯一「黙らせる事が出来るお方」ともなれば、最早国宝級ですので」

 つうか俺は珍獣か。というのがミナミの感想だったが、青年はあえて口に出さなかった。

……今となれば、多少自覚も出るものだ。まさか全王都民に傅けとは言わないものの、平穏無事に天寿を全うしたいなら、又は末代までこの都市が安寧であって欲しいと願うなら、出来れば、自分に余計なちょっかいは出さないでくれくらいは思う。

 自身の事には全くといっていいほど興味も関心もない「アレ」が都市をひっくり返すような暴挙に出る可能性があるとしたら、それは、ミナミに危害が加えられた時だけなのだから。

 そのくせ自分は平気で手荒に扱うあたり、ハルヴァイトの行動には問題があり過ぎる。

 っていうかあれはつまり、ただのいじめっ子体質なんじゃないだろうか…。とミナミが無表情に悩んでいると、リビングの奥にある寝室に続くドアが開かれた。

「ああ、時間通りだな、アイリー。休暇中呼び出して悪かった?」

「なんでそこ疑問形なんだよ…。別に、どうせ休暇つっても屋敷でごろごろしてるだけだから、迷惑とかじゃねぇけどさ」

 奥から現れたのは、当然、この部屋の主であるウォルだった。木綿のマオカラーシャツに黒い細身のパンツと、底の浅いルームシューズ。薄い肩を滝のように流れ落ちる漆黒の髪が、颯爽とした歩みに合わせてひらりと翻る。

「お茶の支度が済んだら下がれ、クラバイン。個人的に、アイリーと話がある」

「…仰せの通りに」

 入室し、一瞬だけミナミを見つめたウォルの赤い唇を飾った、仄かな笑み。それは酷く温度が低いのに、とても美しい。

 元よりこの王は、ファイランで数少ない女性の全部と対峙させても上位に食い込めるほど美しい人だった。満天に星を散らした夜空を固めたような、艶やかで光沢のある黒い髪と、長い睫に飾られた黒い瞳。肌は肌理細やかで滑らかで瑞々しく、微笑んでいないとキツイ印象を受ける顔は、つまり、その美貌が際立っているからなのだろう。

 それに、と、彼と陛下ではない一個人、ウォルとして引き合わされ友人であり続けるミナミは思った。

 彼はある時を境に、纏う空気を凍らせてしまった。全てを斬り捨てて穏やかさに棘を含み、高潔に、ただただ神々しいまでの美貌を近寄り難い清冽な笑みで包んで、誰も、その傍へは近付かせない。

 彼は、彼に、倦んだ。

 彼は、彼に、失望した。

 しかし彼は、彼を、見限る事が出来ない。

 彼は。

 王なのだ。

 何気なく愛用の安楽椅子に近付き軽い身体をそれに預けたウォルが、改めてミナミの顔をしげしげと眺めてから、赤い唇で弧を描く。

「最近顔色がいいな、アイリー。一時はどうなるかとはらはらしたよ、本当に」

 早速靴を脱ぎ捨てて椅子の座面に足を引き上げた王がからかうように言うなり、ミナミは無表情を崩さず小さく肩を竦めた。まさかそんな、どうでもいい話し相手が欲しかった訳ではないはずのウォルの意図は、一瞬で正しく青年に伝わっている。

「ホント、俺もどうなんのかと思って、気が気じゃなかった」

「自分の事だろう?」

「いや、八割くれぇ他人事感覚だったけど?」

 そのくらい混乱していたのだと言いたいらしい青年を、ウォルが小さく笑う。

「お前、ガリューとの付き合い考え直した方がいいぞ、きっと」

「俺もそう思う。つか、ほぼ毎日思う。でもなんでか知らねぇけど、話し合うトコまで行けねぇんだよな」

「それじゃ結局今のままでいいんじゃないか。あほらしい。今度ヤツが何かしでかしたら、連帯責任でお前も投獄するから覚悟しておけよ」

 む、とわざとのように眉を吊り上げたウォルに睨まれて、ミナミは速攻視線を正面から逃がした。それで、丁度お茶を運んで来たクラバインに顔を向ける恰好になったので、「助けて、クラバインさん」と、無駄と知りつつ言ってみると、生真面目な側近がこれまたクソ真面目な顔で首を横に振る。

「大変申し訳ありませんが、ミナミさん。ここであなたの肩を持つような真似をしますとあとで陛下に蹴飛ばされますので、わたしには助けを求めないでください」

「いや、本気で答えてくれなくてもいいんだけどさ…」

 ミナミ、孤立無援? のワケなどありようもないが。

「それでは陛下、わたしはこれで失礼いたします」

「ああ。ご苦労だったな、クラバイン」

 クラバインは丁寧に淹れた天然茶葉の紅茶と、チョコレートやクッキーといった軽い菓子が幾つか綺麗に並んだ皿をテーブル置いてから、まず陛下に、それからミナミに一礼して、部屋を辞した。その後ろ姿になんとなく手を振ってからミナミが、立ち上る湯気越しに正面のウォルを見つめ直す。

「……アイリー。まず、ひとつ約束してくれる?」

「うん。何?」

「今から僕のする話は、クラバインに言わないで欲しいんだ」

 安楽椅子の座面に置いていた足を床に戻して姿勢を正したウォルの、嫌に真剣な表情をじっと見つめながら頷き返したものの、ミナミは内心盛大に首を傾げていた。

 クラバイン・フェロウといえば、陛下側近中の側近で、執事みたいに身の回りの世話まで任されているのだ。そのクラバインにも明かせない内緒話とは、一体何事なのか。

「本当なら、まずクラバインに話すべき事なんだろうけどね。ただ、これが僕の部下としてのクラバインになら真っ先に相談するべき事柄だとしても、…スレイサー道場の師範代には相談出来ないんだ」

 やっぱり。とミナミは思った。

「ヒューの失踪? と関係あんだ」

 確信的なミナミの台詞を、ウォルが頷きひとつであっさり肯定する。

「誰にも行き先を教えてないから、失踪と言われてもしょうがないな」

 何か思案するような顔ながら微かに口の端を歪め、椅子の背凭れに身体を預けたウォルが、どこから話そうか? とミナミにその黒瞳を向けて来る。

「出来りゃ、包み隠さず全部」

「僕がスレイサーを監禁した理由も?」

「うん。だから、出来れば」

 全てを、白日の下に。

 瞬きの少ないダークブルーに見据えられて、ウォルはちょっとだけ目を細めた。

「いい顔だ、アイリー。僕の期待を裏切ってくれるなよ」

「…ウォル…陛下が俺に何をどう期待してんのかなんか、判んねぇけどな、俺にはさ」

 言いながらも、ミナミは仄かな笑みさえ唇に登らせない。

 ただ、炯々と底光りする暗い瞳で、ウォルを睨むだけだ。

「僕はただ……」

 もう何もこの手から逃がしたくないと、そう思ってるだけだ。と陛下は、そこだけ「ウォル」の顔で、少し寂しそうに微笑んだ。

  

   
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