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番外編-7- ステールメイト

   
         
(8)一日目 20:24

     

「事の発端は昨日の夕方だ。丁度仕事を終えて一息入れようかと思っていた僕に、スレイサーが謁見を申し出て来た。取り次ぎのクラバインが妙な顔をしてたから、どうしたんだって尋ねたんだよ、僕。そしたらクラバインは、どんなに問い質してもスレイサーは直接僕にしか話さないって一点張りで、だから、ヤツがなんで僕との会見を望んでいるのか判らないと言っていた。

 それで僕は、何か…もしかしたらね、お前に関わる何か重要な問題でも出たのかと思ったんだよ。それにしてもクラバインにさえ打ち明けないっていうのは、どう考えても不自然なんだけど、忙しい仕事がある訳でもなかったし、構わないからここへ通せと言ってやった。

 スレイサーは、クラバインと一緒にすぐここへ来た。いつもと変わらないように見えた。でもヤツは、部屋に入るなり、人払いを申し出たんだ」

 安楽椅子の低い肘掛に軽く凭れ掛かったウォルが淡々と話すのを、ミナミは黙って聞いていた。

「当然、クラバインは難色を示した。でも、スレイサーも譲る気はないようだった。そんな膠着状態、どうしていいのか判らないからね、僕だって。何せあのふたり、僕が目の前に居るっていうのに、今にも殴り合いか何か始めそうな顔で睨み合って、お互い一歩も退きそうになかった」

「…怖ぇな、そりゃ」

「怖いよ。何せ、僕が一番最初に折れたくらいだ。

 僕はとりあえずスレイサーの話を聞いて、必要なら後から相談するつもりで、クラバインを下がらせたんだ」

 言って肩を竦めたウォルの顔を見たままのミナミが、先を促すように頷く。

「用件は、簡潔だった。元より、それ以外は何も言うつもりなかったんだろうな、スレイサーは。

 クラバインが部屋を出て、少しして、ヤツはようやく口を開いた。

 僕を真っ直ぐに見てね…、一言」

           

        

 ドアを背に佇み、安楽椅子でくつろぐ王から視線を逸らす事無く、ヒュー・スレイサーは静かに告げる。

「衛視の職を辞し、道場に戻る事をお許し願いたい」

       

        

「…それだけ?」

「うん。それだけ」

 弱々しく呟いたミナミに呆れたような声でそう返したウォルが、ふとその口唇で苦笑めいた弧を描く。

「後はもう、押しても引いてもその件に関してはガンとして言い訳さえしようとしない。余計な事にはきちんと言い返して来るくせに、じゃぁなんで今更道場に戻るなんて言い出すんだ、なんて言おうものなら、途端に口を噤んでそれっきりだ」

 本気でうんざりしているのだろう、ウォルはわざとらしく大きな溜め息を吐いてから、天井を仰いだ。

 もしここでミナミが何も知らなかったら、青年にしてもなんて唐突な話だと目を白黒させただろう。自他共に認める「仕事好き」のヒューから仕事を取ったら、後には何も残りそうにないのだから。

 しかし幸か不幸か、ミナミは「知っている」。思い当たる。

 なんだかんだで、示し合わせもしないのに息ぴったりじゃね? と内心苦笑しつつ表面で呆れ、だったら、そこまでするのなら…。

 なぜ? と思った。疑問にすらならなかった。

 彼は彼の選択に異を唱えなかっただけだ。彼は彼の強固さを誰よりよく知っているだけだ。だから彼は彼の前から完全に退場しようとし、彼は彼の冷たい優しさに報いようとした。

 黙り込んで無表情に虚空を睨んだミナミの妙な気配に、それまで天井に向けていた視線を正面に戻したウォルが首を捻る。

「どうした、アイリー」

「ウォルはさ、どうしたくて、俺を呼んだんだよ」

 ミナミのダークブルーが、ひたりと王を見据えた。

 その、暗い瞳の奥に瞬く「強さ」に、ウォルは一瞬たじろいだ。それほどまでに、なぜなのか、ミナミは苛立っている。しかし青年は理解してもいた。

 彼らの選択は、絶対に間違いだと断言出来るものではない。いいや。正直な所、彼の立場を考えるのならば最善なのかもしれない。そして彼の決心を鈍らせまいとするならば、彼が退場するのも、そう、悪しき習慣をこれ当然と押し付ける「人間ども」にとっては、当たり前の事なのだろうと。

 重ねて、しかし。

「最強最悪の天使」という異名を持ち、臨界に傅く魔導師どもからさえ「御方」と呼ばわれる青年にとってそれは、「知っている」から、まるで無駄な行為なのだ。

 攻撃に転じる大義名分が必要か? それもまた否。ミナミが望んでいるのはただしあわせになる事だ。みんながみんな、ささやかでいいからしあわせを感じ、自分の力で持続する事か。

 忘れてはならない。

 溺れるような、しあわせに。

 忘れてはならない。

 彼は。

「悪魔」を得て正常な狂気を身の内に潜ませた彼は。

 誰かのしあわせの足元で誰かが不幸になるだろう事を、正しく理解している。

「僕に、スレイサーを辞めさせる気はない、アイリー」

 いっとき怯んだものの、ウォルもしかし王だった。すぐに意識を取り戻し、睨んで来るミナミを揺ぎ無い意志を持って睨み返すなり、きっぱりと言い切ったのだ。

「辞められては困るなんて言い方じゃない。辞めさせたくないなんて消極的な意見を言ってるんでもない。僕は、アレを辞めさせない」

 だから。

「アイリー、なんとかしろ」

 王は王として、部下に命令した。

「仰せのままに、陛下」

 目礼するでもなく、一触即発の危うい緊張を保ったまま、ミナミは即答した。

「つうか、なんとかしろって、ウォルはさ、なんか俺に命令する時いっつもそうじゃね?」

 俄かに軽い口調になったミナミが無表情に小首を傾げ、ウォルも硬い表情を崩してにこりと微笑んで見せた。

「それだけ僕に信用されてるんだって、少しは喜べよ、お前」

「…あんま嬉しくねぇ」

 さも嫌そうに嘆息したミナミにウォルは、いかにも楽し気な笑いを吐き付けた。

        

        

 温くなり始めた紅茶でからからに乾いた喉を潤し、ふたりは本格的な話し合いに入った。

「でもなんで、それ、クラバインさんには話せねぇの? 元々ヒューって、クラバインさんの口利きで衛視になったんだよな」

「そうだよ、表向きはね」

 カップの縁に流れる上品な金色に唇をつけたまま、ウォルはひとつ頷いた。始めに「出来れば全部話して欲しい」とミナミに言われたからなのだろう、カップをソーサーに戻した王は、少しの逡巡もなく話し始める。

「そもそも、スレイサーが特務室に入るのにもひと悶着あったんだよ、当時。お前、スレイサー道場の教義、知ってる?」

 再度ルームシューズを脱ぎ捨てたウォルが安楽椅子の座面に足を引き上げるのを視界に納めたままのミナミも、素足に履いていたローファーから足を抜いて、長椅子に胡坐を掻いた。会話が会話でなかったら、本当にお茶を楽しんでいるだけのような妙にくつろいだ光景だ。

「良し悪しを見極めよ。半ばを捧げ、半ば自己を鍛錬せよ。己も世の理に在る」

 ミナミの完璧な記憶力であれば、一度見聞きした事だけでなく経験した感覚さえも間違ったりはしない。それこそが現在の青年を苦しめている原因ではあったが、またそれこそが、不可能を可能にした奇跡とも言えた。

「そう。当然僕は、クラバインとイエイガーが一式武術を伝承するスレイサー道場の門下生だった事を知ってた。…だった、というのはね、アイリー。ふたりは衛視に昇格する折、師範の資格を剥奪されないまでも、破門にされてスレイサー道場との縁を完全に断たれたからなんだ」

 それは初めて聞いた話だったからか、いつでも揺ぎ無いミナミの無表情が微かな驚きに彩られる。

「その教義で行くと、衛視というのはつまり「陛下」のためにだけその能力を発揮するものであって、直接的には世間から切り離されてしまうんだそうだ。だから、大師…のフォンソル・スレイサーは衛視になるなら道場を辞めろと言い、ふたりは道場を棄てて衛視になった」

 ヒューでさえ舌を巻く強さを誇るふたりを、大師はあっさりと手放したというのか。

「…でもさ、その大師の判断は間違ってねぇ気もする、俺」

「どうして?」

 どこかからかうような笑みで問われ、ミナミがちょっとだけ唸る。漠然とした考えが纏まっていないのだろうその、無表情に悩む青年が口を開くのを、ウォルは笑いながら根気よく待った。

「あの…さ。結局なんだけど、王が都市を統べるってのがこの世を…例えばこんな狭い世の中でもさ…、俺たちが住む場所を守るって意味なら、衛視はその王の命令にだけ従って働いてるようにして、世間に関わるって事になんだろ? もしもその王がさ…、昔のティング王家みてぇに私利私欲だけで成り立ってんなら話しは別だけど、間違ってもウォルはそうじゃねぇって、俺は思ってるし」

 そこで王は、さも驚いたように目を丸くして見せた。

「嬉しい事言うじゃないか、アイリー。どこか具合でも悪い?」

「悪くねぇよ…」

 わざと作った驚きの表情をすぐに華やかな笑みに切り替えたウォルが、小さく「ありがとう」と呟く。

 実のところウォルは、二十歳そこそこで師範代にまで上り詰めたふたりをなぜフォンソル・スレイサーがあっさり破門にしたのか、数年後、ヒュー・スレイサーが衛視に昇格する折に、その「からくり」をフォンソル本人から聞いていた。ならば意地悪などせずミナミに教えてやればいいものをと普通は思うだろうが、痩せても枯れても彼は王であり、ミナミに唯一命令する事の出来る人物であり、それ以上に、目の前の「天使」の全てを信頼し切っている友人だったから、この「騒動」を自らの望む通りに納めて欲しいと思えばこそ、青年にはきちんと自分の中で理解し、消化して貰わなければならないのだ。

 決してウォルはミナミを試しているのではない。

 ただ、本当に、彼を信じているだけだ。

 無言の期待に答えようというのではないだろうが、ミナミがまた少し難しい顔で口を閉ざし、何かを考え込む。感覚としては判っている。形状は今ひとつはっきりしないけれど、自分も衛視だからこそ、判る。

 そう。判る。気配。空気。感覚も然り。クラバインとレジーナが衛視になれたからこそ、ヒュー・スレイサーもまた、衛視に成ったのだろう事も。

「………。受け取り方が違うとしても、さ」

 世界は、真円に支配されている。

 ゆっくりと唇を動かして呟いたミナミは、そのダークブルーを再度ウォルの白皙にぴたりと据えた。

「道場を中心に考えんじゃねぇんだと思うんだよな、この場合は。違うか。中心なんてそんなの、そもそも存在してねぇ。

 王は民衆の作る「世界」に在る。衛視は、その王に向かって傅き、民衆には背を向けてる。でも、王は絶対に衛視を意識する事はねぇ。いや…そうじゃなくて…、上手く言えねぇけど、衛視だって「民衆」なんだから、王様はさ、ってその当の王様に言うのも変な話、結局その衛視も含めた「民衆」のために王様は働いてるワケで、だから…」

 だから? なぜ、クラバインとレジーナが道場を破門になるのか。

「王が世のために為そうとする時手足になって働く衛視ってのは結局民衆のために働くものであって、「世界」ってのをちゃんと、「それなりの形で考える」事が出来んなら、王のために師範代をふたり揃えて差し出すってのも結局、世の中に貢献するって…俺はさ、そういう風に考えてぇ…と、思う…。よ?」

「そう。つまりこの場合は中心がどこか、ではなくて、出発がどこなのかというのが問題なんだ」

 世界には始まりも終わりも中心も外れもない。

「みんながみんなアイリーみたいに物分かり良ければ、あのふたりだって道場を辞めずに済んだだろう。でも、正直、スレイサー道場は他の道場とか格闘技を見世物(ショー)にしてる連中から煙たがられてるからね。衛視なんて王様個人の機関に、教義を無視して門下生、それも師範をふたりも出すのかって、結構モメたらしい」

 苦笑交じりに頷いたウォルに、ミナミが小首を傾げて見せる。

「煙たがられてるって、なんで?」

 いや。家族全員がヒューのように立ってるだけで人目を引く上に高圧的なら人間の心情として納得しないでもないが、ミナミが資料で見たフォンソル・スレイサーだとか、実際よく知っているセイル・スレイサーだとかに関して言うならば、見た目は小さくてとてもじゃないが格闘技の専門家には見えないくらいなのだ。

 それがなぜ、他の道場…流派というべきか…から煙たがられるのか。

「強いからだよ。単純に、それだけ。知ってる? スレイサーが流派間の交流試合に出てなんとかいう棒術師範を床に叩き付けたのが、十二歳の頃だって」

 ミナミ、ちょっと唖然とした。

 武器を手にした相手にたった十二歳の子供が徒手空拳で完勝した時の会場は多分、異様な静寂に包まれていたのだろうと思う。

「それなのに大師はその話の最後で、さも面白くなさそうに言ったんだ」

            

           

 まるで小さな子供のように不満げに鼻を鳴らし、青年みたいに若々しく優しげな外見ながら、容赦なく子供たちを「落として」育てて来たのだろう男は、陛下に向かって言い放った。

「棒術師相手に二分も掛かったなんて、ボクは恥ずかしくて卒倒しそうになったものですよ、陛下」

          

         

 そういえば以前ヒューが片親を称して「人間じゃない」と言っていたなとミナミは、呆れたように肩を竦めたウォルを見つめ、思った。

  

   
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