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番外編-7- ステールメイト

   
         
(9)一日目 20:50

     

 しかしフォンソル・スレイサーは教義を逸脱する事なく、広い世の中のために大事な師範をふたりともあっさりと破門にし、彼らには教義を守り王のお傍へ行くようにと解いた。

 当然、そういった内情を熟知していたのだろうクラバインとレジーナも、大師の下した判断に異を唱えたりはしなかった。当然だ。武道界の騒動など彼らにとっては小さな囲いの中で持ち上がった瑣末ないざこざでしかなく、フォンソルはもっと広い世を統べる王…この時は先代なのだが…に身を捧げ守るものとして誇りを持てと言ったのだ。

「天秤に掛けるまでもねぇよな、そんじゃ。傍からすれば大英断っぽく見えんだろうけど、スレイサー大師にしてもクラバインさんにしてもレジーさんにしても、武道界なんか勝手に騒いでろ、自分たちは教義に従い最も世のためになる道へ進む、ってトコだったんだろ」

「そうだよ。当時の様子を間近で見た父上は、それはもう潔いというか、ほとんどコントみたいだったって言ってたけどね」

「…どんなだよ、そのコントって」

「なんでもね?」

          

          

「クラバイン、レジーナ。ちょっとこっちおいで」

 気迫の篭った掛け声があちこちに反響する道場。その、一段高くなった展覧席に座した陛下の傍らに正座していた小柄な男が、にこにこしながらクラバインとレジーナに手招きする。

「陛下は今日こそ君たちから色よい答えが欲しいと御所望。意味判る?」

「はい」

 神妙な顔で頷いたクラバインに、彼は。

「いつものように」懐いて来る猫に似た笑みを見せてから、その鼻先に指を突きつけた。

「その前にお師匠さんから一言あります」

「はい」

「お前たち、破門ね」

 で。

 その唐突さに、道場で組み手していた門下生が一瞬で動きを停めた。

 しん…。と降りる静寂。

 その時にはさすがのアイシアスでさえ、唖然としたという。

「今日までありがとうございました」

 しかしクラバインとレジーナは動じなかった。深々とフォンソルに頭を下げ、陛下に一礼し、さっさと道場から出て行ってしまった。

「さて、陛下。陛下が必要と申されるのは、スレイサー道場の師範でありますかな? でしたら、残念。ただ今この道場にはろくな師範が居りません。それに、そんな寝言を申される陛下に差し出す門下生もひとりも居りませんし」

 姿勢正しく床に正座したままのフォンソルがにこにことアイシアスを見上げて、痛烈に言う。

「付加価値が必要なのであれば、どうぞ他を当たってくださって結構です。しかしそうなれば、わたくしは大いに陛下を誤解するでしょう。強さの意味も真意も知らぬぼんくら王だと、酔った勢いで言ってしまうかもしれません」

 しかしアイシアスは、絶対に崩れないフォンソルの笑顔を恐々と見つめ、乾いた喉をごくりと鳴らした。

 笑っているはずなのに、彼を取り巻く気配は酷く冷たい。彼は王さえも試す。簡単に。付加価値が必要かと。欲しているのはなんなのかと。

 天下無双といわれるスレイサー道場の「師範」が必要なのか。

 それとも…。

「大師は厳しいねぇ」

「それは、ご容赦を」

 緊張を含ませながらも呆れたように言って立ち上がったアイシアスに、仕切り直しの笑顔を見せたフォンソルが深々と頭を下げる。

 肩書きや付加価値がなくても、資質は変わりようがない。人を「人」として評価し欲するならば、どうぞ、ふたりは破門にしました、何の問題も障害も起きないでしょうから連れて行ってくれて構いませんよと、フォンソルの笑顔が言っていた。

          

         

「直後道場を飛び出した父上は、自分の足でクラバインとイエイガーの所まで行って、正式に彼らを衛視に取り立てると告げた。二つ返事で承諾したふたりに父上は、これで道場には戻れなくなったが、未練はないのか訊いたそうだよ」

 その答えが想像出来ないのだろうミナミが首を傾げる。

「そんなものが有ると言ったら大師に半殺しにされるって、クラバインとイエイガーは揃って答えたらしいけどね」

「………」

 決断を迷うなという事か。なるほど…。

 だとすれば、呆れるくらいあっさり納得出来てしまうなと、ミナミは内心嘆息した。

「さて、父上時代の話はここまで。僕の代になって特務室の性質が変わり、ある程度その活動が活発になったところで、僕は特務室の増員をクラバインに持ち掛けた。紆余曲折あってようやくある程度の人員を確保したものの、当時僕の護衛は殆どクラバインとイエイガーが交代で行っていて、正直、大変そうに見えたんだよ。まさか肝心な時に倒れられても困るからね、僕は…相当軽い気持ちで、スレイサー道場に今使えそうな人材はいないのかって訊いたんだ、クラバインに」

 何を思い出したのか、ウォルは言ってから少し困ったように微笑み、冷えた紅茶に手を伸ばした。

「居るけれど衛視に取り立てるのは無理だろうっていうのが、クラバインの意見だった。イエイガーにも同じ質問をしたけど、あいつもクラバインと同様の答えを返して来た」

 それが…。

「そう。次の大師になるべく、初等院入学とほぼ同時期から大人相手に修行してた、スレイサーだった」

 とりあえずその人物を見たいと言い出したウォルを、クラバインは渋々道場へと連れて行く。

 その人は始め、小さな子供たちを足元に纏わり付かせて基本の型を教えていた。警備軍の一般兵士だと聞いていたが、事前に目を通した調書を見る限りでは想像も出来ないくらい穏やかな表情で、師範代というより保育士みたいだとウォルは思ったという。

「ただ、硬質だとも思った。見た目がああで、あの頃のスレイサーは随分髪を短くしてたから、余計にそう感じたのかもしれない。ちまちまと動き回る子供たちの間を歩き回って、時々手本を見せてね、手本通りに型をさらう少年たちが上手く出来れば大きな手で頭を撫でてやって、悪い所があれば、良くなるまで何度でも付き合っていた」

 それが激変したのは、中等院くらいの少年たちが乱取りに入り、酷く緊張した顔付きでスレイサーに近付いた数人が彼に手合わせを頼んだ時だっただろうか。とウォルが、笑いを含んだ声で何かを思い出すように目を眇め、呟く。

「いかにもはしっこそうな少年が六人も居た。小さな子供たちの相手を他の師範代に任せたスレイサーが輪を離れた途端、彼らは一斉に、向けられた背中に襲い掛かった。あれは卑怯じゃないのかと訊いた僕に大師は、卑怯も何もない、彼らが学ぼうとしているのは「実戦」であって、見世物ではないと答えてくれた。

 一瞬だったと思う。少年たちの姿が霞んで、スレイサーが振り返った時にはもう、殆ど全員が道場の固い床に転がってたよ」

 中等院に通うくらいの少年たちならば、余程小さな子供より大人に近いが、軽量なのは否めない。だとすれば例え相手が十人だったとしても、全く同じタイミングで攻撃を仕掛けない限り、ヒューはその全てを綺麗に弾き返すだろうとミナミも納得する。

「才能? そういうものじゃなく、そもそもスレイサーは他の門下生とは全く違ってた。今思えばあれは「志」の問題だったんだろうけど、とにかく、頭の天辺から足の先まで、全部に神経が行き渡っている綺麗さがあったし、何より、強かった」

 そこで、続いて何を見たのか、ウォルは曖昧に笑っただけでミナミに教えてはくれなかった。別にヒューの思い出話を聞きに来た訳ではないミナミも、それ以上彼に何かを訊こうともしなかったが。

「でも、クラバインはスレイサーを衛視に推挙する事を躊躇った。警備部の方では文句なしに送り出すと言って来ているのに、だ。そこで僕はようやくクラバインたちが衛視に成る折の騒動を聞き、ようやく、どうしてクラバインがそこまで渋っているのか知ったんだ」

「…クラバインさんたちと違って、大師? になるって決まってるヒューを破門には出来ねぇって、そういう事?」

「それが一つ。でも、もう一つの理由が殆どのウェイトを占めてたみたいだよ、クラバインの心情としてはね」

 もう一つ? とますます不審げな無表情で首を傾げたミナミの顔を、ウォルがちょっとからかうような目付きで覗き込む。

「性格だよ」

 ああ。と、なぜかミナミ、大いに納得。

「堅いのでもなければ生真面目でもないのに、融通が利かない。頭の回転も速いし物事を大局的に捉えてどんな非常事態にも対処出来るのに、気に喰わなければ行動しない。しかも見た目はすこぶるいいのに偉そうで高圧的と来てる。そんな衛視を抱えては、僕の評判が落ちるだろうとクラバインは言うんだ」

 そこでミナミは、なんとなく乾いた笑いを漏らした。慣れているから今更文句の一つも出はしないが、普通に考えればあの男は、非常に鼻持ちならない気に障る種類の人間なのかもしれない。

「それでもいいと僕は思ったけどね。だって別に僕は、評判のいい部下を自慢したくて特務室を引き継いだ訳じゃないんだから」

 わざとのように肩を竦めたウォルの口調に、ミナミが小さな笑みを返す。その通りだ。そうでもなければ、まさかあのハルヴァイトたちを電脳班として召し上げようなどと思いはしないだろう。

 その後ウォルはヒューを王城へ呼び出し、数度の会見を経て、彼に衛視昇格を呑ませた。しかし、それではいそうですかとヒューが衛視に成った訳ではなく、大師フォンソルの許可がなければ衛視にはなれないだろうし、そもそも自分は、衛視になっても道場を辞めるつもりはないと言ったという。

 果たして、ウォルの決断は早かった。

 クラバインではなく当事者であるヒュー・スレイサーひとりを着けてフォンソルに面会を申し出、道場の閉門を待って、夜更け、誰もいない道場の中央にフォンソルと向かい合って座り、戦いを挑んだのだ。

 お前たちの望む「志」を見せる。だから、それが本当に納得出来るものであったならば、彼を僕に預けよ、と。

 クラバイン破門の真相を明かされた、というよりは、真相を暴かされたのもその時だった。世の在り方を考えたのも、その時だったように王は思う。身じろぎひとつせずに白熱した空気だけを纏い、繰り出される難問に毅然と答えるウォルの姿を、後日フォンソル・スレイサーは「旧大陸伝説の映像化で最高峰と言われている「マナ・ムーン」に登場し、始祖の王を逃がすためにその身を呈して戦い最後に壮絶な討ち死にを遂げる「ヴァリキリエ」よりも美しかった」と称したものだ。

 ちなみにそれは、戦いの女神らしいが…。

「その時の事を思い出すと今でも冷や汗が出るよ。どうしてそこまでしてスレイサーにこだわったのかも、今となっては不思議でしょうがないしね。でも、僕の選択は間違ってなかった。…イエイガーが衛視を辞め、お前が現れて衛視になり、それから…色々あったけれど、スレイサーが居なかったら膠着したままだっただろう事も多かったと思う。

 そしてね、アイリー。ここからがお前を呼び出した本題だ。

 僕は、スレイサーの働きに満足している。満足して、信頼するからこそ、一年後には新設されるだろうルニ専属の護衛部の全権を、スレイサーに委ねるつもりでいる」

 長い前置きが終わったのだろう、言ってウォルは、底光りする黒瞳(こくとう)で正面のミナミを睨んだ。

「…ルニ様の護衛に関しては、全部をヒューに任せるって事?」

「うん、そう。護衛部の編成も人選も、全てね」

「でもそれじゃ、ホントにさ、ヒューが道場戻れなくなんじゃね?」

「僕は、スレイサー道場の教義に反するような事をしているつもりはない、アイリー」

 ウォルは、一切の迷いさえ窺わせない真っ直ぐな双眸でミナミを見つめていた。

「ルニは正真正銘、この「世」の護り手だ」

 漂う浮遊都市を漂わせるための女王となるべく少女。

 ミナミも頷く。

「いっこだけ、言っといていい?」

 しかしミナミはそこで、彼らしからぬ少し戸惑うような顔をした。

「ウォルの希望は、判った。俺も、最大限の努力はするつもり。

 ただし…。

 ヒューを引き止められるかどうかは、正直、今の段階じゃ俺にも判んねぇよ?」

「………」

 言われて、一瞬ウォルが押し黙る。

 王にしても判ってはいた。いかに彼がミナミを信用して「命令」したとしても最終決定を下すのは結局ヒュー本人であって、ミナミに出来るのは、その決定を限りなく陛下の望む方向へ近付ける事だけだというのを。

「でもさ。俺は、「こんな形」でヒューに辞めて欲しくねぇって、思ってる」

 その言い方に不審そうな顔をしたウォルが先を促すよう首を傾げたが、ミナミは黙って頭(かぶり)を振り、それ以上の言葉を拒んだ。

「知っている」から、今は詳しく話せない。

 しかしミナミは「知っている」から…、全てを「知った」から、もしそれを自分が解決出来るのだとしたら。

            

         

 停められた。関わってはいけないのだと言われた。

 恋人は、全てを見通す最凶最悪の悪魔。

          

        

 暫しの沈黙を挟んで、ウォルは小さく顎を引いた。

「お前の努力が僕の満足出来るものであれば、その時は諦めよう。僕は確かにスレイサーを手元に置きたいと切に望んではいるけれど、彼に「志」を捻じ曲げて我慢して欲しいと思ってる訳じゃない」

 その、嘘偽りない真摯な表情と口調に、ミナミが首を捻る。

「それなのに辞めさせねぇって…ちょっとおかしくね?」

 ウォルの言葉を額面通りに受け取るならば、道場に戻るというヒューの意見を呑んでもおかしくないのではないか、とミナミは思ったのだが。

 しかしウォルはそれを否定するように、きっぱり「おかしくない」と言い放った。

「衛視に召し上げる際、僕は難色を示すクラバインを無視してスレイサーとひとつだけ約束してたんだ。僕が衛視を交換条件付きで取り立てるなんて異例中の異例だから誰にも話していないし、こんな屈辱的な事でもなければ、お前にだって話すつもりなかったけどね。

 その約束は、僕は独裁者ではないし、そうなるつもりもない。例えば払う犠牲が自身であるなら、民衆のために喜んでこの身を捧げる覚悟もある。でも、もし、僕の行いがスレイサーの守る教義に反すると判断した時は、道場に戻ってくれて構わない、というもの」

 安楽椅子の座面に片足を載せた気安い姿勢でありながらも毅然としたウォルの言葉を、ミナミは正しく理解する。

 その、観察者のダークブルーは、全てを、見透かす。

 王は、ご立腹のようだ、と。

「ウォルに非はねぇのに、道場戻るなんて言われたの、気に入らねぇんだ」

「そう。だから僕はなんとしても、スレイサーを辞めさせる訳には行かないと思った」

 王はきっと、その理由を知らないとしても、気付いたのだろう。

「僕は、アレに見限られるような真似は絶対にしてない」

 その「志」を捻じ曲げようとしているのは、他でもないヒュー・スレイサー自身だという事に。

 ミナミはそこで、睨んで来るウォルにあの…氷菓子のように溶けそうなふわりとした笑みを見せた。

「…………」

 知っていても思わず見惚れてしまう綺麗な微笑み。瞬きも忘れて見入ったウォルにミナミが、少しいたずらっぽい口調で「あのさ」と言いつつ、床に散らかしていたローファーを爪先に引っ掛けて引き寄せる。

「きっとヒューはこんな言い訳しねぇだろうから代わりに俺が言っとくけど、ヒューだって教義に反した? 事はしてねぇと思う。ただ、柄にもなく、さ、冷静に物事が判断出来なくなってるのか、逆に、冷静過ぎて周りしか見えてねぇかの、どっちかだ」

 奇妙なミナミの言い分に、ウォルは不審げな顔をした。

「まるで逆じゃないか、それじゃ」

「なのに、結果が一緒になんだよな、この場合」

「意味が判らない、アイリー」

「…ごめん、詳しい事はいつか説明する。それで…」

 並べた靴に足を突っ込んだミナミが、ちょっと困ったように眉を寄せて苦笑を漏らしながら立ち上がり、ウォルも慌てて安楽椅子から腰を浮かせた。彼は話が纏まったのだからとミナミをヒューの元に案内しようとしたのだが、なぜか青年は、それは後回しだと王に告げたのだ。

「俺に相談したって、ヒューには黙っててくんね?」

「それは別に…構わないけど?」

「それまでさ」

 裸足のまま毛足の長い絨毯を踏んで安楽椅子を離れたウォルが、退室しようとするミナミの後を追って来る。その時王が何か言いたげな、非常に不思議そうな顔をしていたのを少々申し訳ないと思いつつも、ミナミは余計な事を言わなかったけれど。

「俺が会うまで、ヒューの居場所、クラバインさんにも黙ったままにしてて」

「誰にも会わせるなって事?」

「うん。それから、ヒューに特務室の事も一切知らせねぇでくれると、結構助かる」

 情報を遮断する。

 即座に行動する。

 あの、完全無欠を誇る格闘家を相手にするなら、先手必勝どころか、手足も口も出せない状態でなければ、到底勝ち目はない。

           

          

 これが知れたら、恋人は青年を咎めるのだろうか。

          

          

 素っ気無くも「じゃね」とひらひら手を振ったミナミが部屋を辞して、暫し、不審顔のクラバインが私室へ戻って来る。ドアの前に呆然と佇むウォルに一礼して入室し、手際よくお茶の支度を片付ける側近の背中に視線を馳せて、王はひとつ短い溜め息を吐いた。

「何かしてくれるのは非常に有り難いし、どうにかしろって命令した手前余計な文句も言えないけど、出来れば、僕には何か言って置いて欲しいな。だって、僕はこう見えても王様なんだよ?」

 有能だがとんだ部下ばかりだと思いながらウォルは、新しいお茶をクラバインに催促するため室内に向き直った。

  

   
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