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番外編-7- ステールメイト |
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(10)二日目 05:11 | |||
無理に眠ろうとしていたのをついに諦めた少年がその痩せた身体をベッドの上に起こしたのは、天蓋の向こうがようやく白み始めたばかりの早朝だった。 捲り上げた淡い黄色のベッドカバーに細い手を投げ出し、ヘッドボードに背中を預けて、ぼんやり天井を見上げる。 正直な所少年…王下特務衛視団電脳班魔導師アン・ルー・ダイには、昨日という日がどこへ行ってしまったのか判らなかった。眠ってはいなかったと思う。目は、開いていた。意識があったかどうかは、定かでなかったけれど。 アンは、瞬きもせずにじっと見上げていた天井にひとつ短い溜め息を吐き付けてから、のろりと、酷く緩慢な仕草で視線を水平に戻した。目を凝らしてようやく室内が朧に見て取れるという闇に閉ざされたまま、少年は虚空をぼんやりと眺めている。 一昨日…色んな事があった。本当に、たった半日で色々有り過ぎて、脳の処理能力が追いついていないなと、少し笑った。 ちゃんと笑えているのかどうか自信はなかったにしても、アンは、ここは笑っておくべきだと思う。 「…………」 そうやって、いつもの調子を取り戻したフリをして悪足掻きしながら、だらだらと時間を消費する。ろくに「残っていない」時間だと判っていたけれど、有効に使う方法も思い浮かばなかった。 色んな、事が、あった。 でも、もう何も思い出す必要などなく、自分だけを黙らせて周囲を裏切らず、波風だらけの人生に慣れ切った顔をしていれば良かったはずなのに。少年は虚空に視線を投げたまま、またひとつ疲れたように、吐き出すように笑ってみた。 「…怖いなぁ、ミナミさんて…」 思わず漏れた自分の呟きに、アンが今度こそ本物の苦笑をその愛らしい面に浮かべる。 アンが兄、セリス・ルー・ダイにキャロン・ヒス・ゴッヘルを屋敷に招待してくれるよう連絡したのは、一昨日の夜だった。その直前に何があり、どうして急に…それこそ深夜に近い時間、叱責覚悟で自宅に連絡する気になったのか、アンはあえて考えない。ただ彼には、一刻も早くクリアにしなければならない事柄があっただけだ。 少年の予想に反して、兄は彼からの電信に快く応じた。元気でやっているか。つまらない失敗などして同僚に迷惑を掛けていないか。ハルヴァイトやドレイクの言う事をよく利いているか…。まるで小さな子供でも諭すように、上辺だけの笑顔で上機嫌に話すセリスを見つめ、アンは「はい、兄上」と一度だけ答えた。 そっとしておいてくれたらずっと元気でやっていけたと思います。つまらない失敗で迷惑そうにしてくれるような同僚や上官などおりません。班長や副長が何か言い出すのを待っていたらクビにされてしまいます。 答える代わりに、「はい、兄上」と一度だけ。 早口で忙しなく喋るセリスの息継ぎを狙って、アンは「お願いがあります」と簡潔に言った。別に兄が嫌いになった訳ではなかったが、今日だけは、相手が誰でも長く顔を合わせているのが億劫だった。 キャロンを屋敷に招待して欲しいと告げたアンの顔を、小さなモニターの向こうから覗き込んで来る兄は、面長で、癖のある金髪を短く整えていて、薄い飴色の目をしていて…。幾つになってもどこか少女のように愛らしい彼らの母と似たアン少年とは纏う空気さえ似ても似付かぬ、陰気な表情の男だった。 アンは、詳しく理由を言わなかったと思う。 セリスも、訊かなかったと思う。 ただ、仕事の性質上先方の都合に合わせる事は出来ないのでと、休暇日を教えた。 兄から、ヒス・ゴッヘル家との約束を取り付けたとの連絡を受けたのは、翌日の朝だった。 きっとどちらも待ち構えていたのだろう。ヒス・ゴッヘル家が指定して来たのは、アンの休暇最終日、つまり、明日の昼食を挟んでという事だった。その時、メリルを呼んでおこうとセリスは益々の上機嫌で話したが、アンは、魔導師隊のシフト如何では自由に下城出来ないだろうから、無理に呼ばなくてもいいと答えた。 兄との通信を切り、どこかぼんやりしたままベッドに座って居た所に、ドレイクから安否(?)の確認が舞い込む。昨日は遅くまで仕事がどうとか言われて、なんとなく生返事などしていたら、不意に沈んだ声で名前を呼ばれた。
「おめーどっか具合でも悪ぃのか? つうかな。俺ぁおめーじゃねぇんだから、言ってくれなきゃ判んねぇんだぜ? そういう時ぁよ。 いいか? 忘れんな。忘れたら百回でも二百回でも言ってやるけどな。 出来る事は自分でやれとは確かに言ったけどよ、俺もハルも。ただし、辛ぇ時に誰も頼んななんて冷てぇ事ぁ、一度だって言ってねぇ」
真白い眉を吊り上げて睨んで来る曇天の双眸を見つめ、少年は思った。 なぜこうも、兄と上官たちは違うのだろう。家柄と才能に恵まれて育ったから、ではない。上辺だけのそういうものを無理矢理与えられて、しかし、それに屈する事なく自らを見失なわずにいられるのは、彼らが正しく自分を把握し、正しく自分を受け入れてくれる「大切なもの」をちゃんと持っているからだ。 例えば、差し出された手を自ら振り払っても。 例えば、その手を自由に握り返せなくても。 彼らは、「ひとり」として「ひとり」を愛したし、その「ひとり」のために全てを愛せる。 諭されて、疲れ気味で少々だるいのだと弱った笑みを浮かべた少年に、ドレイクはならば今日は休んでも構わないとあっさり言って来た。どうせロクな仕事がある訳でもないし、今のうちにゆっくり休んでおけという上官の温情に、今日ばかりは甘えさせて貰う事にする。 それから少年は、日が暮れるまでぼんやりとベッドに腰を下ろし、時折ころりと転がったり、もそりと起き上がったりしながら、一日を過ごした。 何もしたくなかった。 ずっと考えていた。 終わりと、始まり。 迷っていたのだと思う。 小さ過ぎる自分が情けなくて、泣きたくなった。 しかし。 だが、しかし。 無意識のうちにうな垂れて、ベッドに放り出していた手を身体の前で固く組み合わせたアンは、藍色の闇を睫の先端に纏い付かせたまま、ふ、と桜色の唇を綻ばせた。 天使は赦さない。凶悪なしあわせを振り翳す天使は、人間の愚行を見逃さない。 あのふたりの、どちらが天使でどちらが悪魔か判ったものじゃないと、本当に可笑しくなる。 組んでいた手を解いてブランケットを剥ぎ、裸足の爪先を床に下ろす。どうせ眠れそうにない。ならば最初からそんなものは諦めて、シャワーでも浴びてすっきりしよう。それから、溜まっていたムービーでも観て、だらだらして、半日くらい掛けて手の込んだディナーを作ろう。 どうでもいい日常を、望む。 濃い青色の闇を突っ切りリビングを過ぎて、バスルームへ入る。手にしていたタオルと一緒に、無造作に脱ぎ捨てたナイトウェアを足元の籠に放り込んで、乱れた金髪を軽く手で梳く。 アンはそこで、自分の細い腕に視線を流した。 薄い掌。華奢な骨格。子供みたいに足りない筋肉で覆われた手足は酷く頼りなく、最早二十歳になろうというのに身体は少年のままだと、苦笑が浮かぶ。 広げた掌を顔の前に翳して二・三度ひらひら裏返したりしながら眺める。綺麗に切り揃えられた桜色の爪を握り込むようにして作った拳を鏡に向け、ゆっくり開く。 小さくて、弱々しい手だ。 何も掴めていない。 でも少年はいつだって。 掴めないと知っていながら。 それを伸ばす事は諦めなかった。 「必死だったなぁ。と、今になってみれば、思うんだよね」 笑ってしまうほど、必死だった。 腕を下ろすと、鏡の中の自分と目が合った。灯りのないバスルーム。淡く浮かぶ色の薄い金髪に、蒼褪めた白い肌。その薄い胴体を締め上げる幅三センチばかりのラインは…。 もしも、誰かそのラインを読み解ける者が見たのなら、きっと首を捻っただろう。それは本当にただのラインで、太い一本が痩せた腹部、やや鳩尾寄りを水平に走っている。正面に枝はなく、その他、本来ならば上腕や太腿などに多く見られる環状の斑紋も見当たらなかった。 臨界占有率表示(プライマリ・テスト・パターン)。素肌に焼きついた固体情報(パーソナル・スペック)とも言える文様は、魔導師の抱える重要機密事項であり、翻訳し解析する事でその魔導師の全てを暴き出すものだったから、それこそ、素肌を晒すような関係の恋人か家族以外には見せたがらないのが常なのだ。 だから、魔導師であっても記述方式が何種類あるのか、どういった言語で表記されているのか詳しい事は判らない。 ハルヴァイトやドレイク、グラン、ローエンス、スーシェなども、相当複雑な模様が多数身体に刻まれている。従って、行数というのが、占有率、イコール能力に直接関わるのだという事くらいは、アンも知っていた そう思うなら、少年の身体に浮いた能力表示はあまりにも単純であまりにも少ない。正面から見て、一本。実際は背の部分に、背骨に沿って太さ五センチ長さ二十センチほどのラインが垂直に一本と、水平のラインを挟んで左右の腰の辺りにかなり短い垂直なものが一本ずつの合計四本と、本当に、魔導機を扱うとしたらぎりぎりでしかなかった。 しかし、繰り返す。 それは、酷く変わった色と形状をしている。 刷毛でくっきりと刷いたようなライン。白い肌に溶けそうな明るいクリーム色を、淡く発光する純白が縁取っているそれは、ともすれば、「何もないように」見えた。 相変わらず中途半端な刻印だよ。と溜め息混じりに鏡の中の自分をひと睨みしてから、アンはバスルームに入った。灯りを点けようかどうか一瞬迷ったが、淡い闇に白いバスタブとシャワーヘッドがぼうと浮かんでいるのが見えたから、手探りでもいいやとすぐに思い直す。 冷え切った壁を指で探ってシャワーコックを見つけ、きゅ、と小さく悲鳴を上げたそれを軽く捻ると、頭上から注ぐのは冷たい水。全身が総毛立つような飛沫に身を竦ませて固く目を閉じたアンはしかし、皮膚を舐める細やかな流れをただ受け止めた。 頭と身体と…心が冷える。 流れる時間から取り残された室内で一日を見送ったアンの元をミナミが尋ねたのは、昨晩、夜も更けてからだった。突然の来訪と失礼をいつもと同じ無表情で謝った青年は、勧められたソファに腰を下ろしてすぐ、あっさりとこう言って退ける。 ヒュー・スレイサーは、特務室を辞めるつもりでいる。と。 一瞬ぎくりと背筋を凍らせて、それから呆然とミナミを見つめた、アン。その反応を気にした風もなく、天使は話し続けた。
「でも、さ。陛下は辞めさせねぇって、そう言ってて、お互い一歩も譲らなくて、今ヒューは特務室じゃ失踪扱いだけど、ホントは陛下がどっかに軟禁してるらしいんだよな。それがどこかは俺も知らねぇ。クラバインさんも知らねぇ。もちろんあの人たちだって何も知らねぇ。 それと、ヒューが急にそんな事言い出した理由だって、誰も、知らねぇんだ」
彼は、どんなに陛下が問い詰めても、絶対に答えようとはしないのだそうだ。 しかしミナミはそこでアンに、「そんなものはどうでもいい」と言い置く。
「ぶっちゃけた話し、俺も陛下も、ただ我侭に、ヒューに辞めて欲しくねぇって思ってるだけなんだよ、結局。俺たちは俺たちの「理由」をヒューに押し付けて、だから辞めるな、ってさ、言ってるだけ」
少し呆れたように肩を竦めたミナミにアンはそこで、なぜ自分にわざわざそれを言いに来たのかと尋ねた。 問われた青年は、あの観察者のダークブルーで少年を見据え、重々しくも恭しく、「うん」、とひとつ頷く。
「特務室じゃちょっとした騒ぎになってんだよ、ヒューの失踪って。それをアンくんが知らねぇのは不自然だと思ったから、言いに来た」
居心地悪い視線に晒されたアンが、戸惑うように何度も瞬きする。確かに、どうして誰も連絡してくれなかったのだろうかと思う。せめて、ヒューが登城していないのだが、部屋にいないか? くらいの確認はあってもおかしくないだろうに。 では、なぜ? 混乱した。 だが、実際は。 城内、しかも特務室から衛視が一人忽然と姿を消すという極めて不名誉な事象を、あのクラバインが、例え同じ特務室に詰める衛視にであっても「部外」に漏らす訳がない。その日の朝にはまだ方針が決まっていなかったにせよ(何せ、クラバインにしても寝耳に水だったのだし)、どうやら陛下が口を割らないと諦めたのだろう室長は、昼までには特務室に徹底した緘口令を敷き、特別官舎にさえ「仕事で暫く不在にする」と通達させたくらいだった。 だから、あれから…登城していないアンが知らないのは当然で、しかしミナミはそれを「不自然」だと言った。 不安を、煽る。 「……、で、さ…。 俺が今からする話は、ホントに、ヒューにもアンくんにも関係ねぇ臨界の性質みたいな事なんだけどさ、アンくん、黙って最後まで聞いててくんねぇ?」 ミナミを見つめる水色の双眸が、また戸惑いに揺れる。青年が部屋を訪ねて来た意図が全く判らないのだろうアンは、ただ大きな目を瞠ったまま、操られるようにこくりと頷いただけだった。 「臨界ってのは、折り重なった階層の連続で構築されてるモンでさ…」 と、ミナミは。 あの無表情で。 冷たいくらい綺麗な面を全く動かさず。 聞いていたアンの水色がますます見開かれ、閉ざされていた桜色の唇が驚愕に震えるようなとんでもない事を、まるで、魔導師たちが脳内に呼び出した「記録」をすらすらと述べるように淀みなく、きっぱりと、少年に…突き付けた。 「…あれは…ないよなぁ、本当」 ただでさえアン少年の思う「世界」はハルヴァイト一連の暴挙(……)ですっかりひっくり返っていたのに、ミナミの明かして行った「法則」は、ひっくり返った世界をもう一度ひっくり返してついでに三回捻るくらいの威力があった。と、アンは思う。 最早「世界」は原型を留めないと言った方がいいだろう。 常識ってなんだろうと首を捻ったのも確かだし、目の前のミナミにそう質問もした。 返った答えがまるでハルヴァイトそっくりだったのに、少年は思い切り脱力したけれど。
「常識? 違うよ、アンくん。今まであったのは常識じゃなくさ、ただの、何も「知らねぇ人間」の思い込み」
固く閉じていた瞼を上げ、冷たいシャワーを止める。すっかり冷え切った身体の表面が粟立ち、アンは細い金髪の先端から透明な雫を散らして震えた。 なぜ「それ」を自分に話したりしたのかアンがミナミに尋ねると、金色とダークブルーに彩られた青年は、短い答えを残し、帰って行った。
「俺は、みんなしあわせだったらいいなって、思っただけ」
言い当てられた気がした。 もし、今、しあわせかと問われたら、少年はきっと「不幸だとは思わない」と答えただろう。そこで「しあわせ」だと即答出来ない事に苦笑を漏らしても、訂正しないだろうし。 冷たいタイルよりも冷えた額を壁に押し付けた少年の晒した細い首筋に、濡れた色の薄い金髪がひたりと貼り付く。 なんとなく。 あの日、襟足に掛かる髪の先端に触れたあのひとの指先を、思い出した。
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