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番外編-7- ステールメイト

   
         
(12)二日目 16:07

     

 室内を言い知れない緊張が締め上げる。

 恐怖というほど明らかで、はっきりした感覚ではない。目の前に正体の知れない極めて危険なものがある逼迫した危機感というのが、今彼の全身をがんじがらめにしている空気の名前かもしれなかった。

 彼、電脳魔導師隊第九小隊メリル・ルー・ダイ事務官は、その時、初めて「彼」を目の当たりにして、そう感じた。

「彼」。王下特務衛視団電脳班班長、ハルヴァイト・ガリューは。

 おかしな時間に一言もなくふらりと執務室に現れて、驚愕に凍り付いた隊員どもに笑みひとつ向けず部屋を突っ切って勝手に小隊長室のドアを開け放つなり、首だけをくるりと回して、メリルにだけ…微笑みかけたのだ。

「メリル事務官に、少々お話が」

 言って、その癖メリルの応答も反応も確かめずさっさと小隊長室に消えた、漆黒の背中。それで、どうしていいのか判らずうろたえる青年の細い腕を取って無理矢理立たせたのは、あの手のかかる小隊長と組んでいる、副長のベッカー・ラドだった。

「行くんだよ、お前も。いいか? あのひとは煩い事なんか言わない。でも、必要な事もろくろく言わない。まさか部下と同じに扱われはしないだろうけど、何か訊かれたら簡潔に答えろ。多分、それだけでこの場は切り抜けられる」

 早口で言うベッカーに連行され、小隊長室のドアの前に放り出されてもまだ、メリルは目を白黒させていた。この場は切り抜けられる? それは、どういう事なのか。

 不安げに振り返ったメリルの心情を慮(おもんぱか)りつつ、しかし、ベッカーを含む執務室に残った同僚たちは、無情にも、「さっさと行け!」な空気全開でしっしっと手を振り、色の薄い同僚を…見捨てた。

 多分、あの笑顔はマズイだろうと思ったのだ、彼らは。

 追い払われて逃げる先もなく、諦めてメリルはドアをノックした。中からの応えは、今にも泣きそうに弱々しいイムデ・ナイ・ゴッヘル小隊長の声。それに慌ててドアを押し開ければ、小隊長は執務机の向こうに隠れて恐々応接セットとメリルを見比べており、客人は。

「こちらにどうぞ、メリル事務官」

 まるでこの部屋の主でもあるかのように横柄に足を組み、片方の肘をソファの背凭れに預けてもう一方の手で自分の正面を示したまま、にこりと…。

 恐ろしく冷たく、微笑んだ。

 多分、その瞬間の全身に走った怖気を、メリルは一生忘れないだろう。

 もしも身体に鱗があったとしたら、全てが刹那で逆立つような感覚。冗談抜きで表皮がちかちかと痺れ、薄い肩がびくりと跳ねた。

 そして現在、メリルはハルヴァイトの真正面に小さくなって座り、彼の鉛色から注がれる居心地の悪い視線に耐えている。

 メリルを呼び出しておきながら、ハルヴァイトは何を言うでもなかった。ただ、タイミングを計るかのようにゆっくり瞬きし、呼吸し、すっかり萎縮したメリルをじっと眺めているばかりだ。

 痩せて、色が白くて、線の細い青年。ハルヴァイトの部下であり彼の弟であるアンとは、少しだけ色合いが似ているかもしれないが、やはり纏う空気が全く違う。雰囲気とでも言おうか。

 ハルヴァイトはそこでちょっと首を捻った。空気。そういえば、アン少年と最初に顔を合わせたのは、この建物の一階上、第七小隊の小隊長室だったと思い出す。あの時の少年も確か、今のメリルのように酷く緊張していたはずなのだが、何か…妙な感じがする。

 決定的な、違い。

 そうか。と、悪魔は、微かに頬を緩ませた。

「明日は、屋敷へお帰りに?」

 背凭れに預けていた腕を下ろしたハルヴァイトが、緩慢な仕草で両の指を軽く組み、膝の上に載せる。それが話をする体勢だと思ったのか、はたまた、非常に意外で唐突な質問に驚いたのか、メリルはそれまで自分の膝に据えたままだった視線を振り上げ、正面で穏やかに微笑んだ悪魔の顔を凝視した。

 俄かに趣の変わった、その笑みは。

「……あの…。あ、はい。明日は丁度、休日で…」

「そうですか」

 会話と呼べるほど上等ではない。しかし、悪魔には、それで十分だった。

 にもかかわらずこんな事を言い出したのは、ただの気紛れか。だとしたら大した進歩だと、自分の事なのにまるで他人事のように考えながら、ハルヴァイトは言葉を続ける。

 白い小さな顔を緊張に引き攣らせて、やや蒼味がかった紫の瞳を見開いたメリルから視線を外さずに、彼は続けた。

 彼の悪魔が。

「初めて会った時、アンもあなたと同じように酷く緊張してましたよ。ただ、一度もわたしから目を逸らしませんでしたけど」

 思い出話を。

「小さくて弱いのに、他の魔導師でさえ目を合わせようとしないわたしを、じっと見てました。こう…顎を上げてね」

 言いながらわざと顎を上げて見せたハルヴァイトが、言葉の最後を先より明らかな笑みで締め括る。単純に、ハルヴァイトは背が高くアンは小さいのだから、ソファに座っていたとしても、目を合わせようとするなら顎が上がるのは当たり前だと思うのだが。

「それからずっと、泣かされても叱られても、アンはわたしに話しかける時、必ず顎を上げて、目を逸らさずにいました」

 肝心な時には、必ず。

「俯いたままのアンと話をしたのは、今日が始めてじゃないでしょうか」

 メリルは悪魔の一言で、ぎくりと背筋を凍らせた。

 言いたい事はそれでお終いだったのだろうハルヴァイトの方は、硬直した青年を置き去りにしてさっさとソファから腰を浮かせ、デスクに隠れて唖然としているイムデ少年に「お邪魔しました」と告げて、これまた勝手に退室してしまう。一体あのひとは何をしに来たんだろう、と悪魔の思い出話など聞かされて頭が真っ白になっていたイムデ少年がようやく考えた頃、全く動きのないこちら側を心配したのだろうベッカーが、小隊長室に顔を出した。

「? とりあえず、無事かな?」

「あ……う…うん…。ぶ…無事……」

 ごそごそとデスクの陰から這い出してきたイムデ少年に苦笑を向けたベッカーが、ソファの中で凍り付いたままのメリルに視線を流した、瞬間。

「小隊長!」

 色の薄い、気の弱そうな青年が、何事か一大決心を固めた険しい表情を上官に向けた。

「な…、なに?!」

 びくう! と大袈裟に震える少年魔導師。

「私用でゴッヘル小隊長のところへ行きたいのですが、ええ、そりゃもう是非! いいですか?」

「………お前、言語がおかしいぞ…」

 メリルがこんな風に力強く意見を述べる姿など初めて見たのだろうベッカーが、ぽかんとしながらも、突っ込む。

 しかし上官、ナイ・ゴッヘル小隊長には、メリルの意図が読めた。

「いいよ。…す、スゥには、ぼくから、ま…メリルが行く…って、電信、しておく」

「ありがとうございます」

 言うなりぺこりと頭を下げたメリルが青い長上着を翻し、ドアの横に退けて進路を開けてくれたベッカーに会釈しつつ、その目前を通り過ぎる。

 痩せた背中が遠ざかって行くのを唖然と見送っていたベッカーの耳をイムデ少年の小さな声が打つなり、彼は大きなデスクに不釣合いな、自らの相棒を振り向いていた。

「あの…、スゥのところに、今、…め…メリルが行くから、それで…、話を、聞いてあげて」

 少年は常と同じに酷く拙く、突っかかりながらも必死になって、端末の向こうに居るのだろうスーシェに話している。

「だ…ダイ魔導師は、協力を、こと…断ったんだよ。メリルが…、ルー・ダイ魔導師に、…その…、何かして見せなくちゃ、ダメなんだって。

 それと、今…」

 ハルヴァイトがメリルに会いに現れて、意味の判らない話をしてすぐに帰ってしまった。という事を、イムデ少年は必要以上の時間を費やしてスーシェに伝えた。

 ようやくスーシェとの電信を切断したらしいイムデ少年がほっと息を吐くのを待って、ベッカー・ラドが、「なぁ」と気安く相棒に呼びかける。

「な…なに? ベッカー」

「メリルってさ、ああいう顔すると、アンにちょっと似てるよな」

 その意味が判らなかったのだろうイムデ小隊長は、きょとんとベッカーの顔を見上げた。

「おれ、今始めて、あのふたりが兄弟だったんだって思い出したよ」

 何が可笑しいのか、ベッカーが言いながらにやにやと笑う。

「瞳(め)に力が入ってると、似てる」

 ここ、とでも言うように自分の目の横を指差した副長の顔を見つめ、イムデ少年もおどおどと頷いた。

 いつもどこか遠慮したような、戸惑っているような印象の、弱々しい光りの蒼味がかった紫の瞳。それに力を込め、何か成すのだと決めたメリルの表情と纏う空気は、確かに、あの色の薄い少年に似ているかもしれない。

「うん…似てると…思う」

 言って、イムデ・ナイ・ゴッヘル少年は、気付いた。

 ハルヴァイトがメリルに何を言ったのか、唐突に。

「が…ガリュー班長…は、がんばってるひとが、好きなんだね」

 硬いながらもどこか嬉しそうに笑んだイムデ少年の顔を眺め、ベッカーが苦い忍び笑いを漏らす。

 いやぁ。そこまで友好的に捉えるには、今までの暴挙が暴挙だと思うんだけどねぇ。とまで、言いはしなかったけれど。

  

   
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