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番外編-7- ステールメイト |
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(21)三日目 14:12 | |||
見送りに出ようとしたアンを手で制したハルヴァイトがさっさと部屋を出、上品な飴色のドアが静かに閉ざされると、室内は先までと全く違う種類の重苦しい空気に沈んだ。 事実を。 容赦のない、事実。 ハルヴァイトの言う通りならば、ルー・ダイ家、ヒス・ゴッヘル家には共に、百年以上先まで魔導師は誕生しない。 結果的に、生きている間は魔導師系貴族になどなれる訳もないと完全にその思惑を否定されたベラフォンヌと、次代魔導師を切望していたのだろうセリスの表情は漂白したかのように色褪せ、逆に、アン少年の意にそぐわぬ結婚を押し付けようとしていた長兄と対立姿勢を見せていたメリルの顔は、どこか和らいでいる。 「…………」 でも、これ、ぼくにどうしろっていうんだ…。とアンは、しきりに少年を窺ってくる父親に曖昧な笑みを見せてから、はあと息を吐いた。 お手上げ。 「ガリュー衛視は勤務中だったのか、もしかして」 それでなんとなく、本当になんとなく少年が大きな水色を旋回させた先、最早何か取り繕う(……)必要がなくなったのだろうキャロンが、ソファの肘掛に頬杖を突いて、やたら気安くアンに話しかけて来た。 「そうです」 軽く肩を竦めて答えた少年の顔を、明るい空色の目で見つめていたキャロンが、ふと、その唇で弧を描く。 「あなたは、お幸せだ」 「………」 「若様」 どんな理由でそんな台詞が出たのか判らず、きょとんと目を瞠るアンの顔を見つめたままで、キャロンがスーシェを呼ぶ。 「もしわたしが本意でない結婚を勧められて母に抵抗せず、しかしその結婚に不満をもっていたと判っても、きっと若様はわたしを助けてくださらないのだろうな」 どうでもいい事のようにさらりと言われて、スーシェが苦笑いする。 キャロンは、そういう女性だった。キツイ性格と思えなくもないが、在る意味裏表もなく腹にぐずぐずと陰気を溜め込まない気質は、慣れてしまえば付き合い易い。 「別にわたしは若様を責めているのではない」 キャロンはそこで、ようやく視線をアンからスーシェに移した。 「これまでの母の非礼を許して欲しいと言いたいのでもない」 肘掛に置いていた手を膝に戻した彼女は、しんと静まり返った室内を真っ直ぐに見据え、それから、堂々とこう言い放った。 「今回の件について、アン様の誠実な態度に礼を述べるとしても、ルー・ダイ家に対して謝罪するつもりはない。かといって被害者面する気も毛頭ない。 母はわたしにこの婚約を押し付け、わたしの意見に耳を貸さなかった。 ルー・ダイ家ではアン様の本心を確かめなかった。 わたしは、どうせ通らないだろう自分の意見を母に理解して貰おうとしなかった。 アン様は、最後の最後までご自分の考えを仰らず今日に至った。 だから、全てが悪い」 自分も、他人も、皆が悪いとキャロンは断言する。 「そう思うからこそ、若様に…お助け願いたい」 太陽の在る明るい空色の双眸が、スーシェを捉えた。 「この場の問題を円満に解決する知恵を、お貸し頂けないだろうか」 言われたスーシェが、短い溜め息を漏らす。 「本当に、キャロンはそういう無茶を平気で言うよね…。公表されていないまでも貴族院ではすっかり噂になってるんだろう? ルー・ダイ家とヒス・ゴッヘル家の姻戚話しは。しかも、マイクス…ダイ家側は今ここで何が起こっているのか知らない訳だし、婚約解消についてあれこれ詮索はして来ないだろうけど、だからといって、適当な口から出任せを言ってはぐらかし、それと違う理由が外部から聞こえるのは都合悪い。 大体、婚約解消に至る理由に、外部に漏れちゃいけない重大な問題が含まれてる」 それをどう黙殺し、世間を黙らせるか。 「ついでに言うなら、出来れば今後アン様にいらぬ結婚話が持ち上がらないようにもして頂きたいのだが、若様」 キャロンは微かに笑みを含んだ、柔らかい声で付け足した。 何せ少年には。 「わたしは、アン様には今以上に幸せになって欲しいと思っている」 好きな人が居る。 「……。キャロンのそういう、緻密に計算してるのか全部正真正銘本気で天然なのか判らない無茶を聞くと、ある人を思い出すよ…」 それが誰とも言わないままスーシェは眉間に皺を寄せ、組んだ足の上に手を置いて、再度深い息を吐いた。 「まぁ、キャロンのお願いを断る理由はないからね、少し考えさせてくれる?」 「日没までにはどうにかしてださるのだろうな」 「…努力目標程度には掲げるよ」 「それなら皆様?」 と、ここで、それまでただじっと事の成り行きを見守っていたミリエッタが、胸の前に手を組み合わせ、ふわりと立ち上がったではないか。 まさかこの、おっとりした母に何か名案でもあるのかと、アンとメリルが顔を見合わせる。 「お食事になさいません? 栄養の不足は脳の働きを鈍らせるのですから」 ……………。 物凄くいい事を思いついたような笑顔を振り撒いたミリエッタを、いかにも対照的な暗い表情で見上げる、ベラフォンヌ。 「こんな時こそ、美味しいものを頂いて幸せな気持ちになりましょう? 在り得ない未来にいつまでも固執していても始まりませんもの。不謹慎かもしれませんけれど、私ね」 ミリエッタはそこで、ふくよかな笑顔を否応なく撒き散らしながら、うふふ、と少女のような可憐な声を漏らした。 「なんだか嬉しいわ。これでもう、誰も、見知らぬ世界からやって来る運命にびくびくしなくていいんですから」 臨界という見知らぬ世界が与えて来るだろう重責に。 「キャロン様も、アンも、セリスもメリルも、ゴッヘル卿も、みんな幸せになるといいわね」 小首を傾げて微笑んだミリエッタを見つめ、アンは思った。 もしかしたら、次代に魔導師は「ない」と断定されて一番喜んでいるのは、母なのではないかと。
ルー・ダイ家の広間は、柔らかなオレンジ色のカーテンで飾られた大窓から前庭の見渡せる、明るい場所だった。淡い枯葉色の絨毯に描かれた大振りな百合の花はクリーム色で、真っ白なレースのクロスが掛けられた円卓が眩しいくらい清潔に感じられる。 そのテーブルの中央に置かれた水盆には、シダ類らしい緑の葉、黄色と水色と淡いピンクの小さな花たちが飾られていた。 気落ちしたというよりも、魂の抜けてしまったようなベラフォンヌとセリスを無理矢理座席に押し込んだミリエッタは、自らソマスと共に忙しくくるくると立ち回っていた。それが彼女なりの気遣いなのだろう、余計な事は言わないのだが、絶えず笑顔を見せてはキャロンに話しかけ、メリルに話しかけ、アンに問いかけた。 最初の、ふかふかと柔らかな深緑色のスープがテーブルに出されるとミリエッタが、それは自分が作ったのだとどこかしら自慢げに言った。 暫くの間、スーシェは黙って室内を眺めていた。少女のようなミリエッタ。無口で大人しそうなレバロ。果たして彼らになんの責任もなくこの厄介な事態を収められるのかどうか甚だ不安だなと思っていると、不意に、それまでろくに口を開かなかったルー・ダイ家当主の視線が、ひたりと彼の頭上に据わった。 「ゴッヘル卿」 「? はい、何か?」 「ひとつご提案があるのですが、わたくしのお話を聞いていただけますかな?」 思いつめたというか、もしかしたら何かすっきりしたような顔のレバロに内心訝しさを感じつつ、スーシェは彼の話を頷いて促した。 「今回の件について、全て自分に任せよと言うセリスを信じ口出ししなかったわたくしには、親としての責任があります。ですので、キャロン様、ゴッヘル卿のご好意にだけ縋り世間に対して言い訳するのは、フェアではないとわたくしは考えます」 今まで黙っていたから最後まで責任がないのではない。レバロは、黙っていた責任を取るというのだ。 「この婚約はアンの我侭で一方的に破棄を宣言され、丁度この場にいらしたゴッヘル卿の仲立ちによる和議で解決したという方向で、口裏を合わせるのが妥当かと」 レバロのきっぱりした言い方にしかし、難色を示したのは当事者であるキャロンだった。 「待たれよ、ルー・ダイ卿。それではアン様の立場が悪くなる」 「なるかな? アン」 一瞬キャロンに向けられたレバロの視線が水平に動き、アン少年を捉える。 「一時的にはなると思いますが、あくまでもそれは無関係な第三者だけの話であって、実際ぼくの周囲で何か不都合が起こるとは思えないですね」 思わず溜め息混じりになった、少年の答え。 「…よく考えれば、アン君に不都合が起こる訳ないか…。特務室や魔導師隊あたりでは、「黒幕」直々に動いたのを知ってる連中が随分居るしね。ねぇ? メリル事務官」 言われてメリルは、ようやく、昨日ハルヴァイトがおかしな時間に自分を訪ねて来た理由が判った気がした。 ハルヴァイト・ガリュー…アンの上官が、それまで一度も声すら掛けた事のないメリル…アンの兄に、「昨日」というタイミングで会いに来たのは。 ここに居る誰も知らない事実を含めるならば、ハルヴァイトはアン少年からの電信を受け取ったというフラグをわざとジリアンに残し、更にはそのジリアンを通じてデリラにスーシェの勤務状況を確かめ、その後、メリルに面会している。 その全てには目撃者が居る。ハルヴァイトでない誰かから、「彼が何やら意味不明の行動に出た」という証言を取れるくらい確実に、あの悪魔は足跡を残していないか? そして、ハルヴァイトが退場してすぐメリルがスーシェに接触し、同時にスーシェはマイクスを執務室に呼んでいる。 それで、今日。 スーシェは、もしかしてこれは自分の想像を絶する珍事なのではないかと思った。 あのハルヴァイトが。 懇切丁寧に自分が「何かした」という事実をあちこちに残して行動するなど、前代未聞だ! 「ルー・ダイ卿の誠実な意見にぼくも賛成だよ。貴族会で憶測塗れの良くない噂は出るかもしれないけど、そんなものはすぐに沈静化する。何せ、貴族会にも大勢魔導師隊からの参加者は居るからね。余計な事は言わなくても、そんな噂鼻で笑われるのがオチだ」 「そういうものか?」 まだ何か信用出来ないらしいキャロンに、スーシェはちょっと困ったように笑って見せる。 「ガリューを知っている者なら、彼が「何を考えて行動したのか」なんて、考えないんだよ。無駄だからね」 「無駄?」 今度は不審そうに変わったキャロンの表情を、スーシェとアンは苦笑いで受け取った。 多分、これが普通の反応だと思う。人間の取る行動には理由と目的があり、ハルヴァイトも例外ではない。しかし、彼の「理由と目的」はとんでもなく複雑であり、蓋を開けてみれば呆れるほど単純かもしれないのだ。全ては方程式。必ず解答に到達する。 「ガリューを正しく理解していいのはミナミさんだけで、それが出来るのもミナミさんだけ。それはね、「テーブル」と「カップ」の間にある「絶対法則」みたいなもの。ぼくらには判らないルールの上に成り立ってる」 規律は、太陽が必ず同じ方向から昇るように、月が必ず同じ方向へ沈むように、そう決まっているものなのだ。 「…その、「ミナミさん」というのは誰なんだ? 若様。先ほどから頻繁に名前を聞くが」 不思議顔で小首を傾げたキャロンに、スーシェは渋いとも苦いともつかない、酷く曖昧な笑みを見せた。 「判り易く言うなら、ガリューの恋人。でも、…本当は…」
あれは、天使。最強最悪の。しあわせに取り憑かれ、悪魔を得て、正常に、まっとうに、狂っている。 「誰」でもない。「何」でもない。あれは、ミナミ・アイリー。
凄く綺麗で怖い人ですよ、とアン少年は、スーシェとは別の少し弱った笑みの浮いた口元で、キャロンに教えた。 「とりあえず、ガリューが何かしら暗躍して、結果、「アン君の我侭でルー・ダイ家が一方的に婚約を破棄した」という話が出ても、誰もそれを本当に「アン君の我侭」だとは思わない」 自分で言って、スーシェは唐突に納得した。 「後はみなさんでご自由にどうぞ…か。なるほど、ガリューにしては随分気の利いた退場の挨拶だと思ったけど、あれは別に挨拶なんかじゃなかったんだな」 係わり合いあるもないも一緒くたに提示されたそれは部品(パーツ)。それらをどう組み合わせて使っても、使わなくても、「ご自由にどうぞ」と言い置いて行っただけなのだ、ハルヴァイトは。 ぶつぶつと口の中で何事かを繰り返してから、スーシェが顔を上げる。 「ルー・ダイ卿の提案を採用するに当たり、ひとつだけ確認させて頂きたいのですが、よろしいですか?」 色の薄い優しげな双眸で緊張したレバロを見つめたスーシェに、当代ルー・ダイ卿が頷き返す。 「表向き、全ての責任はアンくんに取らせる、という形で構いませんね?」 全て了解しながら。 「はい」 レバロは、しっかりとスーシェを見つめ、頷いた。
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