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番外編-8- 平和的同時多発恋愛事件

   
         
(6)ジリアン・ホーネット

     

「っていうかもしかして、ルードとタマリさんて付き合ってたりするんですか?」

        

        

 なんとなく、だ。

 最早仕事に戻る気力も無く、ヒューは自分のデスクに頬杖を突いた状態で、ぱたぱたとキーを叩き続けながら唐突に投げかけられた質問に、なんとなく、答えた。

「付き合ってない、多分」

 多分というワリにはきっぱり返った答えを訝しんだのだろう質問者、ジリアンの手が停まる。

「ルードが一方的に「好きだ」という行動を取ってるだけで」

 ただでさえダルい午後のデスクワークを急襲した第七小隊のちび台風は、ルードリッヒ出動を確認してから残った紅茶を飲み干し、且つ、自らカップを洗ってきちんと片付け、丁重にごちそうさまを言い置いて去って行った。それを見てヒューは、余程あの少年の肝が据わっていて少々の物事には動じないのか、はたまた第七小隊年長組及びミラキ邸の執事たちの教育がいいのか、元よりマイペースなのかと二秒ほど悩んでから、余分な記憶をデリートするのと同様に脳内からその悩みを消し去る。

 最近働き過ぎで疲れが取れないのか、もう、そんな事はどうでもいいような気がした。

「うわぁ、ルードのくせに片思いとか、在り得ない」

 ヒューの返答を受け取って顔を顰めたジリアンは、キーから手を離して腕組みし、右側に位置するヒューに向き直った。

「とか思いません? 班長」

 暇な訳ではないのだろうが、こちらも働き過ぎで集中力を欠き始めているのか、黒縁眼鏡の部下が薄笑いを浮かべて小首を傾げる。確かに、ルードリッヒと「片思い」という単語との釣り合いは悪いが、そこまで率直に似合わないと言ってしまうには、ヒューは少々知り過ぎていた。

 タマリ・タマリという、枯れ行く笑みで全てを覆った魔導師の抱える内情。

 端正で冷たい面に微かな笑みだけを載せて何の答えも返さないヒューの横顔を暫し見つめ、ジリアンはふっと短い息を吐いた。それは果たして溜め息だったのか。それとも、肺に溜まった苦い空気を一気に吐き切っただけなのか、実際は本人にも判らなかったが。

「…別に、ボクは班長が「事なかれ主義」だなんて思ってないんですけど…。班長、自分以外の人間を評価するの、苦手ですよね」

 責めているでもなく、愚痴でもなく。さらりと漏れた部下の台詞に、ヒューがサファイヤ色の瞳だけを動かし問うような視線を送って来る。

「基準のはっきりしたもの、例えば格闘訓練だとか警護班の護衛訓練だとかの時は平気で、凄く厳しい事ぽんぽん言うくせに、今みたいにその「人」を自分の価値観に当て嵌めようとか、そういう風にはしませんよね。って意味です」

「――俺の常識が世間の常識でない事だってあるし、下手な固定観念は思わぬ勘違いや誤解を生むものだから、不用意に自分の意見に固執してはならないと教えられた。…でも実は俺だってハラの中には色々抱えてるし、周囲の噂を全く無視して自分の見聞きしたものだけを事実として受け止められるほど聖人君子じゃないからな、ある意味、お前の思うのとは違う方向で「事なかれ主義」なのかもしれない」

 滅多に自分の内側など口にしないヒューが、平素の偉そうさなど微塵も感じられない口調で淡々と答えて来たのに、正直、ジリアンは眼鏡の奥の目を瞠って驚いた。でも、どんな形であれ目の前の銀色が「事なかれ主義」だというのだけは否定したい。

 波風立てたくない人間は、もっと世間に優しくというか、びくびくというか、気弱にというか、とにかく、そういう風に接するでしょう!? とかちょっと思う。

「それに、俺が他人にとやかく言っていいのは「殴り合い」に関する事柄だけで、それ以外は、俺がとやかく言われる方だろうしな」

 両方の肘でデスクを突き放した銀色が、軽い口調で言い足した。

「それは、ご自分でも判ってらっしゃるんですね…」

 安堵にも似た吐息と共に呟いたジリアンの横顔に、ヒューの視線が突き刺さる。その、微妙な剣を含んだ気配に内心震え上がりつつも青年は、指先で黒縁眼鏡を押し上げてから、涼しい顔を保ってまたもや傍らを振り向いた。

「それで、話しは変わるんですけど」

「唐突だな」

「…ぼくにしてみれば、別に唐突ってワケでもないんですが…」

 苦笑もなくさらりと続けたジリアンの、黒と見紛う灰色の双眸がきらりと光る。

「この前の班長失踪事件と、アンさんの婚約破棄って、何か関係あるんですか?」

 青年が言って、瞬間、銀色の口元が微かに引き攣れた。

 刹那で浮いて消えた、意味不明の笑み。

「どうしてそう思う?」

「―――時期が一緒だったんで…」

「偶然だよ」

「偶然ですか」

「ああ、偶然」

 逸れない視界の中、ジリアンに向けられていたサファイヤがゆったりと旋回し、正面に戻る。正体の知れない端正な横顔を少しの間見つめていた青年は、諦めたように息を吐いてから、ほったらかしの資料整理に戻るべくモニターに視線を転じた。

「…偶然…か…」

 ふとそこで青年の唇から漏れた、独り言。問うような空気を傍らのヒューから感じたジリアンが、眼鏡の奥の目を眇めて薄く笑う。

「関係ないって、言わないんですね」

 キーボードに置かれた指先が滑らかに動き、作業再開。かたかたと停滞なく続く軽い音を耳にして、ヒューはなんとなく肩を竦めた。

「以前エスト・ガン魔導師に言われた事がある。秘密なんて茶番で人生を棒に振るのはやめろとな。一生嘘を吐き通すつもりなら今すぐ墓に入るといいとも、魔導師隊のナンバー2は仰られたよ」

 だから、ではないが。

「墓まで持って行く自信のない嘘は、最初から言わない事にしてる」

 ヒューの口元を飾る、含み笑い。

 ジリアンも、少し笑う。

「班長にしちゃ素直ですね、薄気味悪い」

 悪びれた風もなく付け足された失礼な台詞。おまけに、みっつも若い部下に素直などと言われて当然嬉しい訳もなく、ヒューは俄かに作った渋い顔を不承不承モニターに戻し、作業を再開しようとした。

 もしそれが自分だけに関わる事柄ならばこの銀色は、吐いた嘘を墓まででも地獄まででも持って行くだろう。しかし、今回ばかりはそうも行かない。潔くもきっぱり、「好きな人が居る」と告白して婚約を蹴ったあの少年の健やかさを守ろうとするならば、ヒューは嘘など言ってはならないのだ。

 なんだかおかしな責任の取り方だなと思いながらも、ヒューは待機させていた調書を再度展開しようとして、「一般警備部第二十一連隊」という文字列にマウスのカーソルを当てた。

「………」

 刹那、サファイヤの瞳に過ぎる、苦笑にも似た光。

 果たして自分は何をしたいのか…。何を、しなければならないのか。ヒューは呆れ気味に息を吐き、一定のリズムでキーを叩き続けているジリアンに視線を流した。

「ところで、ジル。お前、以前はカイン・ナヴィ連隊長の部下だったよな?」

 唐突な質問に、ジリアンの手が停まる。

「…ええ、まぁ」

 なぜか、必要以上に冷たい表情でモニターを睨んだジリアンが、これまたなぜか、必要以上に沈んだ声の答えを返して来た。それがおかしな反応だと内心首を捻るも、ヒューは予定通り言葉を続けた。

「今日中に、何か、用事ないか?」

「は? …って、カイン連隊長にですか!」

 速攻で四十五度旋回した暗い灰色の瞳に睨まれても、銀色は動じた風もなく「そうだ」と素っ気無く答える。

「具体的に言うなら、16:00から18:00の間」

 具体的にというくらいだから問題ないのかもしれないが、いかにも限定的な時間を指定されて、ジリアンはちょっと考え込むような顔をした。しかしヒューはそれを、自分の質問の真意を確かめようとしているのではないと、なんとなく、思う。

 なんとなく、だ。

「判りました、作ります」

 それまで俯いて顎に手を当てていたジリアンが、どうでもいい事をつらつら考えていたヒューに視線を戻してにこりと微笑む。

「忙しいなら無理して考えてくれなくてもいい。最終手段としては、電脳班のひめさま…」

「いいえ! 大丈夫です! 作れます! っていうかですね、班長!」

 椅子を回して身体全体でヒューに向き直ったジリアンは、その勢いに気圧されて思わず引いたヒューの耳を摘んで引っ張り寄せると、声を潜めてこう囁いた。

           

「ここんトコ忙しくてデートする暇もなかったんですから、その役目、ひめさまに回すなんて冷たい事言わないでくださいよ?」

          

 前のめりに倒れそうになって慌ててデスクにしがみ付いていたヒューが、摘んでいた耳を開放されるなり、青い目だけを動かして傍らの…部下の顔を窺う。

 今、何か、重大な発言がなかっただろうか?

 その、当惑ともなんともつかない視線に晒されたジリアンは、口元で緩やかな孤を描いてから、ぴんと立てた人差し指を緩んだ唇の前に翳した。

 内緒ね(はあと)。

 直後、ヒューは「ああ…そう」と妙な答えを返し、そのまま、ばたりとデスクに突っ伏して、重く、疲れた溜め息を吐き出した。

  

   
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