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番外編-8- 平和的同時多発恋愛事件 |
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(19)アン・ルー・ダイ | |||
しあわせなというか、少々複雑な気分でアン少年とヒューがステラのオフィスを出たのは、難しい顔の来訪者と少し言葉を交わした後だった。 ヒューが「今は多くを語れない」と前置きして、再度、お互いここで顔を会わせた事は内密にと申し出ると、女スレイサーと陰で囁かれている女医の元・婚約者はアンの予想通り、自分たちばかりが秘密をひけらかして口止めし、こちらの事情はにやにやと眺めているつもりかとかなんとか、いつにも増して…だと少年は思った…口数多く懇々と説教をくれたが、ハルヴァイトの次くらいにそういうものが内面に届き難い銀色は、にやにやと眺めるような用事でいらっしゃったのかそれは失礼、とあっさり、且つなんの誠意もなく謝罪し、冷え切った空気を発散し合う二人を呆気に取られて見ていたアンの腕を取って、とっととソファを離れた。 二人がオフィスを辞す、間際、ぐったりと疲れ切った顔で見送りに出て来てくれたステラは、彼女らしからぬ覇気のなさでアンに微笑みかけ、ヒューの向こう脛をハイヒールの爪先で思い切り蹴飛ばそうとしたが、逆に軽く挙げた踵の内側で容易く蹴り返され、忌々しげに唸ったものだ。 それで少年は、寄りによってヒューを同行させてしまった自分の不手際を必死になって謝るハメになった。 「―――いや、アンくんに…責任はない」 色の薄い金髪が低頭したのに、閉じたオフィスのドアに背中を預けて寄りかかったステラが、少し弱ったように苦笑する。 「ギブ・アンド・テイクというか…、フィフティフィフティだとすれば、君の人選は適切だったと――思うほかないだろうな」 今ここで、それぞれに秘密は一つずつ。だから、それぞれその時が来るまで口を閉ざし、優劣はない。 「問題は、そこの格闘技バカの態度だ、態度」 わざとのように眉を吊り上げたステラが、素知らぬふりのヒューに指を突き付ける。 しかし少年は、なんとなく思った。 銀色は、見たままを見た通り受け容れる。現時点でヒューとアンにはなぜステラの元婚約者が突如彼女を訪ねたのか、予想は出来ているが、「そうだ」と訊いた訳ではない。 だから、彼はいつもと変わらない。ただ、明らかな秘密を共有しようと持ちかけただけだ。 当然、旧知のステラもなんだかんだと言いつつその辺りは心得ているのだろう、彼女は刹那で剣呑な表情を崩し、ちょっと弱ったように眉を寄せて微笑んだアンの白い頬に短いキスをくれ、それから、そっぽを向いているヒューの銀髪を引き寄せて、薄笑みの頬にも親愛の唇で触れた。 「またおいで、アン君。今度はわたしが、美味しいお菓子をご馳走する」 白衣のポケットに片手を突っ込んで、空いた手を軽く振り朗らかに微笑むステラに、アン少年は黙って丁寧に頭を下げた。 こちらは儀礼的な挨拶もなくさっさと歩き出したヒューを追って、少年が身を翻す。 静か過ぎて怖いくらいの廊下。一時歩を緩め、襟を短いボアで飾ったデニムのショートジャケットと黒い細身のパンツ、足首まで隠すブレーンなショートブーツというラフな出で立ちのアンが小走りに近付いて来るのを待ってから、ヒューはなぜか小さく溜め息を吐いて、ガンメタ色のコートのポケットに手を突っ込んだ。 「? どうかしたんですか?」 ふと、薄暗がりの蟠る天井に流れたサファイヤ。アン少年は小首を傾げて、ヒューの横顔を見上げた。 「…ガリューが彼をこっち(王城エリア)に呼び戻したと聞いて、何かあるとは思ったが…」 ヒューの心持ち渋い表情の意味が判らないのだろう少年が、ますます不思議そうな顔をする。 「彼には、両親の勧める新しい結婚相手が居るんだよ」 なんだか面倒そうに言ったヒューは、天井に向けていた視線を足元に落とし、ポケットから出した手でぞんざいに銀髪を掻き回した。いかに特務室といえども完全に性質の違う電脳班に属するアンは知らなかったが、貴族同士の婚姻、姻戚関係にも目を光らせている手前、そういう…ヒューにしてみれば下世話な…話題も逐一彼らの耳に入って来る。 「まぁ、口外無用で話が付いてる以上、俺がどうこう言えるものでもないからな。ステラとの件が露見した上で両家が貴族会ないし陛下に直訴でもしなければ、俺たちは関わるべきじゃない」 自分でも意外なほど冷静にアンは、そうだったのかと思った。消えた魔導師。新しい婚約者。傷物の芸術品…。「自分に嘘を吐くべきではない」という言葉をステラは自分のために言ったのかもしれないが、結果、嘘を放棄したのは彼の方だったのか。 「ドクター・ノーキアスは、…待ってたんでしょうか」 二歩ほど先を歩くヒューの背中を見つめ、アンが呟く。ダーク系のシャツにガンメタ色のロングコート、擦り切れたジーンズの裾からワークブーツの踵が覗いていた。 それから、銀色。 「待ってはいなかったと思う。直接訊いた事がある訳じゃないから確信はないにせよ、ステラは、彼が「戻って来る」と期待はしてなかっただろうな」 今まで何人がこんな風にこの人の背中を眺めたのかと、アン少年は思った。ありきたりに。当たり前に。不思議になった。 アンとヒュー以外は誰も存在していないかのような静寂に沈む、長い廊下。 「ドクターは、どうしてぼくを目撃者に選んだんですか?」 元婚約者があの時間にステラを訪ねるのは事前に判っていた。では、なぜ、その時間に彼女はアンを呼び寄せておこうと思ったのか。 「…俺はステラじゃないから、判らないよ」 ヒューが肩を竦めるのを後ろから見つめていたアンのジャケットの懐で、かさり、と薄い封筒が身じろぐ。 「でも君は、何も告げずに去ってしまった元婚約者の真意…ステラの想像しなかったもう一つの可能性を提示してしまった。それで彼女が、新しい婚約者と仲良くどうぞと言いそびれたのは確かだな」 「お別れを、言いに来たのかもしれませんよ?」 噛み付いて来るでもないがどこかしら冷えたアンの声と台詞に、ヒューはふと足を停めた。 振り返る、サファイヤ。 翻る、銀色。 翳された、白い、封筒。 「全ての人が、やり直しを求めてるんじゃないって、判ってるつもりです、ぼくも」 「………」 やや離れた位置に佇むアンの差し出す、薄い紫色で抽象的な花の模様が描かれた封筒を目細めて見遣り、ヒューは首を捻った。 「昨日、ヒューさんに渡してくださいって、看護師の方から預かりました。ちゃんと、読んであげてください。ドクター・ノーキアスのように、何も決められずに待ち続けなくちゃならないのは…、辛いと思います」 気持ちの行き先が見つからないまま放り出され、待っているとも、待っていないとも言えずに日々を暮らすのは。 「ドクターは、今日、自分に決着を着けるつもりだったんじゃないでしょうか」 立ち止まったヒューとの間合いを詰めるように、アンの爪先が床を滑る。懐に飛び込むのでもなく、急所を一突きするでもなく、無防備に佇む銀色の胸元に白い封筒を押し付けて。 す、と、引く。 反射的に、シャツの胸の辺りでかさりと鳴った封筒を掌で押さえたヒューは、瞬きもせずにアン少年の小さな顔を見ていた。大きな水色を縁取る睫が瞬き、冬空の青が薄闇を透かすサファイヤを捉える。 「先、帰ってますね」 少年は戸惑うでもなくにこりと微笑んでそう言い残すと、呆然とするヒューの脇を擦り抜けて、いつもと同じようにぱたぱたした軽い足音を廊下の暗がりに残し行ってしまった。最早口を開く気力もなく、不愉快な表情さえ浮かべる暇なく、ある意味一方的に言いたい事だけ言ってさっさと逃げた少年に怒りを感じる刹那さえ許されなかった銀色は、二呼吸ほど惚けてからようやく、うんざりと肩を落として天井を仰いだ。 全く持ってあの少年は「立派」だと、ヒューは思う。今回はちょっと呆れたが。 「さすがは電脳班の魔導師殿だと思っておくか? そうすれば、立つハラも立たない」 忌々しげに呟きつつ胸元にあった封書を顔の前に翳して、ヒューはもう一度盛大に溜め息を吐いた。 なんとなく、色んな意味でからかわれているんじゃないだろうかと、本気で心配になった。
想像よりも沢山の人が働いているはずなのに妙に人気のない夜の医療院をするりと抜け出したアンは、前庭にぽつりぽつりと佇む常夜灯が地面に穿つ滲んだ白い円を縫うようにして、ゆっくりと歩いた。 恋愛にか、誰かを好きになる事なのか、誰かに好きでいて貰う事なのかに憧れた頃もあったなと思い出し、誘導の白線が弱々しく輝く地面を見つめたまま、口元を綻ばせる。今だってそういうものに憧れていない訳ではないけれど、その「憧れ」の性質が変わってしまったような気がした。 「………」 無意識に俯いていたアンは、閉ざされた通用門が地面に焼き付けた影に気付いて顔を上げた。全てにおいて視野が狭くなる「気持ち」に閉じ篭るのは簡単だろうが、少年は、そういうものに囚われる自分の弱さが大嫌いなのだ。 世間に対して傍若無人に振る舞う、アンを囲む「彼ら」は誰も、俯いて歩いたりしない。どんな非道な目に遭っても、どんなに非難されようとも、彼ら…魔導師と呼ばれる彼ら、それから、あの天使…は、戸惑っても不安になっても泣きたくなっても哀しくても、世界の在り様を見極める事だけは放棄しないと言わんばかりに、顔を上げて前に進もうとする。 果たしてそれが「強さ」なのかどうか少年には判らなかったが、そういう諦めの悪さは見習いたいと思った。 彼らは、ただ存在しているのではない。 彼らは、「生きて」いる。 医療院を囲む生垣に埋まった通用門を抜けて、少年は上級居住区外苑の遊歩道に出た。大きな屋敷が集まる中心部に比べて小さめの邸宅が犇めいているこの辺りは、敷地の隙間を縫うように遊歩道が走っている。 屋敷の門を暗闇にぼうと浮かび上がらせる、淡い光の群れ。それから、遊歩道沿いに等間隔で並んだ常夜灯。植え込みの向こうに見える窓たちは柔らかな光に満ち、暖かな団欒を抱えているのだろうか。 何か少し寂しい気分になった少年は短く息を吐いてから、先より少しだけ歩調を速めた。一般居住区に下りるエレベータまで、ここから徒歩で二十分はかかる。 まだ深夜でもあるまいに、いつにも増して人通りのない遊歩道をゆるゆると歩きながら、少年は暗く翳った上空を見上げた。点在する街の灯りが邪魔をして、星はひとつも見えなかったが。 あの銀色は、ちゃんと手紙を読んだだろうか。 あの青年のしたためた想いは、ちゃんと伝わっただろうか。 「………」 正直、バカな事をしたと思わなくもない…けれど。 上空に投げていた視線を水平に戻して色の薄い金髪を軽くかきあげ、意味もなく苦笑してみる、アン。ハチヤの言う通りかもしれないと判っているけれど、あの青年の必死さを見てしまっては断わり切れないだろうと自分に言い聞かせる。 恋愛に憧れた頃もあった。 一方的に誰かを好きだと思った事もある。 現実は…。 「色々、難しいよ」 ふと漏らし、滑稽な自分を笑っておくべきかどうか少年が迷った、刹那。 「何がだ?」 突如背後から声をかけられたアンは、びくりと肩を跳ね上げ振り返った。 「……ヒューさん?」 「なんだ」 そうだらだら時間をかけたつもりはないのに、普通に歩いて来たらしいヒューがもう少年に追い着いている。では余程この男の足が速いのか、…長いのか…、アンはいたずらを見咎められた猫みたいに背中を丸めて目を瞠り、どこか不機嫌そうな顔で近付いて来た銀色の顔を見つめた。 別に急いだ訳でもないのだろうヒューは息一つ乱さずガンメタ色のコートを翻してアンに並ぶと、小首を傾げて少年を見下ろした。無造作に垂らされた両腕の先、指の長い手に何も握られていないのを訝しむアンの視線に、軽く首を竦める。 「――返して来た」 種も仕掛けもありません、と観客に告げる手品師のように両手を広げ軽く持ち上げて見せたヒューが、さっさと歩き出す。それを慌てて追いかけ小走りになったアンは、揺れる銀髪から目を逸らさずに口を開いた。 「返して来たって…、本人にですか?」 「あれを、他の誰に返せと言うんだ、君は」 確かにその通りなのだろうがと思わず渋い顔をしたアンをちらりと見下ろしたヒューが、わざとのように溜め息を吐く。 高い確率の偶然でウイニー・メイスン看護師が医療院で勤務していただろう事は、アンにだって予想は出来る。過去付き合っていたくらいなのだから彼の勤務部署をヒューが知っていてもおかしくはない。 曲がりくねった遊歩道を歩きながら、アンは傍らの銀色を仰ぎ見た。 「ちゃんと、読んであげました?」 咎めるような、問い。 「読まないよ。開封しないで、そのまま返した」 ヒューの言う通りだとしたら、ステラのオフィス近くからどの部署かの看護師ステーションに立ち寄り、開封もしない手紙を手渡してすぐそこを出て来た事にはならないだろうか。 では、行き先を見失った、気持ちは? 「開封してもしなくても、決定は覆らない」 何かまだ言い募ろうとしたアンを抑え込むように、ヒューが呟く。 言いかけた言葉を押し戻されて、アンは口を閉じた。いつもはマイペースに横柄な台詞ばかり並べ立てるくせに、こういう時のヒューの「読み」は繰り出す攻撃と同じに的確で、相手の抵抗をあっさりと封じてしまう。 「読んでいない、返しに来たと言ったら、あいつは、じゃぁなぜ破り捨てなかったのかと俺を責めたよ。言われてみればそれもアリだったなと思ったが…」 そこでなぜか、ヒューは薄く微笑んだ。 「受け取ったのは君だ。君は頼まれた通りあの手紙を俺に渡した。俺は間違いなく君から手紙を受け取り、俺の意志でそれを読まずに返そうと思った。 ただ有耶無耶に時間をかけて忘れ去られるんじゃなく、きちんと線を引くべきだと思ったから、俺はそうしただけだ」 否。気持ちは、もう、伝わらない。 それ、が、一方通行で成立するものではないと、アンにも判っている。そして時には、それ、が、永久に寄り添う事なく消えてしまうものだとも、思う。 仄灯りに滲む遊歩道を歩きながら、アンは俯いた。全ての人が思う通りの人生など歩めはしない。全ての人が無秩序に自由を手に入れられる訳ではないように、世界は複雑怪奇に絡まり合った人の集合体であるから、良しもあれば悪しもあり、幸福もあれば不幸もあるだろう。 結局。 「…巡り逢わせ…」 何か思い出したように呟いてから、ヒューは微かに笑みを浮かべた。 「どれもこれもと、欲張るべきじゃない」 みんなしあわせになればいい。 なんとなく諭された気になって、アン少年は俯いたまま「はい」と小さく答えて頷いた。 沈んだ空気を纏いつかせてとぼとぼと歩くアンに、ヒューはそれ以上何も言わなかった。例えば、君は頼まれた通りに行動しただけなのだから気にするなとか、君の事情も訊かずに手紙を押し付けたウイニー・メイスンも悪いとか口にするのは簡単だったが、銀色はあえて、言葉を紡がない。 少年にだって、判っているだろう。 どんなに努力しても、どんなに協力してやっても、「ダメ」なものは「ダメ」だ。 中心部に比べれば手狭な屋敷の間を縫う遊歩道の幅がやや広がり、前方に道標が見え始めた頃、アンはようやく顔を上げ、ふ、と短く息を吐いた。 「…自分の事って…どうも苦手なんですよね、ぼく…」 戸惑いがちに漏れた言葉に、ヒューが首を捻って見せる。確か俺もそんな事をミナミに言われたななどと、ぼんやり思い出した。 「昨日ハチくんに、少しは自分の事も考えた方がいいですよって、言われちゃったりもしたし」 はにかんだような、弱ったような笑みを浮かべたアンが肩を竦めるのを見ていたヒューが、眉間に皺を寄せる。 「ハチヤ?」 なぜそこでその名前だと言わんばかりの不吉な呟きに、アンは慌ててヒューを見返した。 「ああ! えと、あの手紙持ってたのを、偶然ね、ハチくんに見られちゃいまして…」 「―――ああ、そう」 溜め息混じりに答えたヒューは、自分の額にぴしゃりと掌を当てた。 バレてるなと、直感的に思う。今回ばかりはヒュー本人がどうこうではなく、アンの気持ちの向いた先に気付いたのだろうが…。 無意味に、今度会ったら締め落としてみようかなどと物騒な考えも脳裡を過ぎる。 渋い顔で前方を睨んでいるヒューを見つめていたアンはそこで、名前が出たからか、昨日ハチヤと通用門の待機所でした話題を思い出した。どうせ見に行く暇もないからと詳細な情報はチェックしていなかったが、もしかして、運が良ければプラント区画の消灯時間に間に合うかもしれない。 カラーブロックで半円の描かれた辻まで進み、アンは遊歩道の端に設置されていた電光掲示板に視線を移した。一般居住区に下りるエレベータではなく、もう少し先の居住区外苑に出るエレベータを使えば、ブラント区画に行けるのではないかと思ったのだ。 「…え。あれ?」 しかし、アンが道標に視線を据えて淡い黄緑色の文字列を読もうとした刹那、ふっと火が落ちてしまった。それに驚いた少年が小さく疑問の声を漏らした途端、今度は、遊歩道を照らす常夜灯がまさにスイッチでも切ったかのように唐突に消え、家々の門扉を浮かび上がらせていた街灯が消え、蓄光ブロックの描く遊歩道と非常用の小さな円形の光だけが弱々しく残るだけになってしまったではないか。 「ああ、そうだった…」 頭上から降る、溜め息交じりの声。 アン少年は、傍らの銀色を仰ぎ見た。 途端、天蓋を流れ落ちる無数の雫。 「今日、上級居住区は二十時三十分から明日の夜明けまで街路灯の使用を中止、各屋敷には使用光度の制限を設けて、下…一般居住区からでも流星が見られるようにするんだったな」 薄暗がりに佇むヒューの頭上、そのヒューを見上げるアンの頭上にも降り続ける、銀色の雫。剥離した夜空が輝きながらばら撒かれているかのような光景に、少年は大きな水色を瞠った。 絶え間なく、降る、遥か彼方星の豪雨。す、とビロードの闇に燃え、すう、と流れてすと消える、冷たい銀色。 瞬きも忘れてきらきらと輝く流星に見入るアンの横顔を眺めていたヒューは、小さく肩を竦めて笑った。 降る、星の群れ。 アンが不意に、天蓋に向かって腕を伸ばした。何かを受け止めるかのように、何かを掬い取るかのように広げられた細い指の朧に白い陰影が、薄い闇にほんのりと浮かぶ。 「? どうした」 辻の中央辺りに佇んでアンを眺めていたヒューは、訝しそうに言いながら降り止まない星の豪雨を、伸ばされた指先に誘われるようにして見上げた。 「一個くらい、落ちて来ないかなって思って」 自分でも馬鹿な事を言い出したと思ったのか、アンが少し笑いを含んだ声で言いつつヒューに視線を戻すと、彼の肩先で銀色の髪が揺れ、薄暗がりに仄白い軌跡を描く。 「これだけあれば、そういう間違いがないとも限らない」 そんな幻想など抱いてもいないのだろう銀色が、目を細めて笑った。 銀色。 降り続ける、銀色。 ビロードの、闇を刷く。
「ヒューさんは、流星でなく、彗星でしょうけどね」
そう言われて不思議そうに眉根を寄せ、アン少年に視線を戻す、ヒューは…。 銀色。 「…流星と彗星の違い、知ってます? ヒューさん」 細い指で天蓋のそのまた向こう、現われては燃え尽きまた現われる、悠久無限の縮図のような夜空を指したアンが水色の大きな目にからかうような色を浮かべて微笑むなり、ヒューが考えるスタイルさえ見せずに「知らない」と答える。 「暇があったら調べてみるといいですよ? たまには教養を深めるのも必要です」 ぴ、と鼻先に突きつけられたアンの指を煩そうに払ったヒューはそこで、わざとらしく溜め息を吐いてやった。 「うるさい」 言い返されてくすくす笑うアンから再度上空に視線を流したサファイヤを奔り過ぎる、銀色の群れ。 夜空を見上げたのはいつ振りだったかなと、ヒューは思った。 「……―――」 何かを示唆するように燃えては消える流れ星を涼しい顔で遣り過ごすヒューを見つめて、アンは短く息を吐いた。 広げた指の間をすり抜けていく、現われては消える流星たち。 まるでそれは正体のない「気持ち」みたいで、少し哀しい。燃えて、消えて、記憶に留まるだけで、いつかその記憶も…薄れて消えるだろう。 「だから…うん、ヒューさんは彗星だったらいいなと、ぼくが…思うだけかもしれませんけど」 呟いて、急になんだか恥ずかしくなり、アンは勝手に耳まで赤くなって俯いた。
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