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番外編-9- ゴースト

   
         
(8)

     

<王城エリア一般居住区三十三丁目付近>

 床に座り込んで途切れ途切れに話す少年を凝視したままヒューは、徐々に難解になって行く話の内容に軽い眩暈を覚え、それから、そういうのはつまり「アンくん」の管轄じゃないのか? と本気で思った。

 一通り「自分の事情」を話し終えて不安げに視線を揺らし、くすんと鼻を啜って顔を伏せた少年の細いうなじを見下ろしたまま、銀色が額に手を当てる。

「…つまりきみは…」

「開発コードRBP00(アールビーピーダブルオー)。…バルボア班…、ロミーが中心になって製作していた人工知能を監視…するための、「統合脳」と呼ばれる…システム内に予期せず発生した…擬似人格…、「バグ」みたいな…もの…」

 蒼白い光の散る室内で、色の薄い金髪がまた不安定に揺れた。

 少年の話した内容はまるで突拍子もないもので、その存在を確認していたのはロミー・バルボアだけだったという。

「彼」はある日突然、幾つかの人工知能を育成していた「統合脳」というシステムの中に生まれてしまった。自我を持ち学習機能もあった「彼」はいつしか、「統合脳」内部にあった他の人工知能の知識を吸収して言語を覚え、その「統合脳」自体を乗っ取って開発者、ロミー・バルボアと接触する。

 始めは「彼」をシステム上のエラーだとして消去しようとしたロミーはしかし、消さないでくれと懇願する「彼」に、興味を抱いた。

 二十四時間体勢で監視されていた「統合脳」の端末の一部は違法な回線操作によってこの「社宅」に置かれており、ロミーはそこで「彼」に、統合脳を復旧し「自身のデータ」を社宅備え付けの端末に移植出来たなら、保護してやろうと持ち掛けた。

 数日後、「彼」はロミーの出した条件通り自力で社宅に移り住み、本社内の統合脳は正常に稼動し始める。

 その保身とも呼べる行動に、ロミーはますます興味を示した。これは最早安価な人工知能ではなく、小さな容量で人間のように物を考え物理的作用を引き起こす「電脳」だと。

 本来の仕事そっち退けで、社宅に移った「彼」の解析に没頭したロミーは、ついには出社義務を怠り厳重注意と社宅からの退去を命じられる。

 その時ロミーは「彼」に言い残した。

        

「必ず戻って来るから、それまで誰にも見つからず、隠れているんだよ」

       

 そうして「彼」は、外部から直接電力を引くために設置された「配電盤」の一部に組み込んだ大容量端末の中に身を潜め、自身を探ろうとするものから身を守りつつ、今日までロミー・バルボアを待ち続けていたという。

 なんだその電脳ファンタジー…。

 ヒュー・スレイサーの抱いた率直な感想はこうで、じゃぁなぜその「きみ」が「アンくん」になっているんだ誰か説明しろ。というのが、次に脳裡に浮んだ疑問だった。

「………」

 それで、あらぬ方向に飛ばしていた視線を蹲るように座り込んだ少年に戻し、横柄に腕を組んだまま詰問しそうになってヒューは、しかし、だ。

 しかしながら。

 蒼白く滲んだ街灯の明かりが色の薄い金髪の表面できらきらと踊り、不安げに曇った小さな顔にも心細い陰影を落とす。踏み荒らされて汚れた床にぺたりと尻を着けて、しがみ付くように自分の腕を抱いたか弱い姿を目にした銀色は、胸の内で準備していた冷たい台詞を吐き出す事が出来なかった。

 束の間の静寂。

 少年の頭上にある配電盤の表面で消え入るように弾んでいた火花も消え去り、動くもののない刹那。

 薄い窓ガラス一枚隔てた向こうにある日常の浸蝕を免れた室内で。

 ヒューは天井を仰ぎ、がっくりと肩を落として嘆息した。

 人間の…というかこの場合は自分の「弱さ」というものに、今日まで培ってきた色んな物が押し潰されてがらがらと崩壊する音を聞いた気分だった。任務中に起きた突発的な「事故」にそれ相応の対処を自らの裁量で求められるのが衛視であり、多分ヒューは今まで、事後報告を受けた誰もが納得してか満足してか頷くだろう結果を出して来たはずだ。

 だとすれば銀色がここで取るべきは、壊れた携帯端末を証拠として回収し、目の前の「少年」を問答無用で最寄りの派出所に連行して、特務室で待っているだろうミナミに連絡を入れ指示を仰ぐ以外にはない。そう。理解不能の怪現象に晒され、あまつさえ同行の「魔導師」に何らかの問題が降りかかっているのだから、他に選択肢はないのだ。

 それなのに。

 詳しい話は派出所で聞いてやる。という、なんでもない一言が、喉の奥に痞えて出て来ない。

 情けなさの余り眩暈を起こしそうになりながら、ヒューは眉間に皺を刻んで目を閉じた。

 少し落ち着こう。冷静になって考えよう。何より先に目前の少年に尋ねたい「その質問」が口を衝いて出そうになるのを懸命に飲み下し、自分の気持ちに折り合いをつけようとする。

 いい、それは判った。

 と、ヒュー・スレイサーは、全く納得していなくとも言う自信が、今はある。

 君がその、なんとか言う「バグ」だとして。

 と、ヒュー・スレイサーは、幽霊ですといわれた方がマシだと思いつつ続ける自信が、今はある。

            

 じゃぁ、本物のアンくんは、今、どうなってるんだ?

           

 これが。

 この一点が。

 全ての思考を喰い潰している。

 たったそれだけの事が。

 だがしかし、ここでいきなりそれを口に上らせず、無駄…正直、これは無駄な悩みだとしか言いようがないだろう。だって、そんなに気になるなら、さっさと訊いてすっきりすればいいだけの事だ。…に小難しく考え込んで眉間に皺を寄せたヒューは、ある意味凄いのかもしれない。何せこの期に及んでも、アンの心配と衛視の職務を天秤に掛け、それで優先順位に困ったくらいなのだから。

 まぁ、本人も気付いていないようだが、「そこで優先順位に困った」という事実はこの男にすれば奇跡なのかもしれないが…。

「とにかく」

 何がとにかくだか判らないが、と胸の内で注釈をつけたヒューは、天井に向けていたサファイヤ色を垂直に下げ、床に蹲る少年を見た。その視線になぜかアンの姿をした「他人」は酷く怯え、羽織ったジャケットの袖が皺になるほど固く自分を抱き締めて、ますます小さくなったけれど。

「………」

 その、見方によれば拒絶されているとも取れる、恐慌状態にも似た警戒心剥き出しの行動に大人げなく苛立って、ヒューは短い息を吐き少年から目を逸らした。

 しつこいようだが、いいから、落ち着け、俺。と、銀色はここに普段の彼を知る者がいないのをいい事に、深い皺を眉間に刻んで何度も胸の内で繰り返した。

 よく考えれば、さすがのヒューも多少混乱していたのだと思う。まるで舞台の書き割が一瞬で摩り替えられるように「状況」が急変しても尚平然と振る舞えるのは多分あの鋼色だけで、だから銀色もそれなりに当惑する。

 少年は床に蹲り、震える細腕で自分の身体を抱き締めて、大窓に焼き付いた影のような男を見上げていた。睨むように見つめて来る、感情の欠片も見えない蒼い目が怖い。街灯の滲んだ光を受けた髪が放つ無機質な輝きが、端正な顔の印象を酷く冷たいものにしている。

 ずっとそこに縛られていて、ただ待つだけだった少年…実際のところ外見はアンであり、中身は得体の知れない人工知能なのだろうが、便宜上そう呼ぶ事にする…に唐突に与えられた、自由。動く手足を使ってこの場から風のように逃げ去り、待ち続けたその人を探す事も可能だと冷静に思う傍ら、少年は「外の世界」に一抹の不安と恐怖も感じていた。

 とにかく、ここから逃げようかと少年がちらと考える。

 反射的になのか、視線だけを動かして左手方向にある、開け放たれたままのドアを見た。同時に逸れていたはずのヒューの視線がゆるりと動き、ドア方向に微か重心が移動したのを「読み取って」、少年はすぐにその無謀な行動を諦めたけれど。

 なんとなく、ダメだと思った。

 見開いた水色の捉える世界には、なぜか無数の数字が踊っている。多分、「少年」が「アン」になった時から、それはずっとそこにあった。壁に切られた長方形の窓の大きさ、外と内を隔てるガラスの素材、差し込む街灯の光量、角度、その手前に佇む男の身長などが、目まぐるしく書き換えられては存在し、現れて、消える。

 意識せずとも、その数値が何を示しているのか判って、少年は小さく震えまた自分の膝元に視線を落とした。揺ぎ無く絶え間なく表示される「データ」は所詮データでしかないが、だからこそダメ…無理なのだとも判る。

 少年を斜に構えるようにして佇んでいる男には、なぜなのか隙がない。ドアの位置と距離を確認しそこから飛び出そうかと思っただけで、彼はいつでも動けるように重心を移動していた。

「外」の世界に対して若干の不安と恐怖を抱いておきながら、少年は内心首を捻った。心のどこか…とはいえ、人工知能に「こころ」などというものが存在するかどうか判らないのだが…は酷く落ち着いていて、ともすれば暢気とも取れる思考が脳裡に閃いている。

 彼に任せろ。と。

 少年には、望みがある。目的かもしれないが。

 そのためにはまずロミー・バルボアに会わなければならない。本懐は、その先にある。

 自分のものではない緩やかな意志が、大丈夫、と胸の内で繰り返すのに、少年は無意識に深呼吸した。理解して貰えたかどうかは別にして、「自分」というものについては嘘偽りなく説明した。潔くそうせよと促されたような気がして、必死になって言葉を紡いだ。

 明白である事が重要だと、その…どこかの意志が少年の背を更に押す。

「……ロミーに、会いたいの…」

 純粋に、「自分」が「この世」に在る目的を果たすために、少年は消え入りそうな声で、しかし確固たる意志を持って薄い水色の双眸に力を込め、ヒューを見上げた。

「約束を…守りたいの」

 その時の、大きな水色が。

「………」

「他人」とは思えなくて、銀色はますます困ったように、眉間に皺を寄せた。

  

   
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