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番外編-9- ゴースト

   
         
(11)

     

 まだ宵の口という比較的早い時間帯だったのが幸いして、件の「幽霊屋敷」から抜け出したヒューと少年は、難なく帰宅途中のサラリーマンが行き交う大通りに出た。当然特務室…ミナミとハルヴァイト、かもしれないが…はこちらの異常に気付いて手を打ってきていて、捕獲のための兵士を大勢送り込んでいるだろうが、これだけ人通りがあれば今すぐ見つけられる心配はない。と、思いたい。

 王城エリア全域に出ていると予想される捕獲命令について、ヒューはあえて口に上らせようとは思わなかった。やや後ろをおどおどと着いて来る少年に、今は無用な心配を与えてはいけないと……。

 思っている自分に対して、ヒューは溜め息を吐く。

 別に「だからどうだ」と考えた訳ではないが、全部のカタが付いて特務室に戻ったら、果たしてどれほどの始末書が待っているのだろうかと頭を掠めた。まぁ、それはいい。元より覚悟の上だ。例えば堆く積み上げられたディスクに眩暈を起こしたとしても、それは後悔と自責の念から来るものではなく、これだけ言い訳しなければならないのかという物理的な問題だろう。

 片側二車線の車道を流れる小型のフローターに混じって、大型の路線バスが近付いて来る。二階建ての、鮮やかなブルーに白いラインも眩しいそれを目にして、不意に、背後の少年が足を停めた。

 ゆるゆると流れる中にぽつりと取り残された少年をヒューは、数歩行き過ぎてから立ち止まり、振り返る。街灯の鉄柱を透かすようにして車道を見つめる大きな水色からは、何の感情も窺えなかった。

 ガラス玉のように風景を映す、厳冬の晴天に似た水色を通り過ぎる、青。

「あの…。あれが、あの大きいのが、「バス」?」

 のろりと持ち上がった細い指先が通りを示すなり、その先端を掠めて路線バスが行き過ぎた。

「ああ、そうだ」

 距離を詰めないまま小さく答えたヒューのサファイヤをいっとき見つめてから、少年が振り返ってバスを見送る。

「…あんな大きなものが、ひっくり返ったりするんだ」

 惚けたような呟きを雑踏の中に聞き分けながらヒューは、少年の見送った青いバスを遠くに眺めた。

    

      

『ロミーに会わせて…』

『それは、無理だ』

『どうして? 会わせてくれるだけでいいの。そうしたら…』

      

『ロミー・バルボアは、二十年も前に亡くなってる』

     

     

 ロミー・バルボアは社宅だったあの屋敷を出た直後、会社の仮眠室に数日寝泊りしてから新しいアパルトメントに引っ越し、ひと月半程して。

 通勤途中に起こった路線バスの横転事故に巻き込まれて命を落とした。

 冷たく事実を述べるヒューの顔を惚けたように見上げていた少年は、「路線バス」を知らなかった。

 その後色々と状況が変わって、とりあえず件の屋敷を後にして雑踏に紛れ込み、少し、行き過ぎるフローターの群れに大きな乗り物を見つけて、それが「バス」だと知った今、少年の胸に去来するのは、感傷か、それとも「怨み」なのか。

 一刻も早く身を隠さねばならない状況であるにも関わらず、ヒューは少年を急かさなかった。確かにそれは…見知った身体の中に在るのは見知らぬ「AI」かもしれないが、怯えたり不安がったりする程度には心が発達しているのだから、きっと「悲しみ」も持っているのだろうと銀色は思った。

 束の間の別れが、知らず永遠の別れになってしまった事。

 この世で唯一「彼」を理解して受け容れようとしてくれた人を、悼む気持ち。

 果たしてそれがヒューの考える「悲しみ」なのかどうかは、判らないけれど。

 半ば呆然と通りを見つめる少年から視線を外して周囲をぐるりと見回し、ヒューはゆっくりと歩き出した。もう少しだけ感傷に浸る時間を与えても良かったが、如何せんこちらにも時間がない。迂闊に立ち止まって発見される危険をこれ以上犯す訳には行かないだろう。

 ゆらりと動いたヒューの背中に気付いた少年は、一度目礼するように視線を足元に下げて、足早にその場を離れ銀色の背に追い縋って来た。幾分緩やかな歩調に合わせて足を動かしながら、小さく息を吐く。

 少年は、世の中の構造を知らない。自分の置かれた状況も、よく判っていない。

 でも、「そこ」に行って会いたい人が居る。

 最早この世にない「ロミー・バルボア」ではなく、だ。

       

 約束を、果たそう。

       

 不意にヒューが、俯いたまま追い縋って来た少年の腕を取って軽く引き寄せ、路肩に佇む卵型の機械を目指して進路を帰る。やや幅の広い歩道を緩やかに斜めに突っ切りそれの前に到着すると、小さな声で、少し待て、と呟いた。

「…警備軍の兵士の制服は覚えているか? 何度もあそこに来ただろう」

 目の前にあるモニター付きの機械を見つめる少年の耳元に唇を寄せたヒューが言うと、淡い金髪がこくりと頷く。

「みんな同じ服を着た人たち」

 確かめるような声に小さく頷き返したヒューは、手本のように周囲をぐるりと見回した。

「見かけたらすぐ報せてくれ」

 そう言い置いたヒューが、目前に佇む卵形のボックスに向き直る。何をするのだろうと内心首を傾げた少年に一言の説明もなく、ポケットから取り出したコインをスロットに突っ込んで、その脇に並んでいる数字の書かれたボタンを手早く押す。

 その、通り過ぎる誰も気に留めない自然な動作をぼんやりと見ていた少年は、不意に大きな水色を見開いてから、恐々と周囲に視線を巡らせた。

 ようやく始まった警戒の動作に淡い苦笑を漏らすヒューの指先が、無意識にモニターの片隅を叩く。その、まるで他人のもののような自分の指の動きに、銀色は先とは趣の違った苦い笑みを唇の端に浮かべた。

 相手は「天下の特務室」だ、軽率な行動一つ、一秒の気の緩みが「命取り」か。

 あえて考えたくない部分をきっぱりと脳裡に浮かべて気を引き締めたヒューが口元の笑みを消した途端、数えて八回目のコールのお終いを待たずに、回線がオープンする。

『…? 誰かと思ったら、お前か』

 平素と変わらぬぶっきらぼうな男言葉で告げられて、ヒューは薄い笑みひとつ見せずに小さなモニターの中のオレンジ色を見つめた。

 オレンジ色の短髪にキツイ印象の翡翠。相手は旧知の、医療院の外科医ステラ・ノーキアスだった。

『公共端末からだなんて…』

「事情の説明は後だ。匿ってくれ」

 一体どんな急用だ? とでも続けたかったのだろうステラが呆れた溜め息混じりに呟くのを遮ったヒューが、ごく小さく、早口で呟く。

 途端きゅっと唇を引き結んだステラが、翡翠の双眸に怪訝そうな色を浮かべて眉間に皺を寄せ、ヒューを睨んだ。

「事情の説明は、後だ」

 物事を頼む口調でもないし言い草でもないと百も承知で、ヒューはその部分だけを重ねて言った。「少年」を連れてあの屋敷を出たのも「賭け」だった。だとしたら、ここでもう一つ賭けてもいいだろうと、銀色は腹を括ったのか。

 物理的距離感ゼロで、二人は睨み合う。

 ヒューはステラの翡翠から目を逸らさない。

 ステラはヒューのサファイヤから目を逸らさない。

 一瞬だったのか、数分だったのか。

『判った』

 ステラは固い表情を保ったまま、頷かずに短く答えた。

「また連絡する」

 彼女の答えを確かめてから申し訳程度に笑みを見せたヒューは、当たり前のように自然に街頭端末の通信を切断し、傍らに寄り添っている少年の腕を取って、また、雑踏の中に紛れ込んだ。

  

   
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