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番外編-9- ゴースト

   
         
(18)

     

待ち伏せする場所を直通通路直前にしないのはなぜなのかと問うたキャロンに、ジリアンは正体不明の笑みを向けただけで明確な答えをくれなかった。

それに、特務室というのは上下だけでなく横にも内緒事ばかりで苛々する部署なのだろうかと嘆息したキャロンの内心まで見透かしているかのように、意味ありげに、黒髪の青年の口元が緩やかな孤を描く。

        

「正しい事だけが「正義」じゃないんで、ぼくらにとっては。高潔でなくちゃならないからこそ、時には、何にも気付かない振りっていうのも、必要だったりして」

        

ぽつりと呟き、こんな風な話を貴女にするのもおかしいんだけど、と前置きしてから、ジリアンは黒いセルフレーム眼鏡の位置を直した。

       

         

「ぼくらは、兵士じゃなくて「衛視」なんですよ。都民のために働く…貴女方とは違う。

ぼくも、室長も、…班長も、―――

        

陛下が「邪魔」だと言うなら、

王女殿下が「嫌い」だと言うなら」

       

孤を描く、酷薄な唇。

セルフレーム眼鏡の奥の、黒い、暗い瞳。

白手袋に包まれた繊細な指を差し上げてキャロンの鼻先を指し、青年は小首を傾げるようにして、笑った。

        

アナタダッテ コロセマス。

        

        

班長を足止めするのが目的で、拘束出来たら御の字ですね。などと急激に軽い口調に戻ったジリアンに手で示されて、キャロンはまるで自動人形のようにこくりと頷いてから、ひとりうねった遊歩道に踏み出した。

瑞々しい緑の葉を伸びやかに広げた満開の百合の花を縫って歩きながら、キャロンは重苦しい気分で眉間に皺を刻んだ。酷く複雑だ。難解な問いを投げ掛けられたのに、答えは与えられそうもない。

上級庭園修復作業時に使用されているという大型エレベーターのシャッターを遠くに眺めながら、キャロンはジリアンと別れてから何度目かの溜め息を吐いた。黒髪の青年が登場してここまで、短時間で畳み掛けるように事態が進展し過ぎて気付かなかったが、あの青年はなぜ、室長以外の衛視は知らないと報告されていたはずのヒューとアン少年逃亡を知っていたのか。

カラーブロックで舗装された通路を大股に突き進みながら、キャロンはなんとなく天蓋を見上げた。黒に銀の粒を散りばめた美しい夜空が、なんだか恨めしい。

ジリアンは、隊に出されている命令の内容も知っているような素振りだったとキャロンは今更ながら思った。アンと関わる女兵士一人を残し、外の隊員は全て地下へ追い遣った手際は、何も知らない人間の取れる行動ではないだろう。

それに。とキャロンは、眉間に皺を刻んで正面を睨み据えた。

正しいだけが「正義」ではないなどと、高潔でなければならないなどと、時には何も知らぬ振りをせねばならないと言いながら、では、なぜジリアンはキャロンにあんな話をしたのか。

陛下のためならばキャロンさえ殺せると本気の表情で言えるのが「衛視」で、そういう風に全ての「衛視」を理解していいのなら、ヒュー・スレイサーの行動には疑問を持たざるを得ないだろう。

まさか、この騒動が陛下の希望だったなどとは、キャロンだって夢にも思っていない。室長自ら乗り出して来るという異例中の異例だとすれば、これは明らかに不祥事だ。

「……ではなぜ、スレイサー衛視はアンくんを連れて逃げているんだ」

思わず呟いてしまって、キャロンは力なく苦笑した。

これが別の相手なら、とっ捕まえて吐かせてやろうくらいは普通に考える。しかし、相手はあのヒュー・スレイサーだ、やっぱり、無理だろう。

衛視という職務を放棄してまで成し遂げたい事が、あるというのか。

疑問は迷いを生む。

もしキャロンが、それこそヒュー・スレイサーの同僚か部下であったなら、ジリアンのこっそり仕掛けた保険に気付いただろうか。

疑問は迷いを生む。高い志を貫き、時に誰かに怨まれる事になっても絶対に退かぬと決めたのならば自身に疑問を抱いてはならないとジリアンを含む衛視たちに言ったのは、他でもないあの銀色だった。

そう聞いていたから、ジリアンはキャロンに疑問を植え付けたのか。

なぜ、ヒュー・スレイサーは。

もしかして後日事の真相が彼女に明かされたとしたら、キャロンは間違いなく不愉快そうな顔でジリアンを睨み、わざとのように恐々と逞しい肩を寄せて身震いして見せるだろう。怖い怖い。何せ黒髪の青年の真の目的は、ミナミとハルヴァイトに言われた通りヒューとアンの目的を探る事であって、捕獲や拘束ではない。

自分まで複雑に絡み合った罠に誘い込まれていると知らないまま与えられた任務に赴こうとするキャロンを放って、当のジリアンはどこへ消えたものか。じゃぁぼく行くんで。などと軽々しく告げられた際、当然勝気な女兵士は青年にどこに行くのか問うたのだが、帰ったのは胡散臭い爽やかな笑みだけだった。

キャロンは、半ばヤケクソ気味にずんずん屋敷と屋敷の間を走る遊歩道を進んで目的の辻まで来ると、荒々しく踵を踏み鳴らして立ち止まった。あの詐欺師紛い…だと思う…の青年が言うには、ヒューとアンは必ずここを通るらしい。

実際それは構造的な理由であって疑う余地もなく、ヒューたちの使った非常階段は、先にキャロンの見遣った作業用エレベーターの脇に出るようになっている。近くには比較的大きな屋敷が多く――ここは、王城の真上に当たる――、すぐ目の前にはクラバインの住む屋敷もあって、だから辻以外は殆どが誰かしらの許可地になっており、下手な場所に入ろうものなら、すぐに警備の者がすっ飛んで来る。

見知った場所でありながらどうにも居心地の悪さを感じつつ、キャロンはうんざりと周囲を見回した。緩やかにラウンドした遊歩道に等間隔で並ぶ街路灯。その足元には白い百合の花が咲き乱れ、風もないのに、ゆらゆらと揺らめいていた。

どれくらいそこに佇んでいたのか、結局よく出来た立体映像でしかない花々はたおやかに揺れたが微かな葉のざわめきさえ生まず、辻を囲んだ街路灯の白い光に炙られた天蓋の向こうは眩しく暗く、遊歩道の途中でならば探せた小さな星々の姿も見えない。

だからキャロンは、その長身が折り重なった百合の花の間から滑るように現われた時、場違いにも酷く感心してしまったものだ。

派手な銀髪に、派手な顔立ちに、嫌味なくらい様になったガンメタ色の薄いコートの裾を閃かせた彼は、しかし、わざと聞かせるためなのだろう、立ち止まる間際に鳴らした踵がコンクリートブロックに打ち据えられるその瞬間まで、衣擦れ一つ立てる事はなかった。

風景に、周囲の空気に溶け込んでいたはずの男…ヒュー・スレイサーが、カッ、と踵を鳴らし、辻に踏み込んだところで足を停める。それで始めて現実的な厚みを持った男は、何か酷く複雑そうな、でも、見方に寄れば大層挑発的な薄笑みを口元に貼り付け、ゆっくりと腕を組んだ。

「一人か?」

意外にも、先に口を開いたのはヒューの方だった。否。意外だと思ったのはキャロンだけであって、ヒューは最早自分の行動の何が「意外」なのかさっぱり判らなくなっていたものだから、先に話し始めた事についての感想などないのだが。

「スレイサー衛視も、お一人か」

少し待っても他の人影がないからか、キャロンは凛々しいラインを描く眉を不快げにひそめて、沈んだ声を放った。

「見た通りだ」

軽く肩を竦めるようにして答えたヒューの、なんというか余裕綽々の空気に当てられて、キャロンがぴしりと額に血管を浮かべる。意味は判らないが無性に腹の立つ男だと、そこいらの男連中など見劣りしてしまうような女兵士は思った。

静かな遊歩道の一角を、意味不明の緊張感がじわじわと締め上げる。

「…。では、スレイサー衛視に、単刀直入にお訪ねするが」

「どうぞ」

完全に何か問われるのを待っていたとしか思えないタイミングでさらりと相槌を打たれて、キャロンは言葉に詰まった。彼女の引き攣った顔から逸れない、街路灯の白い光を散らしたサファイヤ色。こそりとも身じろぎせず腕を組んだままなのに、酷く威圧感がある。

だがしかし、キャロンとてそんなプレッシャーに負けるようなヤワな心臓などしていないものだから、眉間の皺を益々深くして続けた。

「アンくんを、どこへ隠した」

ここは一片の迷いもなく問われて、ヒューはキャロンから視線を逃がして斜め上空を見つめ、それから、ふと薄い唇の端を引き上げたではないか。

さも可笑しいとでも言うようなその表情を、キャロンが明るい水色の双眸で睨み据える。

「今のわたしの問いの何がどう可笑しかったのか、お教え頂けると助かるのだが、スレイサー衛視」

「いや、可笑しくない。いい問い方だ。大いに結構だよ」

中空に飛ばしていた視線を睫を伏せるようにして下げ、ヒューはくすくすと笑いながら答えた。その、誠意の欠片も見えない言い方にキャロンが、額に浮べた青筋を一本増やす。

キャロン・ヒス・ゴッヘルが一方的に一触即発な空気を辺り構わず発散する中、ヒューは俯いたまま高速で考えを巡らせていた。

キャロン一人がここに居るという事は、やはりこちらはこれで手詰まりか。ならばどうするか。それならば。

どうやって、追っ手の視線をこちらに引き付けたままにしておくか。

「…ところで、ミス・ゴッヘルは本当に一人か?」

すと垂直に動いたサファイヤが、剣呑な水色をまっすぐに捉える。

「―――ああ、一人だ」

即答したようにして微妙に挟まれた間に、ヒューは内心溜め息を漏らした。彼女の他にもどこかに居るらしいのは確実だが、それが果たして複数なのかどうなのか、衛視なのか兵士なのかは、判らない。

望むべくは。

少年が無事目的を果たせるようにという、それだけだ。

暫し睨み合い、ますます剣呑さを増した視線を突き刺してくるキャロンに、ふっと緩んだ微笑を見せ、ヒューはわざと大仰な手付きで金属音のしそうな銀髪をかきあげた。

「なら、こうしよう。お前が俺に一発入れたら、大人しくルー・ダイ魔導師の居場所を教える。どうだ?」

「自分の「庭」にわたしを誘い込んで、有利に事を運ぼうという魂胆か? スレイサー衛視」

「取り引きに、わざわざ自分に不利な状況を持ち出すのは余程の自信家かとんでもないバカかの、どちらかだろう」

やれやれと肩を竦めてうんざり気味に告げられるなり、キャロンが肩を聳やかしてふふんと笑った。

「ほお。私には、スレイサー衛視がそれほど賢いとは思えないのだが?」

言われたヒューが、殊更口元の笑みを濃くする。

「ああ。俺もそう思うよ」

答えて苦笑を漏らし、ヒューは大いに彼女の言い分に同意した。

全く持って恰好の悪い事に、何をムキになっているのかと思いはする。しかし、ヒューは自分の選択を後悔していない。

例えばそれを聞いた十人が十人、お前は間違っていると言ってもだ。

薄笑いを消さないキャロンと数秒間見つめ合ってから銀色は、小さく息を吐いて、それならば、ともう一つ「条件」を言い足した。

それを聞いたキャロンの惚けた表情と、遅れてやって来た憤懣に彩られた怒りの表情を冷たく見据えながら、どうしてもそれだけは譲らないと決めたどうしようもなく不器用な男は、薄い唇の端を綺麗に吊り上げて、自分に呆れたように言い置く。

「それなら、俺のバカさ加減が好い感じに出てていいだろう?」

  

   
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