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番外編-9- ゴースト

   
         
(19)

     

視界が小刻みに揺れている。

身体の内側から何かが、口を衝いて飛び出しそうだ。

見える範囲全てに踊る小さな、大きな、様々な文字列ががくがくと震えて、読み取れない。

果たしてそれは何なのか。自分の身に今何が起こっているのか問う人もない少年は、一心に、ただただひたすらに、胸の中であの人の言葉を繰り返しながら走っていた。

もしそれが「人間」として生まれ、生活している者ならば、自分の身を苛む細かな震えが極度の緊張から来る動悸や息切れだとすぐに判っただろう。しかし、少年は今「人間」の姿を借りてはいるが、本当は、最早実体を持たない「プログラム」だったから、なぜこんなに指先が震えるのか、今にも膝が折れてその場に蹲ってしまいそうなほど心細いのか、判らなかった。

それでも少年は、注意深く周囲を探りながら、咲き乱れる白百合の花を掻き分けるようにして走る。

表皮にひりひりと触れてくる白百合の幻影に微かな不快を感じつつも、少年は迷わずに医療院へと向かっていた。ヒューと揃って上級居住区に出てすぐ、銀色は医療院の方向を指差し、途中の屋敷だけをかわして真っ直ぐに進み、ゲートが見えたらIDカードを使って指定のパスワードを入力し、ロックを解除。敷地内に入ったら迷わず外科部のドクター、ステラ・ノーキアスを尋ねろと言った。

二人が侵入した王城上空の修繕用作業口から居住区外苑上に位置する医療院までは、最短距離を選んでも数時間掛かる。さすがに、追っ手の殆どが二人の背中を視野に納めている今、だらだらと時間を掛けて隠れながらその数時間を移動するのは逆に危険だろう。

だからヒューは少年に、車輪のマークのあるボックスを見つけたら、迷わずコンソールを操作して無人の移動用小型フローターを呼べと言い置いていた。その時、やって来たのがフードつきの四人乗りならそのまま帰し、フードのない二人乗りならば乗り込んで、医療院近くの車寄せまで移動しろ、とも。

移動用フローターで直接医療院には入らず最寄りのステーションで乗り捨てろとヒューが指示したのは悪足掻きみたいに目的地を判り難くするためだったし、フードのある四人乗りを回避しろと言ったのも、ドレイクがこちらに到着しアンのIDで呼び出されたフローターを操作して足止めされた場合、逃げ道を残すのが目的だった。完全に操作系を乗っ取られて車内に閉じ込められたのでは、シャレにならないからか。

今にも爆発しそうな心臓を必死に飲み下しながら白百合の間を走り抜けていた少年が、不意に花壇を振り切って遊歩道の辻に下りた。ぐるりと見回した周囲に人影がないのを確かめてから震える手でシャツの胸元を押さえ、よろめくようにまた走り出す。

意味の判らない不快さに、少年は顔を顰めた。額から滲む粘ついた「水」。それがいつの間にか着衣の中にまで入り込んでいて、なんだが酷く落ち着かない。

全身にべったりと冷や汗を掻きながら、少年は視界でちかちかと乱舞する文字列を意識しないように、無人の遊歩道を少し進んだ。くねくねと折れ曲がった迷路のようなその先に目的のボックスを見つけて、一瞬安堵の表情を浮かべる。

白百合の縁にひっそりと佇むそれは、一本足に支えられた黄色いボックスだった。扉には「AUTO」と大きく書かれていて、左右の面には緑色で車輪がどんと描かれている。

固く閉じた扉の取っ手に飛びついた少年は、それを引きあけながら開いている手でジャケットの内ポケットを探り、一枚のカードを取り出した。それを迷わずボックス内の操作盤、口を開けたスロットに差し込んでコールボタンを押し、すぐに吐き出されてきたカードを元通りジャケットの内ポケットに戻す。

それで一瞬気が抜けたのか、少年はボックスの取っ手を掴んだままその場にぺたりと座り込んでしまった。俯いて肩で息をしながら、見開いた水色で膝元の地面を見つめる。

踊る、文字列。

眉間に皺を寄せて固く目を閉じた少年の瞼に、一人の男の笑顔が浮ぶ。

       

     

『お前を、会わせてやりたいな。

お前に、抱き締めてやって欲しいんだよ。

あのコは、ずっと――――孤独だったから。

柔らかいものも、温かいものも、何も、あのコにはないから。

お前が柔らかいボディと温かい手触りを教えてやって欲しいんだよ。

      

そのために、ぼくは死ぬ気で努力するから。

もう少しだけ待ってって、あのコと約束したから。

       

お前が、あのコの友達になれる日が、一秒でも早く来るように』

     

      

まるで今彼が目の前に居るような色褪せない笑みを瞼の内側で再現し、少年はゆっくりと睫を持ち上げた。それとほぼ同時、背後に小型の移動用フローターが滑り込んで来たものの、憔悴し、恐慌に震える少年の足はぴくりとも動かなかったが。

会いに行こう。彼は約束を守れなかったけれど、守ろうとはしたのだと伝えに行こう。少し遅くなってしまったけれど。もう少しだけ時間を貰わなければならないけれど。君が彼とした約束は、自分が必ず守るからと…。

伝えに、行きたいのに。

少年は、最早一ミリも動かないほど疲れ切った身体に動けと命令しながら、顔を顰めた。こんな所で座り込んでいる場合ではない。なのに、乱舞する文字列が眩しくて、煩くて、意識が集中出来ない。

その、自分の脆弱さに苛立った少年は、噛み切ってしまうほど唇を噛んで項垂れた。いつの間にかボックスの扉から離れていたのか、頼りなく崩れた膝の上に、細くて弱々しい手がぽとりと落ちている。

細い、指先。

小さくて、非力な手。

それは「少年」のものではなかったが、少年は「自分」の脆さに不可解な苛立ちを覚えて、ろくろく力の入らないそれを固く組み合わせて握った。

瞬間、ふと思い出す。

あの人の手は、小さな自分の手を簡単に包み込み、強引にではなく自然に、自分の足で前に進めと柔らかく引いてくれた。

乾いた手の感触。

暖かな温度。

無意識に手を取ってくれた、その人は。

少年は固く握っていた両手を胸に当て、厳冬の空色に力を込めて、暗い天蓋を見上げた。

街路灯の光にも消されない、一際明るい星が一つ頭上で瞬いている。ちかちかと。銀色に。

その人は、今、自分の目的を果たさせるために――。

      

       

『俺の事は構うな。気にせず、君は君のために行け。

俺は君を助けるんじゃない。

      

俺が譲らないと決めた事を、自分勝手に、遣り通そうとしてるだけだ』

       

      

別れる間際にそう言ってその人は、少年の華奢な手を離した。

少年は不意に表情を引き締めると、未だ震える両手を開いて地面に置き、ふらふらと立ち上がった。冷たい言葉だったかもしれないが、その人は少年が目的を果たすものと信じてくれていたはずだ。でなければ、こんな無茶などしなかった。

捕まれば、目的は果たせないかもしれない。

だから、逃げる。

と、その人は、一点の迷いもなく少年に答えた。

あの時。

約束を果たそう。

自分をあのコのために「生かして」くれた人との。

孤独の中でたった一つの約束だけを信じてくれているはずの人との。

頼るものもなく怯えていた自分をここまで進ませてくれた、あの人との。

       

約束を。

        

少年は背後を振り返り、そこに停車していたのが二人乗りのオープンフローターだった事に微か表情を緩めてから、それに乗り込んだ。

瞬間、フローターの操作盤上と、車輪マークのボックス周辺で複雑にうねった文字列が瞬き、また瞬間、少年を乗せたフローターは何の操作もしていないのに、滑るように動き出していた。

        

          

「…今の、何?」

少年を乗せた小型フローターが遊歩道から逸れて専用道路に入ったのを見届けて、ジリアンは身を隠していたオブジェの陰からひょいと辻に降りた。

キャロンと別れたジリアンはすぐあの補修作業用シャッターが見えるぎりぎりの場所に身を隠し、ヒューと少年が別行動する機会を窺っていた。折り良く二人は非常用の出入り口から姿を見せてすぐに別れたため、青年はあっさりと銀色をキャロンに任せ、少年と着かず離れずの距離を保ったまま、今に至る…訳なのだが。

目の前で起こった不可解な現象に首を捻りつつ、ジリアンは懐から携帯端末を取り出して移動用フローター呼び出しボックスに近付いた。

もし、これに一瞬焼き付けられたのが真円の紋様であったなら、青年はなんの疑いも持たずにあっさりとそれを受け入れただろうか。しかしながらジリアンが目にしたのは多少捻れていたものの水平な文字列であって、彼らの知る「電脳陣」ではない。

その時点でようやくジリアンは、アンに何かとんでもない事が起こっているのかもしれないと思った。

「だとしたら、色々説明は付くかな。アイリー次長の歯切れ悪い電信内容とか、室長が鬼みたいな形相で班長を追っ掛けてるのとか、そもそも、班長がアンさんを連れて逃げてるのとか…」

軽く腕組みして溜め息混じりに呟き、ジリアンは黒いセルフレーム眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。まぁ、そんなもの判った所で今の事件は解決せず、自分の行動に変更もないのだが、と内心言い置いてから携帯端末を開く。

「ともかく。今はまだカインくんの首が飛ばないよう、祈るだけかー」

  

   
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