■ 前へ戻る   ■ 次へ進む

      
   
   

番外編-9- ゴースト

   
         
(21)

     

「…アンくん一人か?」

蒼いのを通り越して血の気の失せた真っ白い顔でドアの隙間から滑り込んで来た少年に気付き、デスクに備え付けた頼りないスタンド一つという光源に浮かび上がった白衣の人影が、少し意外そうに、大いに訝しそうに呟く。

「…あの…はい。先に…行けって――」

淡い光が作る朧な輪のぎりぎり外側で足を止めた少年が、苦しげな息の下で細く答える。それがどうも気に掛かったのだろう白衣の人影…ステラ・ノーキアスは、褐色の肌にくっきりと貼り付いた形のいい眉のお終いを吊り上げ、ますます訝しそうに首を捻った。

「あのバカ。事情は後で説明するとか言っていたが、一体何をやってるんだ」

つい洩れた溜め息交じりの愚痴を耳にして、少年の細い肩が傍目でも判るほど大仰にびくりと震える。ステラのその言葉に実は大した含みなく、強いて言えば、駆け落ちだかなんだか知らないが大事な少年一人を走り回らせて銀色はどこへ消えたのかというものだった。

しかしながら、これが普段のアンであればそのくらい難なく看破しヒューを擁護するなり事情を説明するなりしただろうが、今日は、外見はどうあれ中身は二十年も引き篭もっていた「AI」だったから、当然初対面の彼女のぞんざいな口調と少々キツい物言いに怯んでしまって、それ以上に、今の状況に酷く緊張していて、しどろもどろに言い訳するでもなく大きな水色に不安を浮かべて項垂れてしまった。

「……」

その少年の様子をデスクに着いたまま眺めていたステラが、また奇妙な表情をする。

何かおかしいとは思う。そもそも、医療院勤めの他に軍医も兼任していて、それなりに訓練も積んでいて、様々な事情が絡んで虚勢だろうがはったりだろうが肩で風を切って歩かねばならない身分の彼女は、ファイランで言う所の「女性」とはまるで違う。しかも、あのヒュー・スレイサーと渡り合えるほどの気性の持ち主なのだから、当然、様々なスキルも高い。

正直な所、ステラはアンがプライベートルームに入って来たときから妙な違和感を抱いていた。見た感じ極度の緊張状態だから本来と纏う空気が違うのも当然なのだろうが、一概にそれだけが原因ではない「何か」があるとも思う。

しかし。

特務室においては密かに「女スレイサー」などと呼ばれ、治療が乱暴で有名な衛生部隊のチーフドクターよりも恐れられている彼女は、その違和感を敢えて流す事にする。

事情は、あの銀色に話させようと。

彼女は感じていた。

これまで幾度かステラに短い連絡を寄越していたヒューはしかし、アンが一緒だと一度も口にしていない。それなのに最後の最後で少年一人をここに送り込んで来たのには、やはり何が重要な「事情」があるのだろう。

「……その上で信用してると言わんばかりの行動など取られたら、裏切り難いじゃないか…」

未だ突っ立っているアンから視線を逃がしたステラは、デスクに頬杖を着いたまま小さく呟いた。連れているとも関係しているとも言わないくせに、判っていたんだろうと示唆する行動に平然と出る。事情は説明する。これは「単独」だと無言で押して来ていたのは、多分、少年は「巻き込まれただけ」というスタイルか。

どうせならもう少し馬鹿でいてくれた方が、可愛げもあるのに。とステラは諦めの溜め息を吐き出し、頬杖を解いて背筋を伸ばした。

あの男は、決して馬鹿ではない。頭の回転も、勘も良い。

しかしそれを押さえ込んで無茶苦茶な行動に出てしまえるほどに、頑固だ。

「それで結局、脳まで筋肉の馬鹿で不器用だと言って置きながら、あの迷いのない所にころっと絆されてしまうんだな、わたしは。まぁ、今回はわたしのかわいいアンくんが絡んでいるんだから、事情がどうあれ出せる手は幾らでも出してやるが」

と、苦笑混じりに自分を許す目的で言い捨てたステラは、もしかして自分はああいう不器用過ぎて人生に失敗するタイプのダメ男に弱いのだろうかと……灰色のグラデーションだけで描けそうなムカつく澄まし顔を脳裡に浮かべた。

「―――不吉…」

今度こそ盛大に溜め息を吐き出してがっくりと肩を落としたステラが、カウンセリング用に準備されている丸椅子を自分の傍まで引き寄せてから、怯えたような気配を発する少年に手招きする。

「とにかくここに座れ、アンくん。話はそれから…」

「あ…の! お願いしてた件は!」

「座れ」

名前を呼ばれたからなのか、反射的に顔を上げた少年が、身体の前でぎゅっと両の拳を固めて蒼褪めたまま絞り出すように言うなり、ステラは据わり気味に細めた翡翠から切れるような視線を送りつつ、ドスの利いた声でぴしゃりと言い切った。

当然、その迫力に勝てる訳もない少年が、びくりと肩を跳ね上げてからますます顔色を白くして、ふらりと倒れ込むように光の輪の中に入って来る。このままの空気を維持して会話し続けたら、あと一分も持たずに泣き出してしまうか卒倒するかだなと、ステラは妙に冷静に判断した。

そう判断したからといって対応を変えようと思わないのは、彼女が「女スレイサー」と呼ばれる所以なのだろうが…。

口を閉ざしたまま視線だけで追いかけて来るステラに居心地の悪さを感じながらも、少年は示された丸椅子にぽたりと腰を落とした。

その、俯き加減になった白い頬に、長い睫が淡い陰を刷いている。きゅっと噛み締められた桜色の唇と、関節が白くなるほど固く握り締められた両手。細い膝の上に揃えて置いたそれが極々小さくぴくりと震え、ステラは血の気の失せた指先に注いでいた視線を少年の小さな顔に戻した。

色の薄い、金髪。

女医から向けられる険しい視線に気付いているのだろう、所在無く揺れる厳冬の晴天を思わせる、水色。

「…アンくん」

ステラが銀色の所在を確かめようと口を開いた刹那、少年は瞼を閉じて頬を強張らせ、しかし、彼女に対峙するかのごとく、顔を上げた。

「…教えてください。アンディ・ベルスの事」

弱々しい、震える声だった。

しかし、きっぱりと持ち上げられた瞼から覗いた水色は、それまで含ませていた怯えという色を消し去っていて、一瞬ステラをどきりとさせる。

瞬きも忘れた大きな水色に見つめられて無意識に詰めていた息を細長く吐き出し、ステラは仕方がないといった風に短いオレンジ色の髪をがしがしと掻いた。肘掛けのない回転椅子に足を組んで、斜に置いたデスクに頬杖を突いた彼女は、逸れない視線から逃れるように顔だけを傾け、淡々とした口調で話し始める。

「アンディ・ベルスは、以前は王立大学院で食物学の教鞭を取っていたハイデン・ベルス教授の長男で、生まれ付き体内で免疫抗体を生成出来ない特異な病状があり、ここ、医療院の特別無菌室に収容されていた少年だ」

ステラから齎された、見た事もなければ会った事もないのだろうアンディについての一般的な事柄を、少年は思案するような表情のまま口の中で小さく繰り返した。反芻し、ふとその言葉に違和感を覚えたのだろうか、白い小さな顔に微か戸惑うような表情が浮かぶ。

「収容、されて、いた?」

過去形だ。

「そう。今は、もう居ない」

果たしてアンと見ず知らずの患者にどんな関係があるのかと思いながらも、ステラが重苦しく頷く。

「アンディ・ベルスは、七年前に病状の悪化と感染症による多臓器不全で死亡している…」

「―――死…亡…!」

抗いようもない事実を冷淡な口調で差し出したステラの無表情を見つめていた少年の双眸が、これ以上ないほどに見開かれる。膝に置かれた小さな拳ががくがくと震え、見る間に色を失くす唇を横目で見たまま、ステラはもう一度頷いた。

「享年二十歳。十五歳までは生きられないと言われていたらしいアンディにしてみれば、彼は十二分にがんばった…。些細な雑菌一つ体内に入ればすぐにでも命を落としかねない状況で、生まれてから一度も両親に抱き締められる事もなく、ビニールに覆われた小さな世界の中で…彼は短い人生を終えた」

人の手の柔らかさも温かさも知らないまま。

「……なんで…」

感慨もなく報告書を読み上げるように淡々と述べたステラの顔を凝視した少年が、掠れた声で絞り出すように呟く。

なぜ。

待っていてくれなかったのか。

なぜ。

自分は。

アンディは。

ロミーは。

「なんで!」

       

待たせてしまったのか。

    

握った拳を両目に当てて蹲った少年を一瞥し、ステラは短い息を吐いた。それが思いの他苦く、彼女の無表情も揺れる。

「運命だったとは言わない。医師は手を尽くした。居もしない神は無慈悲だと嘆くつもりもない。

五年間、アンディ・ベルスは抵抗した。それだけが事実だ」

言われて、瞬間、少年ははっとして顔を上げた。

見開かれた大きな水色に透明な被膜を張り、しかし零れ落ちる事のないそれに様々な感情を含ませて、ステラの横顔を呆然と見つめる。

「彼についての報告書の中で、看護師たちは皆一様に彼が誰かを待っていたと言っている。毎日遣って来る看護師に面会はないかと訊いていたらしい…。それが誰なのかは両親も知らなかったが、彼が息を引き取った後、両親はもしアンディの死を知らず面会に訪れた者がいたら伝えてくれと言い残していったそうだ」

ステラは一旦言葉を切り、息を詰める少年に視線を当てた。

      

「待たせてくれて、ありがとう。息子は、貴方に会うために辛い入院生活に耐え、最後まで希望を捨てずにいられた。惜しむらくは、最期に一目、貴方に会わせてやりたかった」

        

その言葉が偽善でないとは言い切れない。本当は、なぜもっと早く会いに来てくれなかったのかと詰め寄りたかったのかもしれない。

しかし、事実、アンディ・ベルスはこれ以上生きられないと言われたはずの五年間を、生きた。

握り締めていた拳を力なく開いて膝の上に落とした少年から視線を外さず、ステラは安堵にも似た溜め息を漏らす。

「両親はその誰かを恨んでいない。アンディ自身も、待つ事で最後まで病に抗えたという事を知っていた。彼が息を引き取る数日前に書いた日記には、一度も名前を明かさなかったその誰かに宛てた短い文章が残っていた」

ぱっと光の走ったデスクの上のモニターに表示されたのは、本当に短い一文だった。

         

「待てなくてごめんね…「ジャスパー」」

        

「この「ジャスパー」というのが何を指しているのか知る人はなかったが、当時の看護師たちの中で数名、アンディが、彼が「ジャスパー」を連れて来てくれると言っていたのを聞いていた連中がいた。彼が「そのコ」を連れて来たら、「ジャスパー」と呼んでやるんだと言っていたそうだ」

無言でモニターを見つめる少年の目からついに透明な雫がぽろりと零れ、震える手の甲で水滴が跳ねる。

それは。

「…ぼくだ…」

声にならない呟きが少年の唇を震わせる。

間に合わなかった。

何もせず、何も出来ずに唯々諾々と時の流れを受け入れていた少年は、間に合わなかった。今は最早アンディ・ベルスにロミー・バルボアの遺志を伝える事も叶わない。

それでもアンディは最後まで、ロミーと少年…ジャスパーを待ち続けていたのに。

「なんで……」

どうして。

待っていてくれなかったのか。

アンディは抵抗したのに。

ジャスパーは、抵抗しなかったのか。

どうして。

顔色を失くして震えながら絞り出した悲痛な声に顔を顰め、ステラがふいとアンから視線を逸らす。

「……詳しい事情は知らないが、後悔するなとは言わない。しかし、後悔しただけで終わらせるなよ、アンくん。もし君がその…アンディ・ベルスの待ち人だったとして…」

そこまで言って、ステラはまたも奇妙な違和感に眉を寄せた。

今まで何度も医療院を訪れていながら、ヒューもアンも「アンディ・ベルス」などという名前を出した事はない。今日まで知るはずがなかったのだから、それは当然の事なのだが。

しかもアンディが死亡したのは七年前、彼との会話に「ジャスパー」が出てき始めたのは、実に二十年近く前だと報告されている。どうあっても、その頃アンはまだ生まれてさえいないだろう。

ほろほろと両の目から大粒の涙を零していた少年が、ゆっくりと項垂れる。最早気力が抜け切ったように小さくなった肩を見遣り、ステラは疑念を胸に仕舞いこんで続けた。

「後悔は…」

「…イヤだ…。そんなの、判らない。でも、嫌だ…。苦しくて、辛くて、息が出来ない…。ぼくはじゃぁ、なんの為に生まれて、ここまで来たの? そんなの!」

「繰り返さないために、後悔しろ。アンディ・ベルスは、君にそれを伝えるために生きて、死んで、君はアンディ・ベルスからそれを伝えられるために生まれて、ここまで来た」

はったりだったのか、ただの思い付きか。しかしステラはその時本当にそう思ったし、それを…アン「ではない」少年に伝えなければならないと感じた。

目の前の少年は、「アンではない」。

「君は、約束を果たした。間に合わなかったかもしれないが、君は彼を裏切らなかったじゃないか」

言われた瞬間、少年がまたもはっと顔を上げる。

「だから、後悔しろ。次は、間に合うように足掻け」

力のある翡翠の瞳でじっと見つめられ、少年は息を詰める。様々な文字列が踊り狂う視界の中央に位置する彼女の挑みかかるような顔に、一瞬だけ、冷たい銀色が被る。

「君がそれを忘れなければ、アンディの生きた意味も、君がここまで来た意味も、なくならない」

ステラが言い終えるのと同時に、少年は丸椅子を蹴倒して立ち上がった。

  

   
 ■ 前へ戻る   ■ 次へ進む