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番外編-9- ゴースト

   
         
(22)

     

上級庭園は、庭園などと大仰な名前を頂いているにも関わらず意外に身を隠す場所が少なく、駆けずり回る警備兵を撒いて逃げるヒューには断然不利な場所だった。

そもそも貴族の屋敷が集まる上級居住区を総じて「庭園」などと呼ぶのだから、迂闊に姿を消せるような警備上の死角を作らずに構成されているこの場所は、一見すると花が咲き乱れていたり光の粒子を流れる水に見立てた噴水があったりするが、それらは殆どが良く出来た立体映像で、実際の障害物は少ない。入り組んだ通路の先を示す案内板や、無人フローターを呼び出すための通信ブースの他には、精々街頭の鉄柱が並んでいる程度だ。

こちらに気付かず遥か前方の辻を横切ったカーキ色の塊を認め、ヒューは咄嗟に通路を逸れて植え込みを模した路肩に飛び込んだ。そのまま、過ぎた警備兵とは逆方向に移動しながら、つい苦笑を漏らす。

乱れた息を整える間もなくうろ覚えのマップを思い起こし、目前に迫る誰かの屋敷を目指して静かにひた走る。鬼ごっこだなと詮無い事を考えて、しかも降参出来ないと締め括ってみた。

「―――鬼が多過ぎだ」

思わずうんざりと呟いたヒューが、いつもよりずっと近い場所にある星空を見上げる。微かに銀を散らしたサファイヤ色の双眸が、弱々しい星の光を拾って冷たく光った。

あの少年は、目的を果たせただろうか。最早確かめる術もなく、的確にどこかに追い込まれていると感じながらも抗うつもりなく策に嵌ったような顔をして、眼前に迫る屋敷に視線を戻す、銀色。

「ルー・ダイ家か…。とんだ皮肉だな」

こぢんまりとしたそれに見覚えがあってつい漏らし、では、もうここは上級庭園外れに近いのかと眉間に皺を刻んで、さっと周囲に視線を奔らせる。自分的限界まで意識を広げて辺りを探っても、追手の気配は今のところない。

当初闇雲に庭園内を走り回っていたように見えた警備兵の動きになんらかの意図が隠されていると気付いたのは、いつの間にか居住区外縁に近い場所に誘導されて、ぽんと現在地が判らなくなったという皮肉からだった。ヒューは別に方向音痴でもないし地図が読めない訳でもないのだが、ふとした瞬間、自分が「どこに立っているのか」という奇妙な疑問を抱いてしまった。

それが良かったのか悪かったのか、すぐさま見つけた案内板で現在地を確認し、ヒューは内心舌打ちしたものだ。

出来れば、庭園外縁…正確に言うならば医療院か…付近には近付かないでいたかったのだが、警備兵の裏を掻いたつもりで進むうち、すぐ傍まで来てしまっている。さりとて、わざとらしくここから急激に進路を変更して警備兵を二、三人かわし引き返せば、その行動自体を怪しまれかねない。

相手も動くものだから医療院へ多少の接近はあるにせよ、と考えていたヒューの期待を裏切ったのは、つまりその動き回る警備兵どもだと思い立った瞬間、ヒューは悟った。

嵌められているのはこちらだろうと。

「敵」は、全てを見ているドレイク・ミラキか。

とここでまさか、実はその警備兵をリアルタイムに誘導しヒューの進路を目的地、彼の一番近付きたくないと思っている医療院近くに追い込んでいるのがあのカイン・ナヴィだと思われて居ない辺りが、追手の勝機と成り得るのかどうかは、まだ判らないのだが。

それで、どこかに誘導しようというのならばそれに従い程々に時間を稼いでやろうと思ったのか、ヒューはその後目に付いた警備兵とは常に逆方向に進路を取り続けた。単純な予想として、その追い込む先にヒューが唯一攻撃して良いとしたキャロンを待たせているというのなら、途中で他の隊員に遭遇する可能性は、極めて低い。

というのもこちらの勝手な憶測なんだが。とまたも薄い唇の端に苦笑を滲ませ、ヒューはルー・ダイ家の敷地に回されたアイボリーのフェンスに沿って足早に進みながら、ちらりと腕のクロノグラフに視線を馳せた。

少年はもう、「彼」に会えただろうか。

そして、今は亡い「彼」の意思を伝えただろうか。

「―――それで俺は、何をしたかったんだかな…」

思わず洩れた自嘲の呟きに、「いたぞっ!」という野太い声が被った。

     

      

走って、走って。

ぽんと放り出されるように通路の起点か終点の集合、辻に現れた瞬間、ヒューは涼しい表情のまま内心盛大に舌打ちし、ミナミくらい記憶力が良ければこんな馬鹿な策に嵌らなくて済んだのにと嘆息した。

比較的広い辻に集結している、汗だくの警備兵たちを従えた威風堂々たるキャロンの、しかし緊張に強張った顔。見上げる事は決してないがしっかりと視界に入り込んで来るその表情を透かして見た白亜の建造物に、謂われない悪態を吐きかけたい気持ちになった。

きらきらと瞬く星空を背にしんと静まり返ったその場所に。

「医療院の前で騒ぎを起こす気か?」

爪先を向ける気などなかった。

「一般居住区からここまで騒ぎを起こしっぱなしの貴様に、そう言われる筋合いはない」

ぴしゃりと言い返されて、ヒューの頬がつい緩む。

「律儀な答えだな」

余裕綽々の、まるでからかうような返答が気に食わなかったのだろうキャロンの眉がぎゅっと吊り上がった。

正直、いきなり殴りかかって来ない彼女の潔い態度に、ヒューは腹の底から笑いが込み上げて来るのを感じる。こんな状況でなければ天晴れと拍手くらいしてやりたいが、それをやったら今まで以上の不興を買うのは目に見えていたから、ぐっと堪えた。

堪えたのだが…。

「条件の変更を求める、スレイサー衛視」

いっときもヒューから視線を外さないキャロンが固い声で宣言し、銀色が微か片眉のお終いを上げて小首を傾げた。

「貴行からわたしへの攻撃を許可する。だから、落とさせろ」

「………」

つまりは遠慮なし、本気で遣り合えと言われてヒューは瞬きをやめ、周囲を固めた警備兵から密かなどよめきが上がる。

平坦な視線で見つめるキャロンは、言いたい事を言って満足したのだろう、先までの固い表情を消し薄く笑っていた。なるほど、あの緊張は別に自分と対峙したからではなく、腹に抱えていたこの宣言を邪魔されないためのものだったのかと思った途端、堪えに堪えた笑いが喉元を突き上げ、ヒューはついに腹を抱えて吹き出してしまった。

ヒューとは別方向にぎょっとして蒼褪めていたキャロンの同僚たちが、呆気に取られて大爆笑の銀色に視線を移す。この男がこんなに笑っているのを見たのは、初めてかもしれない。

「判った。好きにやれ、俺もそうさせて貰う」

未だ笑いの残る口元を手で覆ったヒューがようやく息を吐いて言うと、キャロンは今度こそ満面の笑みを見せた。逆に、周囲の兵士どもは悲壮な悲鳴を上げ、数名が踵を返して慌しく走り去って行く。

「では、ちゃっちゃとやろうじゃないか、スレイサー衛視。隊長殿がここに辿り着いて止められたら、厄介だ」

「ああ、そうだな」

キャロンを斜に構えて素っ気無く吐き出されたヒューの返答が、合図だった。

       

        

すっと沈んだ頭部が横ブレも起こさず滑らかに前進するのを一呼吸見つめてから、ヒューは無造作ともいえる動きで右肩を後ろに開きながら右足を引き、軽く仰け反った。たったそれだけでびゅんと空を切ったキャロンの拳をかわし、必然的に前に出る恰好になる左手を鋭く跳ね上げる。

リーチは短いが恐ろしく速い掌底が突き上げて来たのに、キャロンは空振りの拳を引き戻さず咄嗟に折った肘に力を込めて真下に振り下ろした。ぱあん! と派手な音が緊張と静寂に支配された辻を引き裂き、ギャラリーから喉の奥が軋むような悲鳴が洩れる。

それに一瞬、キャロンが顔を顰めるようにして片目だけを眇めた。薄く広く肘を中心にした痛みがさっと腕に走り、直後、反射的に逃げようとしたそれを節の高い指が柔らかく掴む。

瞬間、キャロンはぎゅっと奥歯を噛んで更に肘を畳みながら腕を自分の身体に引き寄せ、掴み取ろうとするヒューの手から斜めに引き抜いた。その刹那で既に、背中に嫌な汗が出た。

その、浅い痛みの直後に来たふんわりとした感触に、背筋が凍る。なんだこの男は! と内心彼女が震え上がった。

ぱっと退かれて所在無く空中に残った自分の手に、ヒューがちらりと視線を落としてから薄く笑う。しかしその、おや、とでも言いそうなその表情に、誰もが恐れを成しただろう。

たった半歩。軽く腕に触られただけで、彼我の差は歴然か。派手な音。ダメージにもならない羽毛のような感触…。それで次に肘の腱を絞められたなら、それは不意打ち以上の「痛み」をキャロンに与えるだろう。

強烈な痛みを与え続けてさっさと降参させる手もある。しかしヒューはそれを選択せず、唐突な一撃でキャロンの気持ちを怯ませようとしたのか。

一手目から駆け引き全開だ。

ここで退き続ければあっという間に圧されて終わると判断したのか、表情を険しく塗り替えたキャロンは腹腔に力を入れて再度前傾姿勢を取り、未だ突っ立ったままともいえるヒューの懐に踏み込んだ。

刹那、それを待っていたのだろうか、前に出ていた左の爪先がキャロンの脛を急襲。体重を乗せ変える間もなく靴裏を当てて斜めに蹴り上げられ、彼女が不安定に上半身を浮かせて後ろによろめく。

そこでようやく、ヒューの銀髪がさらりと踊り、その長身が垂直に沈んだ。

格段にリーチを伸ばしたローキックが踏鞴を踏むキャロンの両足を払おうと高速で流れる。それを避けて重心を後ろに倒した彼女は更に数歩後退し、空振った足払いの勢いで回転しながら立ち上がった銀色の放つ裏拳が、極端に色の薄い金髪を掠める。

完全に後ろに体重を乗せていた状態で仰け反ったキャロンは結局、堪え切れずにその場にどすんと尻餅を突いてしまった。幾ら肉付きが良くてもこれは痛い。思わず喉の奥から獰猛な唸りを発しつつ顔を顰めて、でも、素早く気持ちを切り替え立ち上がろうとした。

その頭上に、ふと影が差す。

キャロンは状況を判断する前に、地面に置いていた腕を折って身体を真横に投げ出した。

またもギャラリーから悲鳴が沸き、二、三度転がってなんとか体勢を立て直した彼女は弾けるように立ち上がってから、びしりと…これ見よがしに長い足を振り上げたままのヒューに指を突きつけた。

「貴様! いくらなんでも乙女の顔面に踵をくれようとは、どういう了見だ!」

「……。お前は、本気で遣って欲しいのか? それとも手加減して欲しいのか?」

いや、乙女はねぇだろ。と、ミナミならば絶対突っ込むような事を堂々とほざいたキャロンにうんざり顔を向けたヒューが、ようやく足を下ろす。

「本気でやれ、わたしを舐めるな! だが常識は弁えろと言っている!」

結局どっちだよ。と内心嘆息したヒューが肩を落とす。

しかし、ギャラリーの見解は満場一致でキャロンに軍配を上げた。幾ら本気で遣れと言われたからといえども、殆ど抵抗出来ない体勢の「女性」にネリチャギを繰り出すのはどうかと思う。

「正当な打ち合いでもすれば気が済むのか?」

ヒューが独り言みたいにぶつくさ言うと、キャロンは満足げに何度も頷いた。仁王立ちで腰に両手を当てた偉そうな態度で…。

「…何のための勝負だか、さっぱり判らんな」

微妙に面倒そうな口調でヒューが呟く。

「まぁ、実の所なんでもいいんだが、俺は」

そう。

もう少し時間さえ稼げれば、ヒューには勝敗など関係なかった。

  

   
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