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番外編-9- ゴースト

   
         
(23)

     

突然立ち上がって駆け出したアンを追って、ステラもまた開け放たれたドアから廊下に飛び出した。一体何がどうなっているんだ! と内心吐き捨てるも、全力疾走する少年の背中を見失わないように全神経を注いでいたから、言葉にはならない。

滑り易い廊下を駆け抜けた少年は、エレベーターではなく非常階段室に飛び込んだ。遅れてそこに辿り着いたステラは耳を澄まし、足音が下へ向かって遠ざかっていくのを読み取る。

「こうなったら、最後の最後まで付き合ってやる!」

暁色の眉根を寄せて忌々しげに絞り出した彼女は邪魔なハイヒールを蹴飛ばすように脱ぎ捨て、迷わず階段に飛びついた。

転がり落ちる勢いで狭い非常階段を下り切り、深夜に近い時間、見回りの看護士も見えない廊下に飛び出して、広い通路の前方に見える華奢な背中を追う。まるで疲れなど知らぬように速度を落とさないままロビーを引き裂く姿に彼女は、背筋の震えるような鬼気迫る物を感じた。

しかしまさかそれで怯むつもりなど微塵もない彼女は、額に汗を浮かべて廊下を突っ走り、既に受診時間が終わり固く閉ざされたドアの前で踏鞴を踏んだ少年を捕らえるべく速度を上げた。酷い息切れと胸の苦しさに、今度から少し体力もつけておこうと詮無い事も考えた。

その時彼女は油断していたのかもしれない。どうせ、大仰なスライド式のドアは押しても引いても叩いてもその口を開けはしないと。分厚いガラス製のそれはしっかりと足元で施錠され、おまけに電源が落とされているのだから、常識的に考えるならステラの予想が外れる訳はない。

あくまでも、常識的な日常であれば、の話だが。

そのステラの常識は、次の瞬間あっさりと引っくり返された。

激突するような勢いでスライドドアに両方の掌を押し付けた少年の頭上が、突如淡く光る。それは暗闇に滲んだ街灯の光にも似ていたが、不自然に横に細長く、朧な輪郭の中心に金色の何か…みみずののたくったような文字? 記号?…が見えて、ステラは首を捻った。

例えばそれが電脳陣だったとしよう。電脳魔導師と呼ばれる一部の特異体質者たちだけが操る不可解な魔法を、少年は使う事が出来る。魔導師というカテゴリーで考えればそのランクは低いらしいが、一般人には成し得ない不可思議な現象を起こす事が、少年には出来る。しかし、それはステラの聞く…知る…電脳陣にはあるまじき形状をしていた。

何せ、真円でない。なぜあの「陣」というものがサークルでなければならないのかステラは知らないが、アレは「円という制約を受け解ける事を厭われて囲まれていなければ稼動出来ないと定められている」のだと、彼女の知人は言っていた。

しかし、目前に迫った少年の頭上で弱々しく輝き、無音のまま内側から爆発して飛び散ったそれは、確かに水平線上に並んでいたはずだ。

少年は、素足で床を叩きながら追い縋って来たステラに気付いているはずなのに、振り返る素振りは見せなかった。爆裂したのに未だ周囲に留まる光の粒子を睨み上げ、固く口を閉ざしたドアに掌を押し付けているだけで、今はぴくとも動かない。

待合室に並んだ椅子の群れを過ぎたところで、ステラはようやく歩を緩めた。これで説明させる事がまた一つ増えたと我知らず深い息を吐いた瞬間、少年がガラス製のドアを押さえつけていた手をゆっくりと身体の脇に下ろす。

「ア……」

呼吸を落ち着けて、暗闇にぼうと浮かぶ色の薄い金髪にステラが声を掛けた、刹那。

重たく冷たい。

外界と、静か過ぎで清潔過ぎる内側(なか)とを隔てる、重たくて冷たい。

ドアに。

左から右へ、まるで見えざる指先がさらさらと何かを書き綴るように滑らかに、純白の光に縁取られた金色の文字が瞬く間に描かれた。

          

        

見た目の印象だけならば一進一退の攻防戦というという具合なのだろうなと、握った拳の内側にじっとり粘つく汗と焦りを隠して、キャロンは思った。

まるで型通りに攻撃が誘い込まれていると判ってもどうする事も出来ない歯痒さに、苛立ちが募る。繰り出す打撃はことごとく捌かれ、体勢を整えようと間合いを取れば懐まで差し込まれる。ならばとセオリーを無視して強引に仕掛けても、目前の銀色は焦燥一つ見せずに涼しい顔でそれを受け止めてくれるのだ。

殆ど闇雲とも呼べる勢いでキャロンの繰り出す打撃は、退いているようにして完全に優位をキープしたままのヒューの手足にヒットしてはいた。しかし、それが決してダメージになり得て居ないというのは、彼女の迫力に恐れを成している同僚たちよりも本人こそが一番身に染みているだろう。

正攻法の打ち合いが始まってから既に数分、キャロンが苦し紛れに跳ね上げた爪先はヒューの脛を捉える直前で、急上昇した足の甲に阻まれて、またも掬われる。

キャロンは真後ろに押された重心を立て直せず、倒れると判断した。だったら自棄だと無造作に両腕を伸ばし、空中にあるヒューの手を引っ掴もうとする。あわよくば巻き込まれてすっ転んでしまえ! と思った彼女の思惑は、両腕を同時に軽く払い除けられた瞬間、潰えたが。

まさかそれで何度も尻餅を突くのも癪に障るので、キャロンは咄嗟に身体を捻ってその場に転がった。転がりつつ間合いを取り、最早言語を越えた悪態という名の獰猛な唸り声を発しながら果敢にも跳ね起きて、構えを取る。

元より勝気な所がある彼女は、目の前が真っ赤になるような怒りに大きな身体を震わせた。何せ、上手い具合に捌かれている。ボディに大したダメージがないのが、遊ばれているようで死ぬほど悔しい。

「……わたしは、本気で遣れと言った筈だ。本気で…遊んでくれと言った覚えはない!」

既に何が目的だったのか忘れかけているキャロンの軋むような唸りを相変らず涼しい顔で受け止めた銀色の表情が、一瞬だけ冷える。その、自分の頭上から逸れない不気味に光るサファイヤ色の双眸を睨んでいた彼女はこれ以上ないほどに目前の男に集中していて、だから、周囲の空気がずしりと重苦しく沈んだのに、気付かなかった。

不意に。

それまでキャロンに対して斜に構えていたヒューがすっと重心を下げ、その場で右足を引いた。緩やかに持ち上げられた両の手が柔らかく拳を作るのを呆然と見つめて、キャロンは急に…思い出した。

そう。

ヒューは今まで一度も、あの拳を見せなかった。

何度か掌底で腕や足を払われたが、あの長い指が握り込まれたのは、初めてだ。

だからようやく銀色が本気になったのだと…彼女は、そう、思った。

         

刹那、唐突に、空気が変わる。

        

明らかに全てを圧するびりびりした緊張に、声を発する事も身じろぐ事も出来なくなる。

それは今まさに目前の銀色に再三飛びかかろうとしていたキャロンの動きさえも制し、気丈な彼女の顔色さえ無くさせた。

それほどまで強烈な「怒り」に満ちた気をしかし、向けられたヒューは薄笑みでさらりと受け流す。判っている。何にせよ、「お終い」は必要だ。

そして多分ヒューがその「お終い」を…クラバイン・フェロウに求めた事に、彼は気付いている。

硬直したキャロンを追い越し大股で近付いて来るクラバインの無表情を睨んだまま、ヒューはゆっくりと呼吸した。吸って、吐き、腹腔に力を蓄え。

クラバインが、歩きながら両腕を差し上げて拳を握り。

ふと。

足を止めた瞬間。

          

頭上から抑え付けるような闘気が緊張に沈んだ辻を刹那で制圧し、誰もが震え上がった。

        

手加減など考えも及ばないのだろう水平に繰り出された右の拳をヒューは左に深く踏み込みながら仰け反って避け、肩の高さに据えていた腕で目前を掠めるクラバインの肘をへし折る勢いの打撃を繰り出した。

しかし、ヒューの胸元を抉るはずだった正拳はあっさりと軌道を逸らして大きく右に外れ、その腕を追った一撃は空を切る。

それが、同時に相手の動きを読んで回避と攻撃に転じた結果だったのか、クラバインとヒューは逸れ違い様螺旋に身体の軸を捻って、完全に関渉した状態で背中合わせに半回転した。ざっ! と擦れ合った背中が篭った衣擦れを上げ、クラバインは咄嗟に振り上げた左腕の先端を大きく後ろに反らして背後を通り抜けようとするヒューの後頭部を狙い、ヒューは折った肘をクラバインの脇腹に突き刺そうとする。

瞬きする間もなく二合をかわし、その二合目をそれぞれ掠らせたのだろう二人が背中合わせのまま間合いを取り、向き直ってまた睨み合う。

それはまるで荒々しさも冷徹さも、感情の欠片さえ見せない落ち着いた動きだった。例えばクラバインが激昂し罵りながら、例えばヒューが言い訳の一つもしながらであったなら現実味のある「殴り合い」だと理解出来たのかもしれないが、乱れた呼気の一つもないそれは、現実離れしすぎている。

だから、滑るように移動して繰り出した腕や脚を腕や脚で受け即座に攻撃に転じるそれを、周囲の人間は予定通り事の進む「型」のようなものだと感じていた。それほどまでに二人の表情は動かず、それぞれの攻撃が決定打にもならないからだ。

リーチは短いが肩の入ったクラバインの拳が水平に奔り、攻撃を防御に転じたヒューの咄嗟に顔の横に翳した腕をまともに捉える。それでまさかよろめくような無様を銀色は晒さなかったが、払うように押し戻した上官の握り拳はいつ裂傷が出来てもおかしくないほどに腫れ上がっていた。

そうすれば当然、それだけの打撃を身体に受けているヒューにしても、無事な訳はない。事実、集中し過ぎて痛みは忘れ去られているのだろうが、銀色はクラバインの剛拳を腕や脚に相当数食らっている。

一歩も譲らず圧し合うヒューとクラバインを見つめるギャラリーは、最早小さな囁き一つ漏らさずにいた。水を打ったような静寂に息を詰め、決して派手な打ち合いではないが満ちた気迫が薄れる気配もない「死闘」を、凝視している。

まさに。

お互いが温く相手の降参を待っているのではないと、一合目から誰もが気付いていた。クラバインは確実に急所だけを狙っていたし、ヒューもまた容赦なくそれを突いている。

そしてそれ以上に。

羨望を通り越し恐怖さえ感じた。時折格闘訓練に顔を出すヒューの強さは周知の事実だったが、今目の前で繰り広げられているそれは、訓練での彼自身が拙く思えてしまうほどのキレとスピードを開始直後から保っている。しかも、相手は室長などと事務屋のように呼ばれている特務室のトップなのだが、これが…。

実力が拮抗しているといっても言い程に、ヒューに圧されないのだ。

クラバインが、鋭く繰り出される拳を掌底で叩き払い、意識が腕に向いている隙を突いて膝で蹴り上げる。ヒューはその膝の一撃を払い除けられた腕を急落させて防ぎ、同時に突き出した肘で空いたボディを狙う。

どちらも決して低くはない身長と長い手足の利を殺すように小さく纏めた攻撃は、一見窮屈そうに見えた。しかしそれが実は大振りの打撃によるバランスの崩れを警戒したと気付けたものは、その場に何人居たのか。

一瞬気が逸れれば、それだけで終わる。崩壊寸前の高い緊張を保った攻防こそが、スレイサー道場で共に学んだ者同士の選んだ手段だった。

その張り詰めた空気にアテられて、巻き込まれ、冷気を纏った熱戦をただ呆然と見つめるだけのギャラリーはだから、気付いていなかった。

そこだけ別世界のように固く凝った辻に向けて、二つの異なった「終わり」が近付いていた事に。

        

      

御伽噺の魔法使いみたいに手も触れず重たいガラスのドアを開け放った少年は、荒れ狂う文字列の只中、一点だけを目指して走った。

       

       

ようやく最後の仕上げを終えて切羽詰る訳でもなく、悠々と上級庭園に踏み込んだ「彼ら」は、報らされていた医療院前の辻に集まる兵士の背中を眺めつつ、ゆっくりとその場に近付いていた。

       

       

そして。

        

          

振り抜いたクラバインの拳がヒューの銀糸を掠り、追随する銀色の腕が伸びきった上官の腕を捉えて圧す。まるで突き飛ばされるようにして身体を離されたクラバインが一旦間合いを取ろうと軽く脚を引くのとほぼ同時に、二人を囲む、折り重なった兵士の輪が唐突に崩れた。

そこから現れた色の薄い少年に、クラバインは驚かない。そんなものは、今、問題ではなかった。

「やめて!」

悲鳴にも似た声に、ようやく少年に気付いたのだろう兵士たちがたじろいだ瞬間、クラバインが退いた隙を突いて踏み込んで来るはずのヒューがぐっとその場に踏み止まる。握った拳も満ちた気概も崩れない銀色の肩越しに駆け寄って来る少年を捉えたまま、スレイサー道場師範代の称号を頂いていた男は、容赦なく相手の懐に飛び込んだ。

のと同時。

「もうやめてっ!!」

完全に一歩斬り込み、肩の入った水平打撃をヒューの側頭部に突き刺そうと足腰に力を込めたクラバインと銀色の間に、少年の華奢な身体が割り込んだではないか。

瞬間、誰もが悲鳴にもならない声を上げる。間合いもタイミングもしっかり極まった一撃は既に開始されていて、だから、その手加減のない拳はヒューではなく、転がるように走り込んで彼に抱き着いた少年の頭部に襲い掛かった。

ガツッ! っと硬いもの同士が激突する轟音の後、一拍遅れて、どさりと柔らかいものが倒れ伏す音。

確実にヒットし、そのままの勢いで拳を振り抜いたクラバインがまるで信じられないものでも見るような蒼白な顔で眺め下ろした先には。

あまりの驚きに涙も引っ込んだのだろう、呆然とした表情の少年の頭部を胸に抱きかかえたまま、ロクな受け身も取らず地面に沈んだヒューが転がっていた。

「あ……」

色の薄い金髪を護るように置かれていた手がぱたりと地面を叩き、正気を取り戻したのだろう少年が小さく声を上げる。それから、のろりと身を起こして倒れたきり起き上がる気配もないヒューの傍らに座り込むのを、誰もが息を詰めて見ていた。

痛いほどの静寂。

当惑。

ヒュー・スレイサーはその時。

咄嗟に少年の胴体に腕を巻き付けて引き寄せ、迫るクラバインの拳の前で身を屈めたのだ。

覚悟の上だったのだろうか。少年の安全を優先し回避しなかったクラバインの拳はヒューの頭部を直撃し、結果、銀色は今足元の地面に倒れ伏している。

「…これはまた、随分と派手にやりましたね、室長」

「うん。さすがのヒューも落ちたしな」

全てが凍り付いたその場に不似合いな暢気な呟きは、医療院とは反対側の車寄せから姿を見せた、ハルヴァイトとミナミのものだった。

  

   
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