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EX+1 ほろ苦ストロベリ

   
         
(3)

     

『ラスへ

ラスのうそつきっ!

実力テストなんか一夜漬けで楽勝だなんて言うから、前の日だけロイに勉強見て貰ったけど、全然ダメだったじゃないか!

でも、帰って来てすぐに同じ事をロイに言ったら、自分たちはいつもそれで大丈夫だったって…。

ラスもロイも、あんなに難しいテスト一夜漬けでいつも学年トップだったなんて、どっかおかしいんじゃないの!

マキ』

         

         

微妙に複雑な気持ちを抱えて、ジンは一人図書館の学習室を訪れた。ここには多くの参考書や資料集のディスクが隙間なく詰め込まれたラックと読み取り端末の他に、ずらりと二人掛けの机が並んでいてそれぞれ仕切られており、小さな話し声とペンの先端がデスクを叩く音しかない、いつでも静かな場所だ。

別に興味はなかったが、なんとなく都市計画学の論文でも読んでみようかと思い立ったジンは、普段ならば歩き回る事のないラックの間をゆるゆると彷徨っていた。

暫し、目的の論文を探そうと上下左右に視線を動かし、ラックとラックの隙間を覗き込んで分類を確かめていたジンの足が、不意に停まる。

広い学習室には数名の生徒しか見当たらない。自由学習の日こそ使うべき部屋はしかし、余りの静かさに敬遠される衒いがあった。質問も回答も必要以上に潜めた声で行わなければならないものだから、意外に不便なのだろう。

ぽつりぽつりと点在する生徒を見るともなしに見ていたジンの視線が吸い寄せられたのは、ラックの先頭と横並びになった列にぽつんと輝いている、明るい金色。離れた場所に切られた大窓から差し込む光に縁取られている。

なぜなのか、見間違いようもないと思ってしまった、鮮やかな金髪。

ラックに並んで置かれている大きなディスカッション用のテーブルを超えた向うでちらりと揺れたそれから視線を逸らせないまま、ジンは論文の事など忘れてその場を抜け出した。

仕切りの上で微かに揺れる金。緩やかなカーブを描く光。目を離したら、瞬きしたら消えてしまうかもしれないと詮無い事を考えつつ、その金色が撒き散らすきらきらとした輝きを見据えたまま、ジンは足音を忍ばせて円卓を回り込んだ。

徐々に歩み寄り机の下に投げ出してある爪先も見え始めると、ジンは益々息を詰めて、衣擦れさえ厭うようにゆっくりとその少年に近付いた。周囲には、やはりと言うべきか、友人らしい者の姿はない。

ジンは静かに一つ深呼吸すると、なるだけ物音を立てないように気を配りつつ、静かに仕切りの向うへ踏み込んだ。

瞬間、なぜか、長い睫に縁取られた碧とばっちり視線がぶつかる。

仕切りから頭のてっぺんしか見えないような小柄な少年が、まさか、足音を忍ばせて近付いた自分に気付いていると思っていなかったジンは、まるでいたずらを見つかった子供のようにぴくりと肩を跳ね上げ、その場で硬直してしまった。

注がれているのは、射竦めるような強い光。様子を窺っているのではなく、事実を確認しようとするかのようなある意味平坦な眼差しは、ジンを見上げる低い位置にあるにも関わらず、威圧的に見下ろされている、そんな錯覚を少年に抱かせた。

実際のところ、仕切りに挟まれていた少年…マキは、腐ってもマキ・スレイサー、局地的には絶対的知名度を誇る武人だったから、ジンがラックの間をゆるゆると歩きながら近付いて来た時点で、それに気付いていた。

しかし誰なのか判らなかったから、マキを窺いながら爪先を向けて来たのに、警戒したのだが。

目の前の少年が目的の人物ならば、俯いているところに奇遇だねと声を掛けようとしていたジンの出鼻は、完全に挫かれた。そもそもそんな安っぽいナンパみたいな行動など取った試しがないのに、思い付きだと自分に言い訳する間もなく実行してしまったものから、イレギュラー的失敗に対処も出来ない。

それで自然と見つめ合ったまま数秒。

黒髪…よりも色褪せた感じの濃い灰色の髪と、黒い細フレームの眼鏡越しの切れ長の双眸といういかにも頭の良さそうな顔立ちが記憶に甦ったマキは、一瞬で周囲を圧した気配を散らし、愛らしい顔をぱあっと明るい笑顔で飾った。

あ! と。

もしもそこに音声があったなら聞こえていただろうそれを表情から読み取ったジンも、刹那で緊張を解く。瞬き数回分の不可解な攻防など忘れさせる、その笑顔。

「勉強…かい?」

なぜか、なぜなのか、先日リックに咎められた厳しい口調の事を思い出し、ジンは語尾を不自然に上げた。ぎりぎり質問の範囲に踏み止まったというおかしな話し方ではあったが、マキは気にした風なくこくりと頷く。

ふうんといつものように関心なさげな相槌を打ってしまって、ジンは内心慌てた。そうではなく、出来ればここはリックのように気安い会話を継続させたいのだと自分に言い聞かせるも、やはり慣れていないからか、次の言葉が出てこない。

それでなんとなく視線を泳がせたジンの視界に飛び込んだのは、マキの手元に広げられている一枚のデジ・ペーパーだった。極薄い紙状モニターの上部機構部分…データ受信装置…に刻印されている名前は知っているものだったが、少年が極自然な歩調で机に近付き、その氏名部分をすらりとした指先で示す。

「マキくん?」

やや身を屈め、きょとんとしている碧を覗き込むように囁けば、返るのはやはり、答えではなく満面の笑みと、頷く仕草。

「僕の事、覚えているかい」

指先だけで触れていた机にゆっくりと掌を置き、今すぐここから立ち去るつもりはないと暗に示しつつ小首を傾げて見せると、マキは大きく頷きながら窓を指差した。

「そう。きみが、頭の上から降って来た」

その時の何を思い出したのか、マキは水平に上げていた腕を下ろしながら上目遣いにジンの顔をじっと見つめ、それから、微かに肩を竦めて桜色の唇を緩く綻ばせた。恥ずかしがっているのいるだろうか。さすがにこの複雑な表情の意味はジンには汲み取れなかったが、とにかく、今マキが少年を迷惑がっていないというのだけは判った。

「僕は、教養クラスAの、ジン・エイクロイド。君と同じ、中等部の二年生だ」

あの日、リックの問いに答えてマキがしてみせたように、ジンも自分の徽章を指差す。その指先を凝視し、示されたのが自分と同じものだったのに、マキの碧が零れんばかりに見開かれる。

驚き。まさか、同い年! とでも言うようなその表情を。

            

ジンは、極自然に沸き上がる感情に任せて唇を綻ばせ、柔らかに笑った。

      

もしその場にリックが居たならは、彼は腰を抜かしたかもしれない。ジンの、元より冷たい印象の整った顔を飾る表情は、動かない無表情か蔑んだような冷笑、それと、柳眉のお終いを微かに吊り上げる苛立ちくらいしかなく、こんな穏やかなものは皆無だったのだから。

「それはこちらの台詞だな、マキくん。君が同級生だと知った僕らの驚きを、是非とも説明してやりたいよ」

わざとのようにがっかりした声を出せば、マキが慌てて首を横に振る。落ち着いていて大人っぽいジンと自分が同い年だというのに驚いたのだと、どうやって説明していいのか判らなかったのだろう少年は、俄かに眉をひそめて哀しげな顔をした。

それにまた、異例中の異例か、ジンが慌てる。いじめるつもりはないのに、そんな顔をしないで欲しいというところか。

「ああ。え…と、それじゃぁ、おあいこだ。僕もきみも驚いた。でも、今誤解は解けたのだから、それでいいだろう」

マキに不安を与えないように慣れない笑顔を作り、ジンはすっと右手を差し出した。

「クラスメイトではないけれど、これから同じ校舎で同じ年数学ぶ者として、よろしく、だね」

差し出された手とジンの顔の間で視線を一往復させてから、マキはまたぱっと笑顔を作って立ち上がった。

机を挟んで、固く握手を交わす。

マキは、薄く微笑んだジンの顔から、一度も目を逸らさなかった。

その時ジンは、やはり失念していたのか。生まれてこの方十四年。例えばその場凌ぎであっても、ジン・エイクロイドが自ら握手を求めた事は一度もなかったのだ。

別にそうしようと思った訳ではなく自然に握手する恰好になったのは、マキが「エイクロイド」の名前に無反応だったからかもしれない。二人が同い年だというのには酷く驚いていたが、それ以外には興味がないようだった。

しかし、とも、握手を解きながらジンは、心のどこかで考える。

しかしマキが、ジンがあの巨大カフェ・チェーンの御曹司だと知ったら、どうなるのだろうか。純真無垢な笑顔が失われてしまうのだろうか。だとしたらそれは。

          

謂われない失望。

          

かもしれないなと。

そんなもの、杞憂に過ぎないのに。

正直、この場でジンが自分の素性を明かしても、マキはどうも思わないだろう。というか、「たかが」カフェ・チェーンか。もしそこで少年が口を開いたとしたら、それがどうかした? くらい言うかもしれないけれど。

それはジンのものではない。今は両親のもので、いつかジンのものになるのかもしれないが、今の彼はただの学生に過ぎない。

更に、お金があって贅沢が出来る事が幸せだと、マキは思っていないのだ。

生きていくためにはお金が必要だと、それはマキにも判っている。だから当然、ないよりはあった方がいい。しかし、お金は全てではなく、地位や名誉は全てではなく、それを幸せだと思う人間も大勢いるかもしれないが、マキは絶対にそうではない。

微かに沈んだジンの気配を目敏く感じ取って、マキはことりと首を傾げた。なに? 心配そうな色を含んだ碧に見上げられて、佇む少年が静かに首を振る。

「いや…。勉強の邪魔をしてしまって、すまない」

それじゃぁがんばって。と言い置いてその場から逃げようとしたジンは、しかし、見てしまう。

「―――…八点?」

何気なく視線を落とした机の上に広げられたデジ・ペーパーに表示されていたのは、他でもない、先日終わったばかりの、数学の実力テスト。全て埋め尽くされた解答欄にはしかし、ものの見事にバツが並んでいたではないか。

「…………」

思わず見つめ合う、ジンとマキ。

それから、もう一度視線を落として恐る恐る確認すれば、一際大きく書かれたバツの後に、再提出、と神経質そうな文字で殴り書かれている。

その全体を視界に納めて、ジンは唖然とした。ここまできっちりと解答欄を埋めているのによっつしか正解がないとは、呆れる前に感心する。

ジンの醸し出す呆れた空気を読み取ったのか、マキは慌ててデジ・ペーパーを両腕で覆うと、更にその上にばったりと突っ伏してしまった。眼下で散った金髪の隙間、微かに覗いた小さな耳が可愛そうなくらい真っ赤になっていて、思わずジンの方が申し訳ない気持ちになる。

そもそも、実力テストにおける実技クラスの平均点は教養クラスの七割に満たないが、それにくどくどと説教する教諭はいない。何せ、同学年でありながら二種類のクラスは完全に性質が違う。教養クラスはとにかく成績優先で、スキップ上等、教諭を論破して幾らの頭でっかちでいい。

逆に、実技クラスの生徒は学力以外の部分で選出されて来る。多少成績が悪かろうとも、ファイラン全土で人気のホッケーで将来有望となれば、セントラルには入学出来る。

それで、そんな生徒たちが同じテストを受けるのだから、実技クラスの成績が大目に見られていても、全く問題ないと思うのだが…。

それでも、再提出って…。

そういう制度もあるんだな。などと、数学の答案のバツがマキの答案のマルより少ないジンは、変な所で感心した。

「…数学、苦手なのか?」

最早同情めいた小さな声に、机に突っ伏したままのマキが弱々しく何度も頷く。濃紺のブレザーに散った金髪が、眩しいくらいにきらきらした。

ジンはなんとなく、その金色の振り撒く光を見ていた。

緩やかなカーブの先端からあちこちに撒き散らかされる、小さな光。

僕が教えようか?

と、内緒話をするように呟いたジンはその直後、バネ仕掛けみたいな勢いで顔を上げたマキの、零れそうに見開いたびっくり眼と、その後にやって来た全身から滲み出すような「嬉しい」を纏った笑顔に、心の中で、ホールドアップした。

  

   
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