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EX+2 最強ロリポップ

   
         
(4)

     

『セイルへ

実技の時間はやっぱり楽しいです。

だけど、また試験があるのでそっちは憂鬱です。

なんでセントラルって、あんなにテストばっかりしてるんだろうね。

でも、殆どの教科をジンとリックが見てくれる事になったので、今回は再提出とかないよ、絶対!

勉強会には、委員長も参加するんだって。週末に友達と会うのは初めてだから、ちょっと緊張します。

マキ』

       

       

なんとなく釈然としないような、魂を抜かれたような気分でコートを辞したカナメが、壁際に並べた荷物の中からミネラルウォーターを取り出して床に座り込む。

あれは反則だろうと内心苦々しく思うも、反面、妙な高揚感と程よい疲労で身体が軽い。それはカナメに、長く忘れていた「闘う楽しさ」を思い起こさせる、そんなふわふわした気分だった。

あちらこちらで思い思いの姿勢を取って休む生徒たちをぼんやりと見回し、カナメはなんとなく溜め息を吐いてみた。果たしてそれが本当の意味での溜め息なのか、未だ落ち着かずにいる呼吸を整えるためのものなのかは、判らなかったけれど。

ゆっくりと滑る視界の中央で笑うラドルフを認めて、カナメは自嘲気味の苦笑を漏らす。級友は、無邪気だ。勝つ事の楽しさ、魅せる事の優越感、慕われる事の責任をちゃんと知っていて、模範的な行動を返している。

では、自分はどうなのか。

もしかしたら、大人ぶってそういうものに倦んだふりをしているだけではないのかと、今日まで極力考えないようにしていた事を胸のうちでちらと考えたカナメの視線がラドルフから逸れるのと同時に、手に透明なボトルを持ったマキが道場に駆け込んで来た。

ひと塊になっている中等部の生徒に呼ばれて、マキが不思議そうな顔しながら近付いて行く。少年を傍に寄せたクラスメイトが他の生徒に対して二言三言話すと、不意に笑顔を見せたマキがぺこりと頭を下げた。

その仕草が、酷く幼い。

今頃自己紹介かと思い当たって、カナメはまたその変なギャップに脱力しそうになった。構えを取って、構えを解くまでの「マキ」と普段の少年は、きっと別人なのだと思う。

そう思わなければ遣り切れない。一合目でカナメを完全に喰った少年とあの表情豊かなちびっこが同じだなんて、ある意味屈辱だ。

少し不貞腐れた気分で壁に背中を預け、立てた両膝にそれぞれ腕を預けたカナメの脇に、いつの間にか人の輪から抜け出したラドルフが腰を下ろす。

「お疲れ。どうだった?」

問われて。

見た通りまるで遊ばれたと答えるのも癪だったので、カナメは無言のままミネラルウォーターを呷った。

「さすがというべきか、動きは速いな。でも軽量だろう? 最後のあれでも、カナメを倒せなかった」

「…ああ」

ラドルフにはそう答えたものの、実際はマキが最後で手を抜いたか退いたかのどちらかではないかとカナメは思っている。その気になればあのちびっこは、体格差で三倍はあるだろうユーリだって投げ飛ばし兼ねない。

「まぁ、まだ中等部二年だしな。これからが愉しみだよ」

まるで自分が今から育てるみたいな事を言って爽やかに笑ったラドルフに、カナメはやっぱり答えられなかった。友人は決して悪い人間ではないのだが、無邪気過ぎる。

あれをこれ以上どうするつもりだ、ラドルフ。お前、逆に変な技仕掛けられて落とされるぞ…。と、純粋に試合に勝つ楽しさだけが身に着いた友人を、カナメは少し憐れに思った。

「……ラドルフ、後半の自由組み手、あいつと組むつもりか?」

ふと思い立って低く問うと、ラドルフが何の迷いもなく頷く。それを停めるべきかどうか真剣に悩むカナメを無視して、ユーリの集合の声が道場内を震わせた。

散っていた生徒たちが教官の周りに集まり、自由組み手の対戦を決めるための簡単な話し合いが始まる。大抵の場合中等部、高等部ともにそれぞれの部内で下級生が上級生に試合を申し込むのだが、誰よりも先に挙手して相手を指名したのは、他でもない、ラドルフだった。

マキと対戦させてくれと詰め寄られて、ユーリが少し困ったような顔をする。大抵の生徒から見ればそれは、女王杯二連覇の王者が中等部の生徒を選んだ事に対するもののように感じられたが、演舞であれだけ圧されたカナメにだけは、教官の当惑が手に取るように判った。

マキは、そのラドルフの余裕を持たせた鷹揚な笑みとユーリの困り顔を暫し凝視してから、不意にその碧色を水平に動かして、生徒の輪から少し外れているカナメに視線を移してきた。

探るような透き通る碧をカナメが見つめ返すと、マキは汗でしっとりと濡れた金髪を微かに揺らして、小首を傾げたではないか。

どうすればいい? とでも言うように。

カナメが反射的に、ダメだという意志を込めてすっと少年を睨み、顎から頭を動かすようにして首を横に振る。その瞬く間の交感に気付いた者は、誰も居なかっただろう。

「んー、まー…どうする? マキ」

ラドルフの熱心さにほとほと困ったらしいユーリが、ついにマキを引き寄せて楯にしながら引き攣った笑みを見せる。

詰め寄るラドルフと逃げるユーリの間に挟まれたマキはあたふたとホールドアップして、必死に首を横に振り始めた。

その不可解な行動に、ラドルフが眉を吊り上げる。

「何が言いたいのかな?」

不機嫌さを隠さない声音に臆した風もなく肩に置かれたユーリの分厚い手をぱっと払い除けたマキが、袖を締め上げている紐を解いて腕を捲くり上げる。それから、黒い長衣の片肌を脱いで下着を引っ張り出してたくし上げ、その薄っぺらい胴体を晒した。

それでラドルフは黙り込む。

「………おー、こりゃ派手にやられたなぁ」

折れてしまいそうに見えてさり気なく薄い筋肉で覆われた、未だ幼い身体の表面を舐める、赤紫色の痣。どう見ても黒く変色したものだってあるようだが、その薄っすら腫れ上がっている幾つかは、間違いなく、今さっきカナメの打撃を受けた際に付いたものだと、誰にも判った。

無言ながらどうやらそれが痛いのだと訴えるマキの表情をいっとき見つめてから、ユーリは困ったようにがしがしと頭を掻いた。実質、スレイサー一族の末裔は女王杯二連覇の王者…担ぎ上げられた、かもしれない…との仕合いを放棄、不戦敗。裏を返せばこれは、王者の「王者」たる所以を守るための選択か。

ならばここは一つマキの肩を持つべきだろうと決断したユーリが、もそもそとシャツをボトムに戻している少年を見下ろしてから、生徒たちの後ろに佇むカナメに視線を移した。

睨むように見つめて来るユーリからの無言の圧力に負けたのか、カナメはマキが長衣を肩に戻すのを待って不承不承移動し、苦笑いを噛み殺している教官の顔を見上げ乱暴に一礼すると、少年の華奢な肩を押し道場の出口へと誘う。その意味が判らなかったのだろうマキが碧色の瞳に不思議そうな色をくるくると回しているのを無視して、礼もそこそこにそこから退場した。

重たい引き戸を後ろ手に閉めて翳った廊下の冷たい空気を肺に取り込んでから、カナメは溜め息を吐いた。マキの示した「痛い」というサインがラドルフとの対戦を回避するためのものだったと、ユーリもカナメも気付いている。証拠に少年は今少しも痛そうな顔などしていないし、あの、身体に貼り付いた赤黒い痣を見るにつけ、この程度の打撲など日常茶飯事に違いないし。

だから痛くないのではないが、痛みへの耐性は高くなっているだろう。しかも組み手で打撃を貰うのは、拳闘科の生徒ならば当たり前だ。

「…とりあえず、冷やすくらいのスタイルは必要だろうが」

そこ、と一番被害の大きかった脇腹付近を指差してカナメがぶっきらぼうに告げると、ようやくマキの顔から不審そうな表情が消えた。

ぱたぱたと突っかけた上履きを鳴らして着いて来るマキを待つ素振りもなく、大きなストロークでどんどん廊下を進んだカナメが、一階と二階を繋ぐ階段のすぐ手前にぽつんとある、いかにも普通のドアをノックもなしに引き開ける。

「その辺に座って待ってろ」

振り返りもせずに言い放たれて、マキはドアのすぐ横、壁際に沿って置かれている長椅子に腰を下ろした。部屋はそう広くなく、入って左手の壁際に簡易ベッドが一つ置かれていて、右手には小型の冷蔵庫らしいものと背の高い薬品棚、小さな流しが設えられており、ドアのすぐ横と真正面に合計三つの長椅子が置かれている、中途半端な医務室みたいな場所だった。

慣れた手付きで冷蔵庫を開け、中から袋に詰め込まれたドライアイスのようなものを取り出すカナメをじっと見ながら、マキは内心嘆息する。

別に、ホントは痛くないんだけどね…。

自由組み手でマキを指名した上級生…マキはラドルフの名前を覚えていない…が、セントラルの拳闘科で一番強いのだと、少年はユーリから聞いていた。そして、彼が居る事によって、拳闘科のバランスが保たれているとも。

薬品棚から布製の袋らしいものを取り出し、それにドライアイス状の氷塊をざらざらと放り込んでいるカナメの横顔をぼんやり眺めたまま、マキは汗で額に貼り付いた金髪をかき上げた。

何にせよ、カリスマ的存在は必要だとマキは思う。そういうものが居てこそ、上手く纏まるものもある。だからといってカリスマは独裁者ではならない。それから、そのカリスマが人気者である必要も…まぁ、ないだろうなと。

そして、セントラル拳闘科のカリスマは間違いなく、あのラドルフなのだ。上級生が一目置いているのも然り、下級生が羨望の眼差しを送っているのも然り、彼はある程度理想的な纏め役なのだろう。

だから。

手にした布袋が適当に膨らむと、カナメは取り出しておいたタオルにそれを包んで、マキへと爪先を向けた。

黒い、固そうな髪と、同じに黒い目。やや太めの眉は厳しく吊り上がり、細い鼻梁という繊細なパーツを、弱々しくは見せない。その下には、真一文字に結ばれた唇。それから、尖った顎と、太い首。高等部二年生だとしたら恵まれた身体に、あのセンスと判断力、瞬発力があって、ラドルフよりも強いはずのカナメを見返し、マキは、ふにゃっと困ったように笑った。

途端、カナメが変な顔で首を捻る。

時に、強さを誇示し世を圧する事だけが「強さ」ではない。と、いつか老師…フォンソル・スレイサーは言ったはずだ。だからマキには、カナメの選択がなんだか凄く凄いもののように感じられた。勝つなというのだ。ラドルフを負かしてはならないと、そう、いうのだ。

カナメ・トキワは、世の形状を知っている。

嬉しいような恥ずかしいような複雑な表情で、且つ丸いほっぺたをピンクに染めてにこにこするマキに、カナメは殊更ぶっきらぼうな態度で氷嚢を手渡した。

「…腕と脚にゃ湿布薬を貼ってやる。脇腹は、そいつで冷やしてろ」

受け取った氷嚢を、むむ。と睨んでいるマキに文字通り上から浴びせかけて、カナメはすぐその場を離れまた薬品棚の前に立った。戸を開けて中を物色すると、丁度良く数枚残った湿布薬と紙テープが、一緒くたになって突っ込んである。

ぱさぱさとした軽い衣擦れを聞きながら必要な物を手にして振り返れば、マキは上半身裸になって脇腹に氷嚢を当てているところだった。細い首から下の華奢な身体から一瞬目が離せなくて、カナメがその場に凍りつく。

少年はまさに、痣だらけだった。黒く変色した古いものから比較的新しいものまで織り交ぜて、白い皮膚にあちらこちらと穿たれている、痣。

これが多分あの気迫と強さの根底にあるものの片鱗なのだと思って、カナメはごくりと喉を鳴らした。避ける事を許されないのか、避けられないのか。道場での稽古でこれだけ痣を作った試しは、カナメにだってない。

凝視する視線に気付いたのか、氷嚢の冷たさに顔を顰めていたマキが顔を上げ立ち尽くすカナメの顔を数秒見つめてから、不意にぱっと耳まで赤くなって生成りの下着を掻き寄せ、晒した上半身をいそいそと隠す。

それでようやく自分が遠慮もなく見ていたのが少年の半裸だったと気付いたカナメは慌てて目を逸らすと、簡易ベッドの上にきちんとたたんで置かれていた薄手のブランケットを取り上げ、ばさりと広げて、マキの小さな身体を包んだ。

「…いくらなんでも、そんな恰好じゃ風邪ひくだろが」

なんだかカナメまで恥ずかしい気になって、鼻の頭を赤くしながら視線を逸らしてつっけんどんに言い捨て、二呼吸、静かになったマキをちらりと見遣れば、少年が不意に、桜色の唇を綻ばせて少し恥ずかしそうに微笑む。

その笑顔がじんわりと胸に染みて、カナメはまたマキから視線を逸らした。

バカみたいに剛毅な気を纏った、幼い少年。

マキ・スレイサーの登場がカナメ・トキワの残りの高校生活を大きく変える事になろうとは、この時、まだ誰も気付いていなかった。

          

         

一度は道場を出て行ったマキとカナメが戻り、暫し、二時間の合同実技が終わって教官であるユーリに一礼し、生徒たちがばらばらと散り始める。

二階席で大人しく解散を待っていたジンとリックが武道場から室内プールに下りる階段のおしまい辺りでマキを待っていると、まず現れたのは高等部の生徒だった。

セントラルの有名人であるジンたちが手持ち無沙汰そうに壁を背にしているのを横目で見て首を捻る、生徒たち。実技クラス、しかも比較的マイナーな拳闘科の実技を見学するには不似合いな二人組みにちらちらと視線を送りつつ前を過ぎた頃、ぱたぱたと誰かが階段を駆け下りて来る足音がする。

「マキちゃん」

大きくはないが弾んだ声でリックが言うなり、姿を見せたばかりのマキが心底嬉しそうに、ぱあっと明るい表情を作った。大袈裟に両手を広げたリックにぱふりと抱き着いた少年の輝くような笑顔に、一瞬、周囲の空気がぴしりと凍る。

いやいや。凍るというか…、金縛りか?

多分緊張していたのだろう、それまで幾分固かった表情が解けて歳相応以下の幼い笑顔に変わったのを目にして、上級生も下級生も、偶然傍を通り掛った水泳科の生徒さえもが、なぜか、だらしなく目尻を下げている。

さすが、破壊力満点の笑顔とこのところ中等部で話題になっているだけあるなと、ジンは冷静に思った。

これはうかうかしていられない。

―――。

何が?

意味不明の自分の思考に内心突っ込んでいたジンが、ようやくリックから離れたマキに薄い笑顔を見せた途端、壁に切れ込んだ階段部分から背の高い影がふたつ並んで現れる。

「今日は始めての授業で緊張しただろうけど、次からはもっとリラックスして、実力を発揮できるといいね」

と、先に通路に降りたラドルフの笑顔に、慌てて振り返ったマキが恥ずかしそうに目を伏せてぺこりと頭を下げた。それで、少年の背後に立っていて軽く持ち上がった上級生の視線を受けたジンが会釈する。

「…君、エイクロイド君だね? マキくんの友人かな?」

さすがに高等部でも目立つ存在だからかすぐにそういわれたが、ラドルフはいかにも好奇心を剥き出しにしてジンとリックを見たりはしなかったし、マキを含めた三人…このところ、カナンも入れた四人かもしれないが…の噂はセントラル中に響き渡っているだろうから、ここで顔を合わせたのもあまり意外ではないのかもしれない。

はい。と短く答えてジンが頷く傍ら、ラドルフの後ろを通り抜けたカナメがちらりと黒い瞳で三人を見遣り、そのまま歩き去ろうとする。素っ気無いその態度に、しかし何か引っ掛かるものを感じてリックが凝視する中、一旦は逸れかけた黒瞳が引き留められるようにジンたちの真ん中で停まった。

そこでは。

マキがにこにこと笑っていた。

道着を突っ込んだボディバッグを両腕に抱えていた少年が、ラドルフの背後でうっかり歩を緩めた黒髪の上級生を見上げて殊更嬉しげな笑顔を満面に浮かべると、シャワーを浴びたばかりでまだ少し濡れている金髪を微かに揺らし、ぴょこんと頭を下げる。

ジンもリックも、気付いている。

マキが小さく伏せた顔を上げ、黒髪の上級生は不機嫌そうに少年から目を逸らして正面に向き直り、しかし、その刹那、まだ幼さの残る中等部の生徒にはない男らしく骨ばった手を軽く挙げて見せた事に。

「じゃぁ、また次の授業で」

歩き過ぎたカナメを追って行くラドルフの背中を見送りながら、ジンとリックは確信した。

油断ならないのは、あの黒い方だ! と。

  

   
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