■ 前へ戻る   ■ 次へ進む

      
   
    花柳の酒    
       
次に欲しいモノは自ずと知れる

  

 出す出さないなんて品のない話も出たが、結局おとこなんぞは出す生き物であるらしく、美味い酒、辛めの肴、空に月、とくると、次に欲しいモノは自ずと知れる。しかも邪魔するバカどももなく、得体の知れない徳利は酒を勧め続けてくれるだけ。この、泣いて喜ぶべきだろうか? と本気で考える状況にあって何もしなかったなどとは、まさか言うまい? などと自分に問うてみた。……命懸けかも、知れないのだが。

  

  

 その髪に触れ、指を絡めて引き寄せてみる。

 すると散歩はほんのり上気した頬に笑いを零して、半兵衛の手をそっと振りほどいた。

「…やめて下さい。なんとなく、くすぐったい気がしますので」

 背後ににじり寄って半ば散歩を抱きかかえ、半兵衛は笑いながらもう一度柔らかい髪に触れた。

「やめて下さい」

 半兵衛は、わざと怒った口調にわざと身震いして見せてから、奪い取った杯の酒を飲み干してちゃぶ台に逆様に置いた。

「そういう口調も悪くはないが、俺が聞きたいのは、もっと…別の声なんだがな」

 後ろから抱きすくめた散歩の鳩尾に左の掌を当て、半兵衛が、ふっと凶悪に口元を歪める。

「だから、お前、と話をさせて貰うぞ、散歩」

「! 勝手に話なんかしないでく…は……。!!」

 散歩が慌てて振り返るより早く、半兵衛の張った掌が軽く着物の上から鳩尾を叩く。

 刹那、散歩は息を詰らせて身体を二つに折り曲げ、半兵衛の腕を掴んだ。

「はん…、……やめ…苦し……」

「じっとしてろ、すぐ……終わる」

 後ろから散歩の身体に回した左腕。その、手首からやや上辺りまでを藤色を纏った華奢な身体に潜り込ませた状態で、半兵衛は何かを探すように、ん? と眉をつり上げた。

「なんだ? おかしいな…」

 一瞬にしてべったり脂汗をかいた散歩が、半兵衛の袖を引っ張り、引っ叩き、自分の身体に沈んだ腕を引き抜こうと暴れる。

「や…、気持ちわる……。半兵衛! やめなさいっ!」

「あぁ、そっか」

 悲鳴を上げた散歩に比べて飄々と言ってのけ、半兵衛がなんの予告もなくいきなりその手を引っこ抜いた。余りの唐突さにまた息を詰らせ悲鳴を飲み込んだ散歩が、手足を弛緩させてぐったり凭れかかってくるのをちょっと可笑しげに見下ろし、見下ろしつつ、手に付着した粘着質で透明な何かを、平然と自分のシャツの背中で拭う。

「………勝手に他人の内臓を引っ掻き回すひとがありますか…」

 苦しい息を吐きながら恨めし気に睨んでくるのを、やっぱり内臓か、と暢気な苦笑いでやり過ごし、半兵衛はその場に散歩を放り出して前に回った。

 凭れていた半兵衛に逃げられて背中から転がった散歩が、もう、と半身を起こそうとするのをやんわり畳に押し戻し、覆い被さって、広がった長い髪を弄ぶ。

「話はまだ済んでない」

「…いい加減にしてください」

「ほろ酔いで気が大きくなってる。他人の話を聞く気分じゃないな」

「へぇ、そうですか。じゃぁ、もう少し酔ったらよろしいんじゃないんですかっ」

「泥酔で潰れてしまえば勃つモンも勃たず出すモンも出さず、ところがお足は絞り取れる? はぁ、そういうコトかな、もしかして」

「?」

 突然何かに気付いたらしい半兵衛の言葉に、散歩が不思議そうな顔をした。

「徳利だよ。がめついおしかババァ相手ってことは…底を叩けばいいのか?」

 遊郭だったな、置き屋じゃないか。と勝手に納得して、そんな物は解決したので後回しにする。

「? 徳利…判ったなら……」

「いいっていいって。後、後…」

 泳いだ視線を半兵衛に戻した散歩の黒い瞳の中で、暗い影を落した顔に、微か、楔型の赤い光がふっと浮かんですぐ消えた。

 左目の下。引っ掻き傷のような、一刹那。

 獣の瞳孔がじっと散歩を見つめる。今にも食いついてきそうな、飢えた肉食獣の顔。

「鳩尾じゃなくて、丹田だったっけか?」

「! 半兵衛!」

 散歩が咄嗟に腕を上げて半兵衛を振り払おうとするが、それより一瞬早く、先と同じに張った掌がずるりと体内に沈んだ。今度は一気に、なぜか、肘まですっぽりと。

「大当たり」

 殆ど畳に縫い付けられた状態で半兵衛の肩と首に爪をたて、全身に吹き出した汗、朦朧とする意識、唇を割って出そうになる声を飲み下し、散歩は必死に抵抗していた。

「…手探りでうなぎか何か捕ってる気分だな」

 他人の身体に肘まで突っ込み、その先に在る身を切るように冷えた真中に隠れている何かを探りつつ、半兵衛がくつくつ笑う。

「やめ…て。い…や……、は…なし…」

  

  

 その温度の高い声を耳にしているうちに、なんだかだんだんと妙な気分になってきて少々困った。潤んだ瞳と良い、声を出すまいと噛んだ唇と良い、乱れた襟元から覗くすっかり上気した肌と良い、裾を割った膝頭と良い、まるで鳴かせているように見えるだろうが、残念ながら、こっちは相当冷静で真剣なのだ。ところが、時折指先に触って来るアレの気配はわざとのようにすぐ遠ざかり、躍起になって掻き回せば掻き回す程、表のアレは悶え苦しんで睨んで来るといった始末。

  

  

 実の無い微笑みばかりを投げかけてくる唇から、いつもとは別のか細い悲鳴が上がる。散歩は、血の気も失せて白くなるほど力を込めた指先で、肘まで身体に沈んだ半兵衛の肩を引き剥がそうと藻掻いていた。

 がくがくと揺さぶられているような視界に、俯いた半兵衛の髪。それに何かを訴えたいのだが、何をどう言えばいいのか見当も付かない。

 背筋のぞくぞくする得も言われぬ感覚。多分、苦しくはない。息が上がっているのはなぜか。奥底に隠れるを探る為に差し込まれた腕の、腱の動き骨の軋み指先の震え。遮るものも遠慮会釈もなく伝わってくるそれに耐えかねて、咎める声ならまだ余裕もあるが、ついに散歩は、ぎゅっと目を閉じ、熱い、甘い吐息を漏らした。

 途端、半兵衛が顔を上げる。月を背にした暗闇に、獣の瞳孔。紅蓮の劫火を燃え上がらせて散歩を睨み、こちらは困った溜め息を吐いた。

「…頼むから、そういう……艶っぽい声を出すのはやめてくれ」

 晒された細い首から強制的に顔を背け、やめればいいのに、また苛々と掻き回す。

 すっかり露わになった膝で半兵衛の脇腹を力無く蹴り、身体の中心を畳に押さえつけられた不便な状態で、散歩はぎこちなく背中を丸め、声を上げる。

「じゃぁ……やめ…諦めて………くだ…さいっ!」

 それもねぇ、と苦笑いして散歩の腕を振り払い、沈んだ腕ではない方で前髪を掻きあげようとした半兵衛は、自分の手を見て一瞬ぎょっと驚いた表情になった。

 掌を回り込み、指先に向かって散った楔形の紅い刺青。見えないように覆ったハズのそれが、皓々と浮かび上がってきている。

 ハラが……減っている。

 忘れていた大切な事を今思い出したかのように、半兵衛はぎくしゃくと散歩に顔を向けた。

 青畳の上で悶えるその人は、潤んだ瞳、紅い唇、汗ばんだ肌と張り付いた髪、深く先の見えない透明な瞳で、半兵衛を……誘い込もうとしている。

 身を切るような冷たい中で、半兵衛を笑う。

「やめ…て………半兵衛……」

 涙ぐんだ散歩が懇願するように囁き、半兵衛をたぐる。白い指先がシャツを掴み、肩に触れ、唇を通って、頬へ。

「やめますよ。……お前がさっさと、出てくればな」

 残酷な笑みで散歩に答え、半兵衛は指先に引っかかった……細い指先……を勢いよくその中から引っ張り上げた。

  

   
 ■ 前へ戻る   ■ 次へ進む