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    落花の壺    
       
其の三 喰らう(1)

  

 広い庭の一角に運び出された「落花の壷」。

 戦々恐々と後退りつつ奇妙な一向にその行く末を委ねた屋敷の主は、門前に待たせていた車に飛び乗り、ようやく、ほっと安堵の溜め息を全身から漏らした。

 今朝早く、日暮れまでに全ての使用人を屋敷から引かせろ、と連絡してきたのは、昨日懇意の骨董屋と連れ立って訪れた、あの怪しげな男。

 その男が約束の時間に現われたとき連れていたのは、一匹のビーグル犬と、少々大きめで色の薄い猫を腕に抱く、和装の……男。

 昼に比べて朝晩の冷え込む季節。海老茶色の長合羽と揃えた円筒形の帽子、華奢な銀縁の丸めがね白足袋に草履という姿は、物憂げで色素の薄い面と合間って、広い庭、有り物の壷、天空の月と黒で固めた得体の知れない「憑き物落し」を、浮世から切り離すのには十分だった。

 後部座席にどっぷり沈んだ屋敷の主は、昨日の不可思議な現象を思い出して一度ぶるっと身震いし、走り出した車の中から自分の住まいを顧みた。

「…………」

 照る月光に浮ぶ落着いた洋館は薄ぼんやりと輝き、……どこか、霞んで見える。

 主は慌てて屋敷から視線を引き離し、額に吹き出す汗を手の甲で拭った。

「やっかいな品を手に入れた…か。しかし、これで上手く行けば……」

 百代先まで自慢できる、と主がほくそえむ。

「「落花の壷」とはよくも言った。噂通りなら、あれは「首切りの壷」だろうに」

 微かに震える手で葉巻をくゆらす主の言葉は、目と耳のいい犬猫にも、残念ながら届かなかった。

    

   

 芝生のよく整備された広い庭の真ん中に持ち出された、大花鉢。甕に似た湾曲に天上の月が照り返し、金魚鉢に似た縁の波目に白い光りを映し込み、表面に幾多と描かれた椿の花はひっそりと、血の赤をじんわりと、薄蒼闇の中に浮ばせる。

「先に周囲を封じておきますか?」

 問う散歩に無言でうなずきかけ、半兵衛は彼の背後に回った。

 風がざわめく。下草に隠れて微かな囁きを始めていた虫たちが、ぴたりと鳴くのをやめた。

 散歩は軽く屋敷を振り返り、それから、両手を胸の前で合わせて、頭を垂れた。

「ふたつ、いつつ、やっつ、ここのつ」

 呼びかけが終わる間もなく、どん、と散歩の真正面で衝撃音。音だけで振動も光りもないが、なにやら濃密な気配が四つ、間違いなくその場所に出現している。目を凝らすと見て取れる陽炎のごとく揺れる空間は、あの、ここのつが現われるときに空中に浮ぶものと良く似ていた。

「庭の四隅を。ひとつたりとも漏らしてはなりませんよ」

 静かに散歩が申し付けると、四つの陽炎がぐにゃりと歪んで滲むように色を発し、獣の姿を取りすたんと地面に降り立った。

 鬼の眷族、九の狐。

 紫、橙、茶、そして、見慣れた純白の、獅子ほどもある大きな狐が、ふたつ、いつつ、やっつ、ここのつに別れた長い尾を翻し、風のような速さで庭の四隅に飛び去る。四肢を揃えて中央を見据えたその姿は、色こそはっと目立つものの、まるで、稲荷を守る狐のよう。

 その間もじっと落花の壷を睨んでいた半兵衛が、サングラスの下で眉を寄せる。

 幾十も幾百も渦を巻く嫌な感じ。それには多分ジョンローンも、こたろも、もちろん散歩も気付いているだろうが、誰よりも敏感な半兵衛の「野生の勘」には、もっと別の何かが纏わり付いて来ていた。

 不意に、目眩でよろめきそうになる。

 こんな時にと思いはするが、気には留めない。

 咽が渇く、腹が減る。煉獄の飢餓、灼熱の渇き。内側から焼け付くようなその苦しみを埋めたい。一瞬でもいいから忘れたい。喰いたい欲求が向けられているその先には、あの、血のように赤い椿を永年咲かせた、落花の壷があった。

「俺は待たされるのが嫌いなんだ」

 半兵衛は呟いてにっと口元を歪め、散歩の足下に座り込んでいたこたろの首根っこを引っ掴むと、昨日の昼と同じように、思い切り振りかぶって落花の壷めがけぶん投げた。

「ノックしてこい! 化け猫!」

『ぎゃぁええええええええええ!!!! 覚えてろよぉぉぉっ、エロはんべーっっ!!』

 にゃふーっ! と耳を背負い込んで絶叫したこたろは、放物線を描きつつ……背中を丸めて目一杯身を縮めた。

 その眉間に小さな新緑の光。それが身体に吸い込まれるなり、耳の間の短い毛がぶるっと震え、その震えが一瞬にして尻尾の先まで駆け抜ける。途端、今度は仰け反るように薄茶の身体を延ばし四肢で空を掴んで回転したと思う間もなく、こたろの全身が歪んで掻き消えた。

 直後、落花の壷の真正面に空間の歪み。

 がっ! と柔らかい物が陶器に叩き付けられるような篭った音を立て、不意に現われた華奢な人影が地面に降り、すたっと弾けるように立ち上がった。

「ノックしろって言ったろう? 化け猫。誰が蹴っていいって許可した」

 極めて冷静に言い放った半兵衛を、その、少年が振り返る。

「だぁれがおまえの言う事なんかきくかぁ、ボケ。おいらはおいらの好きなようにやるだけさっ!」

 夜目にも鮮やかなスカイブルーのボーリングシャツをはためかせ、少年が駈け戻って来る。顎の尖った小作りな顔といい、やや釣り上がった大きな目といい、限りなく色の薄い茶色のざんばら髪といい、シャツの下から覗くポップな絵柄のTシャツといい、ぼろぼろに鉤裂きだらけのジーンズとオーガニックデザインの派手なスニーカーまでもが若々しい、逆立ちして見ても、その辺の路地でたむろっている現代っ子そのものである。

「生意気」

「にゃっ!」

 半兵衛の漏らした呟きを耳にした途端、少年、こたろの髪から大きな三角形の耳がぴょこんと飛び出し、黒いはずの瞳に新緑と黄金の光が回り、少年らしく愛らしい唇から真っ白い牙が零れた。

 自分の胸ほどまでしかないこたろの頭を鷲掴みにした半兵衛が、ぎゃーぎゃー喚く少年をさも面倒そうに脇に押し遣る。

「ノックより、蹴りの方が利いたみたいですよ」

 微笑ましく(?)その二人を見つめていた散歩が、ふと視線を壷に向ける。それにつられて暴れていたこたろも、そのこたろを適当にあしらっていた半兵衛も、げんなりとその様子を眺めていたジョンローンも、壷に顔を向けた。

 こたろに蹴飛ばされて傾いだ壷が、ゆっくりと、尋常ならざるほど静かに底面で円を描きつつ、揺れている。自然現象ならばとうに倒れているか、とうに揺れの収まっているか、というところだろうが、その常識に反して、壷は一定の速度、一定の角度で、ゆらゆら、ゆらゆら揺れ続けていた。

 遥か上空で、ごぉぉぉぉ、と空気が震えた。

「……水」

 散歩が呟く。小さく、呆然と、求めるように……誰かの口調で。

 彼の足下に落ちた自身の影が、ざわりと身じろいだ。

 その求めに応じて、こたろが再度一歩踏み出す。現状で、あの壷を満杯にするだけの水を「呼べる」のは、こたろしかいない。

 彼は右手を胸に、左手を開いたまま天に向け、囁いた。

 慈しみ深く、話し掛けるように。

「世におわす精霊五行に則って清らかなるを名付く。…「碧」」

 こたろの瞳の中で、黄金の光が瞬いた。

 差し上げた指をくるりと宙で一回転させると、その先にバスケットボールほどの、輪郭の揺らぐ球体が出現。きらきらと月光を反射するそれは、遠い山奥の人目に付かぬ精霊の淵と同じ、深く輝く碧色をしていた。

 こたろが、無雑作に指先を壷に向ける。

 球体は応えるように壷の口を目指し、ぱしゃぁん、と涼しい音を響かせて飛び込んで、飛び込んだ途端、零れるぎりぎりまで一気に増水した。

 揺らめく壷が、その重量に動きを止める。

 波紋も立たない、月を貯えた水面。

 上空でざわめいていた風が止まり、それまで聞こえていた虫の声がやみ、すべてに、暗闇が被ってしまったかのよう。

 サングラスの下、半兵衛の瞳だけが、紅蓮の光を回し出す。

 落花の壷がその本性を曝け出し始めたのは、直後の事だった。

  

   
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