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    落花の壺    
       
其の三 喰らう(2)

  

 最初は威圧感。

 目視出来ないそれが放射状にどろどろと滲み出し、離れて立つ半兵衛たちの足下から這い上がってくる。

 目を逸らさずにいる壷の表面を飾った椿の花が、じわりと歪んだ。脈打つように膨張と凝縮を繰り返しているのだと知っても、誰も驚きはしない。

 壷の因果が椿に在るだろう事は、昨日それを目にした半兵衛にも、つい先ほど始めて見た散歩たちにも判っていた。「落花」とは、椿を指す。

 生き物のように蠢く椿と、満杯の碧水。

 次の変化は、水面で起こった。

 波紋が一つ。静かに広がり、消える。

 消えてまた同じに一つ。真ん中から外側へ走る。

 走って一つ。消えてまた同じに一つ。その間隔が、徐々に短くなって行く。

 いつしか小波。中から、何かを吐きだそうと身悶えているようにも見えた。

 そして……。

 笑う声。

 遠くから聞こえた。しわがれた、性別も年齢も判らない声。

 甲高い、狂ったような、笑い声。

 小波の中央から、碧の何かがゆっくりと突き出してきた。孟菌類の鋭い鉤爪のようなそれは、最初に二つ、それから六つ、終いに、十になるだろう。徐々に出現するその爪を生やした指先は、滑らかで美しい……肌の色が真紅でなければ。

 そう、それはほっそりとした美しい腕だった。長い指、程よく肉付きのいい、絡み合った両腕。表面が血に濡れそぼった殺戮者のように真紅でさえなければ、腕だけに恋をしそうだった。

 しかし、その腕は赤い。

 椿のように。

 否。その椿こそが、腕のように、赤い。

 競り上がるように肘が出た直後、散歩が、ぎゅっと柳眉を寄せた。

 腕と腕の間に、もう二つ、波紋が現われている。それから目を逸らさない散歩の横顔を窺いながら、半兵衛はあの空腹に問い掛けていた。

 それでも、喰うか? と。

 些細な葛藤などつゆ知らず、その出現は続く。まがい物のように整った二の腕が半ばまで空に突き出した時、間にある二つの波紋からも、また別のモノが……。

 爪と同じ鮮やかな碧。円錐形の、少し捩じれた…。

「ツノ?」

 うふふふふふふふふ。どんどん近くなって来る笑い声に紛れてこたろが呆然と呟き、はっと散歩に視線を向ける。

 散歩は、瞬きもせずにじっとそれを睨んでいた。やや薄い唇をぎゅっと結び、透明で深い瞳を壷に向けている。

「うふふふふふふふふふ」

 声が厚みを取り戻す。

 ツノを生やした頭部が三分の一程露になった。輝くような碧の艶を持った長い赤い髪が、濡れて益々輝きを放ちながら引揚げられてくる。べったりと額に張りついた髪も払わず、それが面を表した。

 真紅の肌に、ねめつける碧の瞳。きりりとした眉も通った鼻梁も、碧にべったりと塗り固められた唇も……なにもかもが恐ろしいほど美しい。

「うふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」

 美しい。

「鬼だ」

 こたろの呟きに、真紅に彩られた白皙の美貌を曝け、赤い鬼が笑った。

 天を掴むように伸ばされていた両腕が肘から内側に折れ、自らの肩を引揚げるように掴む。

「あぁ、いやだいやだ。水などいらんと言うのに、意地の悪い」

 ころころと笑いながら恨み言を語る。その間も、壷からずるずると身体を引揚げながら。

「我は花鉢であろう? 無粋な人間どもめ」

 髪と同じに碧の光沢を放つ薄絹を纏った姿は、男でも女でもなかった。すでに壷と同化してしまったのだろうか、これは、半兵衛たちの「知る鬼」とは別になってしまっているらしい。

 時間をかけてすっかりと爪先まで壷から出た赤い鬼は、水面上空に留まったまま、うふふふふふふふふふふふ、と狂った笑いを漏らし、じっと散歩を見つめていた。

「良いおとこじゃ。まこと久しく、恋焦がれるのぉ」

 細めた碧の瞳に嘗め回されても、散歩は顔色一つ変える事はない。

「我の機嫌をこれ以上損ねたくないならば、置いてゆけ」

 碧の唇から、そこだけ白い、牙が覗く。

 音も無く、一瞬。歪んだ空間を光の速さで移動した赤い鬼は、散歩の真正面に立ちその鋭い爪を彼の首に食い込ませて、鼻先を突き合わせた。

「その、首」

 かけられた甘い囁きに、散歩が婉然と微笑んだ。

「お恐れながら、お断りさせていただきます。首の持ち合わせは、これしかないものですから」

「では…」

 爪の先から滲んだ赤い血に、蛇のような長い舌を這わせて、赤い鬼が笑う。

「捩じり切ってやろう!」

 動かぬ周囲を竦んだものと思ったか、赤い鬼は耳まで裂けた口から白い牙と長い舌をはみ出させたまま、散歩の首に噛り付こうとした。

「…鬼が恐くて、メシが食えるか」

 刹那呟き。赤い鬼の腕に何かが食らいつき、獣の唸りを上げてそれを噛み千切らんと顎を左右に振りたくる。

 大人で一抱えしかないビーグル犬が、大人でさえすくみ上がる程凶凶しく美しい赤い鬼に挑みかかり、赤い鬼の気の逸れた隙をついたこたろが、大柄だが繊細な印象のある体躯に肩から体当たりして真横にぶっ飛ばす。

 首筋に食い込んでいた爪が、散歩の皮膚に深い溝を穿った。

「下がってろ」

 反動によろめいた散歩の肩を後ろから抱き留め、首筋にくっきり付いた爪痕に不愉快そうな視線を据えた半兵衛が、白皙の顎まで飛び散った血痕を掌でぐいっと拭いながら言う。

「従属の正体はなんだ?」

 外したサングラスを内ポケットに突っ込み、半兵衛は散歩に背を向け落花の壷を睨んだ。

「「首なし」のようです」

「なるほど。椿は……落された首か」

 激高の咆哮が赤い鬼の裂けた口から上がる。

 食らいついていたジョンローンが跳ね飛ばされて地を転がり、後ろから飛び掛かったこたろの胸に、振り向きざまの拳が叩き付けられる。

 ぎゃっと叫んだこたろが血塊を吐きつつ、芝生に背中から激突した。

「我に刃向かうか! 雑魚どもめ」

 転がったジョンローンに瞬間で追いすがった赤い鬼が碧に血走った双眸で、よたよたと起き上がったビーグル犬をぎろりとねめつけ、無雑作に上げた足で、いきなり茶色の胴体を踏みつけた。いかな重量が掛けられていたものか、ごぎり、と周囲に響き渡る恐ろしい音を立て、その小さな身体が仰け反るようにへし折れる。

 断末魔の絶叫を吐き、にじられて奇妙な方向に捩じれた上半身がのたうった。

 散歩が、息を呑む。

(入れ替わらないうちに、ジョンローンが死んでしまったら!)

 漆黒の瞳を見開いて悲鳴を噛み殺した散歩の眼前に、口元の血を袖で拭いながらこたろが滑り込んできた。

(半兵衛が!)

「散歩! 壷から何か出そうだ。残りのきつねを……」

 がたがた震えだし、もがくジョンローンから視線を外さない散歩に異変を感じて、こたろが視線を足下に投げる。月明かりで浮かび上がった自分の影よりも、もっともっと濃く深く遠い黒の影に。

 散歩の影が、蠢いている。

「げ!」

 こたろ蒼白。

 赤い鬼はなぜか、取り憑かれたようにジョンローンをいたぶっていた。千切れかけた下半身のぶら下がる身体を持ち上げ、血を撒き散らしながら地面に叩き付ける。すでに抵抗する意識もないのか、ジョンローンは胡乱な瞳をその赤い鬼に向けているだけで、唸り声ひとつ上げなかった。

「しっかりしろよ! 散歩!」

 両肩を掴んで揺さぶられても、散歩は瞬きせずにじっとジョンローンを見つめているまま。

「散歩!!」

 ざわざわと影の胎動が大きくなってくる。こたろは必死で散歩の名前を呼び、呼びながら、肩を揺さ振り続けた。

「散歩ってば!」

「半兵衛が……消えてしまう」

   

「消えるか。ばか」

   

 耳元で囁き。

 はっと意識を取り戻した散歩の視界の真ん中、赤い鬼の振り回すぼろぼろのジョンローンをその手から簡単に奪い取った半兵衛が、サングラスのない顔を歪めて血だらけの「自分」を見下ろした。

「好き放題やってくれたな…。結局俺一人が苦労するってのに」

 ふーっと溜め息交じりに呟いて散歩に向かって歩み寄りつつ、死体のように動かないジョンローンに恨み言を浴びせかける。。

「…お前も、もうちょっと身体大事にしろよ。一応まだ俺らしいが、お前でもあるんだぞ」

 奇声を発して哄笑し始めた赤い鬼が、鋭い鉤爪を突き出して半兵衛の背中に襲い掛かる。振り乱した長い髪と、血で塗り固めた紅い肌と、美しい面差しが崩れて本性を露にしたその形相は、始めて目にしたときよりも数倍恐ろしかった。

 ゆらりと、半兵衛が赤い鬼を振り返る。

 軽く右に身を引いて突進してきたそれをやり過ごした半兵衛は、一瞬の交錯を見逃さずに、跳ね上げた爪先で赤い鬼の顎を蹴り上げた。

 ぐえっ、と押し潰された悲鳴。赤い鬼の爪先が地面を離れ、後方に吹っ飛ぶ。

「仕方ない、そろそろ本気だすか」

 背中から芝生に倒れた赤い鬼が起き上がるよりも早く、半兵衛は振り返りざま、口腔から舌をだらりとはみ出させて痙攣し続けるジョンローンを、宙に放った。

 上空で、一層大きく風が唸る。

 その唸りに混じって、か細い悲鳴。

 畏怖と驚愕。

 見つめるこたろが、周囲に鎮座した狐が、我知らず背筋を凍らせ身構える。

 跳ね起きた赤い鬼が美しい指を佇む半兵衛に突き付けて口を開こうとしたその瞬間、半兵衛と赤い鬼の真ん中で血飛沫を撒きながら放物線を描いていたジョンローンの身体が、なんの前触れもなく粉々に爆散した。

  

   
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