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    落花の壺    
       
其の三 喰らう(3)

  

 同時に、半兵衛がふらりとよろめき、一瞬、その姿が朧げに霞んだ。輪郭だけが小刻みにぶれ、すぐ正常に戻る。

「こたろ、壷から「首なし」をだせ。一匹も残すな」

 不意に言い放ち振り返った半兵衛は、すでに半兵衛ではなかった。

 背格好は大して変わらない。顔の造作も、激しく変わっているとは言い難い。しかし、その印象と雰囲気は、同一人物とは思えないほど様変りしていた。今時廃れぎみのソフトリーゼント、少々骨張った男臭い顔立ち。いつもならサングラスの奥にある双眸は「どこか優しげであり」、通った鼻筋、結んだ唇からは、「そこはかとなく生真面目さが伺える」。

 さて、こんな半兵衛など世にいるものか?

「出すだけでいいのか? 外法師」

「全部を引っ張り出してから、戻れないように壷の口を閉じる。それがわたしたちの役目だそうだ」

 落着いたらしい散歩の肩から手を外し、こたろがやる気なく、にゃぁあ、とあくびして赤い鬼に視線を投げた。

「あれか? ハラ減らし。腹の足しにもなんねぇとか言って全部喰うんだ」

「誰がなんと言おうとも喰うそうだ」

 駆け寄って地面に膝を付き、「外法師」と呼ばれた「元半兵衛」だった男が、不安げな散歩の顔を覗き込む。

「散歩先生、しっかりしてください。…大丈夫ですから」

 全く別人の表情で微笑み、外法師は立ち上がった。

 外法師。八百年前、現在に繋がる過去、蜥蜴野散歩道…龍奥(りゅうおう)清四郎と鷹司半兵衛にややこしく複雑な運命を押し付け、自らも「輪廻の環」から弾き出されてしまった鷹司の大祖先が、奥羽の怪猫を促して落花の壷に向き直る。

「壷は土属だが、首なし自体はただの怨念。どうする? こたろ」

 少し意地の悪い質問に、こたろがぷっと頬を膨らませる。妖術を使う猫又ではあるが、五行の理論が今ひとつ理解出来ていないこたろは、相殺と相乗の関係を判っていない。

「構わないから壷ごと燃やしちゃう」

 …多分違う。と思いつつもにっと牙を見せて外法師を見上げたこたろの額に、平手が炸裂。

「にゃぁっ!」

「火属以外の呪法を使うんだ」

 なんでよぉ、と額を両手で押えて涙目のこたろが口を尖らせる。

「壷自体は土属と教えたろうに・・・」

 出来の悪い生徒がかわいいのか、言いつつ外法師は目を細め、薄茶の髪をぐりぐり撫でた。

「やめろよ、もう…。半兵衛の顔で優しくすんな」

 ぷいっとそっぽを向いて困ったように外法師の手を払い除け、こたろは、ずるずると何やらよからぬ気配を吐き出し始めた落花の壷に向かって駆け出した。

 実際は、よく見れば外法師と半兵衛には幾つもの違いがある。もちろんそれは雰囲気だけでなく、外見という意味で。

 外法師は半兵衛よりも少し小柄なのだ。今さっきまで完璧に着こなしていた高級そうなダークスーツが、いささか貸し衣装的に見えるのはそのせいである。それから瞳。獣の本性が抜けてしまった今、彼の瞳は真紅に光らない。そして、見た目の年齢も、外法師の方は三十代半ばから後半に掛けて、だろうか。日頃の半兵衛はサングラスのせいで年齢不祥に見えるが、それを外して前髪を下ろし、ラフな格好でもさせようものなら、実年齢より若く見えるくらいなのだから。

 ……まぁ、実年齢がどれなのか、という最大で最悪の問題は残る。

 暢気にあれやこれやと相談する(半ば授業、なのかもしれないが)外法師とこたろを見上げていた散歩が、赤い鬼に視線を戻した。

 眼前で爆散した犬の破片を身体にこびりつかせた赤い鬼が、地面に座り込んだ散歩をじっと見つめていた。その毒々しい碧の瞳。碧の唇。碧の、角。

「邪魔者は消えたかえ?」

 問う声は、ひどくしわがれて聞き取りにくい。

 なぜだろう。と散歩は考えた。

「…あなた様は、本当に「鬼」なので?」

 凛とした声が、静謐に窺う。

 赤い鬼が、懐かしそうに笑った。

「鬼であった刻(とき)も遠い。今は、壷である。……切られた首の、代わりが欲しい…。それだけを求めて時を過ごす、怨念であろう」

 散歩には、その言い方が気になった。まるで、自分でも分らないと言いたげな消え入る語尾。

「ってえと何か? アンタ、鬼じゃあねぇのか」

 何も無い中空から、突如、声。

「我に気取られず姿を消すとは、貴様何やつ!」

「おれはいいんだけどな、別になんでも。鬼じゃぁねぇのかぁ」

 どことなく不服そうな声だけが四方から聞こえてくるのに首を巡らせつつ、赤い鬼が喚いた。

「姿を見せよ!」

 その様子に散歩が、今度は少し驚く。

 元来鬼というのは、五行精霊万物の頂点に君臨する種族である。いわば王者が、姿の見えないものを相手に取り乱すなど、なんとも滑稽ではないだろうか。

 その姿だけで対するものを威圧し恐怖さえも与える鬼自体に、恐怖心はない。しかし眼前の赤い鬼の微かな表情の動き、声音、それはどう見ても、正体の知れない相手に対する恐怖を追い払おうとする、人間のものと同じではないのか。

(……なら、あれはなぜ、鬼の姿をしている?)

 疑問。

「見せますよ、言われなくたってなぁ」

 軽薄で毒の在る口調が含み笑いで赤い鬼に応え、瞬間、爆散したはずのジョンローンの身体がフィルムの逆回しのように収束した。

 再構築された「犬」は「狗」に戻る。

 どん! と上空から叩き付けてきた衝撃に押されて赤い鬼が地面に倒れ伏し、放射状に周囲を舐める真横からの余波に、散歩の長い髪が目茶苦茶に巻き上がった。

「わちゃぁ!」

 少し遅れて上がったこたろの悲鳴。走る衝撃波に背中を押されて地面に突っ伏しているのが、竦んだ散歩の目端に入った。

 碧に萌える眼光を放ち顔を上げた赤い鬼は、散歩を庇うように立つその姿を始めて目にした。

「……貴様、昨日の!」

「おや? 丁重なごあいさつぁお気に召さなかったみたいだなぁ」

 張りのある低い声に引き寄せられてふらふらと立ち上がった散歩の気配に、それが軽く振り返った。

 紅蓮の光を明滅させる獣の瞳で散歩を捉えても、無言。

 ざんばらの黒髪を巻き上がる風になびかせた姿は、半兵衛と全く同じ。しかしそれは、全く別のものでもあった。

 大柄な体躯は完全な均衡の筋肉で覆われ、腰に幾重にも巻き付けた獣の革らしいもの以外は身につけていない。……やや浅黒い肌いっぱいに記された、刺青状の紋様が全身を舐めているのを、身につける、と表現すれば別なのだが…。

 赤黒い、楔型の刺青。それこそが、半兵衛とこの「ひときり」を別ける決定的な違いだった。八割方露出した肌に所せましと彫り込まれたそれは大小様々で、複雑に絡み合い、左右の爪先から始まる螺旋を描いて胴体で交錯、左回りに背中を抜けた先端は右肩から腕へ、右回りに胸板を通過した後弾けるように整列を辞めた一部は腕へ、もう一部は耳朶を掠め、頬と、鋭い眼光の目の下にまで到っている。

「丁重か……。面白くない戯れ言を吐く」

 バネ仕掛けのように跳ね起きた赤い鬼が言い捨て、両腕を前方に突き出す。それをじっと睨みながら、ひときりはふんと鼻を鳴らした。

「何者か知らぬが、一刻でも我を封じた所業、後悔するといい」

「後悔?」

 目標を限定した呪詛の檻が周囲に立ち上がるのを見ながら、ひときりは散歩の腕を掴んで彼を引き寄せ、胸に掻き抱いた。

「離れんなよ」

 呟いて、口元に薄笑い。

「……大丈夫だ。おれは死んでねぇし、死ぬつもりもねぇし、お前以外、おれを殺せるヤツもいねぇ。だから、気を静めろ。でねぇと、あんな混ざりモンじゃねぇほんもんのおっかねぇ「鬼」が出る。そしたらお前…」

 赤い鬼の髪が宙を舞い、晴天の夜空に雷光が走った。

 ひときりの腕に抱かれた散歩の視界に、仄灯かり。彼の全身に彫られた刺青の一部が発光したのだと言う事を、散歩は知っている。

 迅雷の光。頭上から垂直に地面を突き刺す轟音に被って、甘い囁きが散歩の耳朶を撫でる。

      

 おれが、お前を喰うぞ。

  

   
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