■ 前に戻る   ■ 次へ進む

      
   
    落花の壺    
       
其の三 喰らう(5)

  

 その暢気なやり取りとは別に、動かずじっと睨み合う赤い鬼とひときりの間には、今にも破裂しそうな程に濃密な険悪さが膨張していた。それに恐れをなしてなのか、あの、ゆらゆらふらふら蠢く首なしどもでさえ、脅えたようにその場から遠ざかろうともがいている。

「我の呪詛を跳ね返すとは、貴様何者」

「なるほど。おれを知らねぇとは、てめぇ本当に鬼じゃねんだな」

 しわがれた声が苛立たしげに問うたのに、ひときりは相変わらず飄々と答えた。

「我は壷なり。すげ替える、首が欲しい…」

 緑の双眸の中で艶めいた光が回り、ひときりの腕に抱かれたままの散歩をうっとりと見つめる。それを感じてぎくりと背筋を凍らせた華奢な肩を、刺青だらけの浅黒い腕がぐいっと背後に押し遣った。

「まぁ、なんでもいいやな。どっちにしても、てめぇはおれが喰う。昨日てめぇを見極め損ねた恨みは全部、その辺でうろついてやがる木偶どもで晴らす。ついでに言っとくけどな、例えてめぇが本物の鬼でも、こいつは、誰にも渡さねぇ」

 言いつつ顎を上げ、倣岸に赤い鬼を睨み据えたひときりの口元から、真っ白な牙が覗いた。

「ヒトのモン、もの欲しそうな眼で見んじゃねぇよ!」

「黙れ! 獣っ!」

 赤い鬼の、碧玉の髪が舞い上がり、つり上がった唇の端から狂ったような笑いがほとばしり出る。それと同時にひときりの全身、到る所の刺青が赤光を放ち、赤い鬼の周囲に突如出現した純白の火球が爆音を上げて炸裂した。

 いひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひっ!

 悲鳴ではない哄笑に、狐の守る庭の内部がびりびりと揺れた。

「熱い…うふふふふ。あはははは。燃える…ひひひひひひひひ。燃やされて骨も残らぬ…はははははははは。そんなもの、最初(はな)から燃えてもうないわ! けけけけけけけけけっ!」

 次々破裂する高温度の火球。その炎にあぶられて身体を溶かしながらも、美貌の面には火傷一つ負わない赤い鬼が、崩れかけた長い腕をひときりに差し伸べ、ひゃひゃひゃひゃひゃ! と焦点の合わない瞳で笑った。

 伸ばした掌に、ぽっと黒い小さな光り。

 詠唱も印も必要とせずに連続して火球を赤い鬼に叩き付けながら、ひときりはいきなり散歩を抱き上げ短く言い放った。

「首は鬼だ、楽なだけの相手じゃぁねぇ。悪いがちょっと、離れてな。 外法師!」

 言うが早いか、抉り取られた地面の向こうにいる外法師に向かって、散歩の華奢な身体を放る。この程度の扱いなどひときりが出てきた折りにはしょっちゅうなので、当の散歩は驚きもしない。

 呼ばれる前にその意図を察していた外法師は、脅えて犇めく首なしを掻い潜って擂り鉢の縁に走り込むと、軽々散歩を受け止めた。

「首は鬼、心は人。では、人の首は?」

 深い瞳が外法師に問う。

「……首といったら」

 思い当たる節があるのか、首無しの集団を抜け散歩を地面に降ろしながら、外法師が落花の壷に視線を向けた。

「切られる首は、赤い花」

 外法師の応えに頷き、散歩はひときりに顔を向けた。

 その視野の中で次々に上がる純白の爆炎。煉獄の飢餓、灼熱の渇きを押し込んだ紅蓮の眼光が赤い鬼を睨め付け、散歩を離し身軽になった獣は土塊を跳ね上げて、えぐり取られた地面の向こうまで一気に跳躍した。

 次々発光する刺青が、軌跡を宙に描く。

「うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」

 爆風に翻弄されつつも赤い鬼が笑うと、崩れかけの掌に燃えた黒い光が弾かれたように前方に飛び出し、高速で分裂して、襲いかからんとするひときりに食い付いた。

「あはははははははははははははは!」

 群がる黒い固まりを払いのけようと振ったひときりの腕に纏わりついた光が、輝きを無くして正体を現す。

 それは、首だった。

 たった一つから別れて幾十にもなったその首は、ざんばらの髪を振り乱し、焦点の定まらない胡乱な目でひときりを見つめ、剥き出しの腕に、肩に、首に、頭にがふりと食らい付き、しぶいた鮮血をべっとりと受けた。

「赤い肉塊になるがいい! …あぁ…あかぁい肌…。まるで我」

『アレ』

「のようにさぞ美しかろう」

 怨嗟の悲鳴を上げながらわらわらとひときりに取り縋り、ぐちゃぐちゃと嫌な音をさせて浅黒い肌を引き千切っては咀嚼する無数の首。それを聞いているのか聞こえていないのか、赤い鬼は半ば溶けた体をぎこちなく動かし、うっとりとした表情で散歩を見つめた。

「嫌じゃ嫌じゃ…。面白く無い事を思い出したわ」

『殿の花鉢が出来ねば、もうこの屋敷には居られぬ』

「赤が出ねば」

『椿の』

「赤が」

 いひひひひひひひひひひひひひひひひひひ!

 しわがれた声が、微妙に違う二人の口調で交互に話し出す。その間も、崩れ落ちるようにうずくまったひときりの身体を、胴体のない首たちが寄ってたかって食い散らかしていた。

「我に」

『アレに』

「出逢うた」

『何物よりも美しい』

「赤い肌」

『その赤が』

「欲しいっ!」

 赤い鬼が頭を抱えて、キーッ! と空気を震わせ叫んだ。

 途端、散歩の背後に置かれた落花の壺がひび割れたような金属音を轟かせ、そわり、と無数の気配を描かれた椿から滲み出させて、見えない食指を伸ばし佇む背中に襲いかかる。

「首が」

『欲しいぃぃぃぃっ!!』

 壺から赤い鬼が出現した時よりも更に濃密で恐ろしい威圧感が、散歩を庇おうと飛び出しかけたこたろの足を竦ませ、呪符を取り出さんと懐に手を突っ込んだ外法師を打ち据える。

「ヒトのモンに手ぇ出すなつってんだろうがぁっ! えぇっ!」

 地面に溜まる首の塊の奥から怒声。同時に、怨嗟の悲鳴が底知れない恐怖と苦痛の絶叫に取って代わる。

 急激に苦しみだして叫び自らひときりを離した首の中から、血に塗れた狗が飛び出す。剥がれた皮の内側深くまで達し原型を留めている赤黒い刺青を幾つも連続して輝かせながら一瞬で元通りの姿に戻り、哄笑する赤い鬼に取り付いたひときりは、獣の瞳孔に怒りの紅蓮を煌めかせ、二本の犬歯を剥き出して鼻面に皺を寄せ唸った。

「鬼を喰うのはこのおれだ! てめぇじゃぁねぇつってんだよ!」

 がぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!

 驚愕の赤い鬼。その眉間に両の親指を食い込ませてひときりの上げた獣の咆哮に、人に害なす全ての怨念、全ての因縁、その場にいる全ての化性が震え上がった。

「されば来よ。我は我なり。我、世に鬼と名を成す」

 間隙を縫って放たれた静謐な声。

 圧倒的な存在感に全身を絡め取られているはずの散歩は両手を胸の前で叩き合わせ、瞼を閉じて頭を垂れた。

 首なしが逃げまどう。

 首だけが悲鳴を上げる。

 外法師は竦んでがたがた震えるこたろを抱きかかえ壺から飛び退き、周囲に渦巻く様々な気がその畏怖に負けて逃げ去っていく。

 散歩の足下、薄青い月光の中にぽっかりと深い蠢く影が突如、ざぁっ、と立ち上がった。

「なれば来たり。我は我なり。我、汝なり」

 覆い被さってくるひときりの腕に長い爪を食い込ませて抵抗する赤い鬼が、恐怖に目を見開き悲鳴の形に口を開ける。

 黒い、ただただ漆黒の影。独りでに立ち上がったそれが気を失ったかのように後ろに倒れる散歩の鳩尾を貫き、痩せた身体を中空に縫い止めて、ひっそりと微笑んだ。

 白と黒。裏と表。陰と陽。

 胡乱な瞳を見開いてぐったりと手足を投げだした散歩を突き刺す影は、彼と全く同じ顔をした、髪も肌も瞳も身につけた薄衣も漆黒の、五指に蓄えた醜い鈎爪と薄い唇だけが深紅に輝く、三本角の鬼だった。猛禽類の鋭い爪と似た赤い鬼の物とは全く異なる、捻れた枯れ枝のような黒炭色の角。それが頭部両脇と、額の真ん中から突きだしている。

 黒曜石で造り上げた芸術品のごとく愁いた表情で、黒鬼が美しい片腕を伸ばした。空に向けて掌を開き、見えない何かの元凶であるらしい落花の壺を見つめてふと口元を歪め、先の細った指をゆっくりと閉じ、握り込む。

 びちっ! と、落花の壺が悲鳴を上げた。

 ぎゃぁぁぁぁぁ! 

 音声ではない絶叫が上空で唸り、壺の表面に描かれた椿の花が一瞬膨張して引っ張り出されたように見える。が、実際変わったところはない。

 腕をたぐり寄せながら、俯いた黒鬼が肩に流れる濡れた艶の髪を微かに震わせ、喉の奥で笑いを噛み殺した。

         

 クスクスクスクスクスクス。

      

 美しい面に深紅の半月。黒鬼はさも可笑しげに純白の瞳孔でひときりを捉えたまま、掴んだ腕を威嚇してくる獣に向かって軽く振った。

 振り抜いて、指を開く。

 途端、仰け反って地面に膝を突き呻く赤い鬼の額にぎりぎりと親指を押し込んでいたひときりの全身が、ザワッ! と総毛立った。

 それに知らず、意識せず、震えの来るような狂った笑いが身体の奥底から沸き上がる。

「ハッ! はっ……はっはっはっはっはっはっはっはハッッ!!!!」

 ひときりは両手で押さえ込んだ赤い鬼から目を逸らさず、完全に常軌を逸した紅蓮の瞳を見開いて、高らかに笑った。

 刹那、もがく赤い鬼の頭蓋を握りつぶそうとしているひときりの両腕に、鋭い鎌か爪を躊躇いなく食い込ませ切り裂いたような引っ掻き傷が幾筋も浮かび、鮮血を撒き散らす。しかしひときりは痛みさえも感じていないのだろうか、赤い鬼に覆い被さり身体を二つに折り曲げてげたげた笑うばかり。

「なんだ、おい。てめぇ、なんだ? その情けねぇ姿はさ。首ばかりピンピンしてやがるが、肝心の身体がねぇと来てる。そんな、切り貼りした鬼の残骸なんかで、このおれさまを負かそうなんて、本気で考えてやがったのか? えぇ!」

     

 ハッはっはっはっはーーーーーーーっ!

    

   
 ■ 前に戻る   ■ 次へ進む