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    月に吼える    
       
(2)ヴァルハラ

       

 イジュマル=オラスの町は、どこか湿った、陰鬱な空気に閉じ込められていた。

 高原地帯から草原地帯に抜ける街道の宿場町。本来ならばこういう場所は、両方の地帯を通り抜けて行き来する商隊が頻繁に出入りしたり旅人が逗留したりと、もっと賑やかなはずなのだが、町をぐるりと取り囲む魔族除けの魔法障壁を通り抜けて大通りに踏み込んでも、近辺の街道と同じで旅人の姿はまばらだった。

 町全体に漂っているのは、不穏な空気というより憔悴した気配だろうか。

 通りを歩きながらつらつらと周囲を探り、今日の目的地である黒い瓦屋根の屋敷に辿り付いて、安堵というより疲れた溜め息をひとつ吐く。

「こっから二十キロばかり向こうの街道沿いにナコン湖ってぇ湖があって、そこに「メドーサ」が棲み付いちまったモンだから、みんな危険を避けて迂回路を通ってるのさ。おかげで町もこの通り寂しくなっちまったし、「メードサ」の取り巻き連中もそっちこっちに出たりでよ、とんだ住み心地の悪ぃ場所になったもんだ」

 件(くだん)の黒瓦、ハンガー・ギルドで受付を済ませた女、クロウ・クライ=ファングが、町の規模に比べてギルドに詰めているハンガーの少ないのをギルド・マスターに問いかけると、卵型のハゲ頭をテカらせたマスターが、顔を顰めて溜め息みたいにそう教えてくれた。

「討伐依頼は出てないの?」

 少々ぶっきらぼうに言いつつカウンターに片肘を預けて身を凭せかけたクロウが、閑散と言ってもいいようなロビー内を見回す。

「もちろん出てるさ。でもな、相手は中位上級魔族だろう? ちょっとやそっとのハンガーじゃ、取り巻きにさえ勝てねぇだろうって事でよ、今日までは依頼保留になってたもんさ」

 今日まで、というギルド・マスターのセリフとにやにや笑いに、大袈裟に肩を竦めて溜め息を吐いたクロウが、あっそう、と素っ気無く答える。

「期待してるぜ、「女神」さんよ」

 付け足されたセリフ。クロウはさも不愉快そうに眉を寄せた。

 不機嫌な表情さえもわざと作らせて見たくなる、怜悧な顔立ちの女。誰かが彼女を「絶世の美女ではないが、どの時代のどの国でも美しいと評するだろう美貌」だと言っていたが、まったくもってその通りだ、とギルド・マスターは今日も思った。

 クロウ・クライ=ファングは、魔族狩りを生業にするハンガーであり、片親を魔族に持つ「シャッフル」だと言われていた。ほっそりとして背が高く、鈍い真紅の光を纏った橙色の長い髪と深い琥珀色の瞳を持つ、「荒ぶる女神」と仇名される美女。雪のように白い肌と口角の引き締まったラズベリー色の唇と、小鼻の小さい整った鼻梁。スタイルが抜群に良く、それで超が三つも付きそうな凄腕ハンガーなのだから、ギルドを預かるマスターたちが彼女を知らない訳がない。

 しかも、彼女がここを訪れるのはもう七度目になる。

「やめてよ。いくらあたしだって、ひとりで「メドーサ」の相手なんか出来ないわ」

 身を乗り出して来るギルド・マスターから顔を背けてクロウが言い捨てた途端、物凄い勢いでギルドのドアが開け放たれた。

「ひとりでほいほい行っちまうなんてひでぇじゃんかよ、クロウ」

「それ以上何か言ったら刺すわよ…シルリィ」

 飛び込んで来た若者が二の句を続ける隙なく、クロウ即答。

「………」

 冷たくあしらわれて笑顔を凍り付かせた青年を、ギルド・マスターが呆気に取られて見上げる。

 青年は、背の高いクロウより頭ひとつは長身だった。手足も身体もひょろついた痩せっぽちで、取ってつけたようにボリューム満点のくしゃくしゃ癖っ毛に新品の胴鎧。こちらも真新しい篭手と脛当てを装備しており、背中には鞘までぴかぴかの大剣を背負っている。

 細長い顔に目尻の下がった茶色のどんぐり眼、細く整えた眉とやや大きめの口、という顔立ちは、若者らしいというか愛嬌があるというか、軽薄、と表現するのが適当かもしれない感じがした。

 明らかな新前ハンガーから冷然と青年を見つめるクロウの横顔に視線だけを流したマスターが、内心首を捻る。殆どの場合クロウは単独で、仕事の都合で誰かが一緒だとしてもこんな無名の新品ハンガーなどではなく…。

「稀代の魔法使い」ウスラス・クラインスか、「道化の」エンディオノ・ブライバンか、「リトル・ウイッチ」エンマーリ・アマリアか、はたまた。

「……。今日の連れは「不死者の王」じゃねぇのかい? クロウ」

「……。あたしには、あの男を連れ回した覚えも、連れ回された覚えもないわよ、マスター。二人揃って振り回された記憶ならいくらでもあるけどね」

 不思議顔のギルド・マスターに呆然と問いかけられて、クロウは素っ気無く答え肩を竦めた。

「不死者の王」ゴルゴン・ギャガ。

 ハンガーを生業にしている者ならば、知らない名前ではないだろう。魔族の父と人間の母を持つ、正真証明のシャッフル。

「だからさ、マスター。その、「不死者の王」ってのは誰なんだよ」

 ところが、である。「不死者の王」と聞いてぎくりと背筋を凍らせ、そわそわと周囲を窺い始めたほかのハンガー連中の緊張などお構い無しに、あの、クロウを追いかけて来た青年が、ちょっと面白くなさそうに唇をひん曲げてマスターに詰め寄ったのだ。

「お前さん、ゴルゴン・ギャガを知らねぇのかい!」

 殆ど悲鳴のように言ってカウンターに乗り出す、マスター。

「知らねぇから訊いてんだろうがよ!」

 売り言葉に買い言葉? でもあるまいが、青年も勢いカウンターに両手を叩きつけ、マスターを怒鳴り返した。

「だから、何度も言ってるでしょう? 大した男じゃないわ。死人みたいに陰気な顔した、ただのハンガーよ」

 シルリィに背を向けたクロウが大仰な溜め息とともにそう吐き出して、さっさとカウンターを離れる。それを慌てて追いかけようとする青年の腕を咄嗟に引っつかんだギルド・マスターは、微妙に複雑そうな苦笑いを訝しげに振り返った青年に向け、空いている方の手を差し出した。

「あんちゃん、受け付けすんならパス出しな」

         

       

 ハンガーたちは、ヴァルハラを闊歩し人間を脅かす魔族を狩り出す。

 人間は、降る暗闇に怯えて肩を寄せ合い、小さなコロニーを作って慎ましやかに生活している。

 干渉しない、邪魔しないから放っておいてくれ、とでもいうように。

 しかし、人間の「御魂」を糧とする魔族たちは、放っておいてなどくれはしないのだ。

 だから、ハンガーたちは魔族を狩る。

 人間の暮らすコロニーを護る。コロニーからコロニーへ移動する人間を護る。人間の生活を脅かす魔族を討伐する…。

 どれにしても、魔族は人間を追い掛け回すし、天族は見てみぬふりをするわ。とクロウは、読み上げられる依頼内容を右から左に聞き流しつつ、小さく溜め息をついた。

 日曜日。日暮れまでにギルド・カウンターにパスを提出し受付を済ませると、同じく日曜までに提出されている依頼を振り分けられて、契約する事が出来る。それが、どの町においてもハンガー・ギルドの決まりで、だからクロウも今週の仕事にあり付くために、こうしてギルドで指名されるのを待っているのだ。

 マスターの言う通りなら「メドーサ」の討伐はこのギルドきっての大仕事になるはずだから、読み上げられるのは最後だろう。

(本当にあたしひとりに行かせるつもりなの? ここのギルドは)

 ちょっと、憂鬱な気持ちになった。

 中位中級までの魔族相手なら、ひとりでもどうにかなるだろう。しかし、中位上級魔族になると、取り巻き、と呼ばれる下級魔族を大勢使役する。数の絶対劣勢を優勢に持ち込むには、自分は弱過ぎると彼女は判断した。

 せめてブライバンでも居れば奥の手が使える。他の大多数にとって彼は普通の…太っているだけの人間にしか見えないが、クロウにしてみれば、あの太っちょは非常に有り難い存在異議を有しているのだから。

(だからってその代わりをこいつに頼めるとは思わないわ、あたしだって)

 クロウの冷たい視線の先には、青年、オロ・シルリィがにこにこ顔で座っていた。

 シルリィとは街道の途中で出会った。移動中のクロウが、聞き付けた悲鳴に引き寄せられて森の奥に入った時、青年は荷馬車を背にして魔族相手に奮闘していたのだ。ところが、その手際の悪いのと危なっかしいのに黙っていられなくなった彼女が助太刀を買って出て、結果、この町まで荷馬車を送って来てしまった。急ぐ旅の途中ではないが、彼女の到着を待つひとが他の村にはいる。もしイジュマル=オラスの街があと数キロ西に逸れていたら、彼女はその場で彼らと別れただろう。

 しかし彼女はシルリィと荷馬車を送ってここまで来てしまったし、…、一目散に目的地を目指す気にもなれず、結局ギルドで仕事を請け負う事にしたのだ。

 ぐずぐずと足踏みしたい理由が、彼女にはあった。

 ようやく町に辿り付き、荷馬車と別れてギルドに入った彼女をシルリィが追いかけてくる形で現在に至るのだが…問題は。

「どうしたんだい? ハニー」

 この青年の、どうにも思い込みの激しい性格にある。

 下級魔族に追い詰められた青年を助けようと飛び出したクロウが鮮やかな手並みで彼と荷馬車を救うと、当然の事ながらどちらも彼女に感謝した。その時シルリィはクロウに、君は命の恩人だとか美しいとか素晴らしいとかなんだとかかんだとか、とにかく、覚えるのもあほらしいようなセリフを吐いたのだが、そんなもの、ハンガーなどという仕事をしていればよくよく遭遇する場面だったから、クロウは完全に聞き流していた。

 青年は言った。

 君は女神だ。救世主だ。おれは君のためなら、命も棄てられる。と。

 つまり。

「愛してるよ、ハニー」

 と、いう訳で。

 うざったくも彼は、クロウにひっついて離れないつもりらしい。

「あたしは愛してないわ、シルリィ」

 うんざりと言い返したクロウの呟きに被って、七つ目の依頼が読み上げられる。

「七番、ナコン湖「メドーサ」討伐」

 ますますうんざりするような宣告に、クロウはがっくりと肩を落とした。

「クロウ・クライ=ファング」

 笑顔のマスターが顔の前で振り回した依頼書を怨めしげに睨みつつ、クロウが肱掛椅子から立ち上がる。「荒ぶる女神」と仇名される彼女を知るハンガーは当然少なくなく、室内に微かなざわめきが沸き起こった。

「筆頭契約方式だぜ、クロウ」

 手渡された依頼書に目を通しながら、クロウが黙って頷く。筆頭契約方式とは、他の誰を同行しても構わないが、その同行者との契約は依頼主ではなくクロウ本人がするものだった。

 依頼主はイジュマル=オラス町長。「メドーサ」の出現で町の経済にも影響が出ているのだろうから、これは別に不思議でもなんでもない。

「メドーサ」は、その姿だけで人間を気死させる能力を持つ厄介な魔族だった。異様な、常識など通用しない奇怪な姿を晒しただけで、人間は常軌を手放す。

 さて、どうするか。と考えを巡らせるクロウの視界に、シルリィの笑顔が割り込む。

「おれも一緒に行くよ、クロウ。君ひとりを危険な目に遇わせる訳には…」

「迷惑よ。これは冗談でも遊びでもないわ」

 クロウは、シルリィの申し出を無碍どころか、冷たく突き放した。

 依頼内容に目を通し、乱暴にサインしてマスターに突っ返す、クロウ。その横顔を唖然と見つめているシルリィを無視して、彼女はギルド備え付けの宿泊施設を申し込もうと顔を上げた。

「ちょっと待てよ、クロウ! 迷惑って…そんな言い方ないじゃねぇかよ!」

「じゃぁ、他にどんな言い方があるの? 悪いけど、駆け出しの面倒見ながら出来る仕事じゃないのよ」

 肩に掴みかかろうとするシルリィの手を払いのけた彼女は、琥珀の瞳に金色の光を煌かせて、青年を睨んだ。

「面倒な足手まといを連れて行くくらいなら、ひとりの方がずっとマシ」

 言い捨てて、再度カウンターに向き直ろうとするクロウ。そのクロウの横顔に愕然とした顔を向ける、シルリィ。重たく沈んだ空気にもギルド・マスターは平然とし、いや、ギルドの誰もが、打ちのめされた青年には見向きもしなかった。

 当然の事だ。「メドーサ」は強力な敵で、クロウは豪腕のハンガーだったが、シルリィは、ひよっこどころか生まれたばかりの赤子のようなものなのだ。

 連れて行けば確実に命を落とす。ならば、連れて行かないために冷たくする。それはあまりにも明白な結果だった。

「部屋をひとつ頼むわ。それから、ラニスニル村のハンガー・ギルドに…」

「あすこにゃギルドはねぇよ、クロウ。一番近いのは、隣りのデメネス=アジル町だぜ」

 告げるマスターの顔を見つめたまま、クロウが短い溜め息を吐く。シルリィに付き合って迂回したのが裏目に出た、と思いつつ、彼女はゆっくりと瞬きした。背後に突っ立っている青年を振り返り、ダメ押しみたいに悪態を吐ければ上等なのだろうが、そこまでクールにはなり切れない。

 だから、依頼遂行までに認められている十日の間に、ラニスニル村に逗留しているアマリアたちを呼び寄せればどうにかなる、とクロウは自分に言い聞かせた。

「………一緒なら、万々歳ね…」

 漏れた呟き。

 腹が立つけれど、頼りになる男は居る。ただし、会いたくない。

 ホロスコープの中の自分はどれいくらい消えかけているのだろうかと、クロウは思った。いっそ、アマリアの言う通り堕ちてしまえば楽なのかもしれないとも。

 しかし、それだけのためにあの男の前に立つのを、彼女は…迷った。

 微かに気持ちがざわつく。ホロスコープには戻らないと告げた。だから、いつか自分は消えるだろうと。処女宮に在るクロウに、下天(げてん)の自由はない。堕ちるか、消えるか。もし、彼女がホロスコープから離れた意思を貫こうとするならば…。

 訊いた。

「そういう風」に必要とされたら、あなたはどうする? と。

 答えは短かった。

       

 なら、消えろ。

       

 それっきり、あの男とは言葉を交わしていない。

「クロウ?」

「え?」

 イヤな事を思い出して気が逸れていたのか、クロウはマスターに何度か呼ばれて、やっと意識を戻した。

「ツインなら、三階の六番が空いてるぜ。結束魔法陣付きだ」

「シングルでいいわよ。魔法陣も必要ないし」

「じゃぁ、二階の…」

 ごそごそと引出しを探り鍵を取り出そうとするマスターの手が、ぎくりと止まる。同様に、ロビーに詰めて依頼内容を確認していたハンガー達の、今日は仕事にあぶれてこのままここで酒盛りに入ろうかという連中の動きも、一瞬で停まる。

 そして、クロウも、動きを止めた。

 微かなドアの軋みが原因であり、始まりだった。

 きぃ、とすすり泣くような金属音に続いて、ガシャン、と重々しい靴音が床を叩く。開け放たれたドアの隙間から滑り込んできた夜気が足下を撫で過ぎ、全てを全て、一瞬で凍りつかせた。

 暗闇。

 裏通りに蟠る闇がぞろりとロビーになだれ込み、分離して、人の形を作り上げる。それは暗闇。人の鋳型に押し込まれた、夜。

 靴音は、金属の軋みと発条(バネ)、皮ベルトの擦れ合うささやかで様々な音を伴ってまっすぐカウンターに進んで来た。知らぬものならば不吉だと思うその音の群れと元凶はしかし、注がれる畏怖と緊張の視線を薄手のマントで跳ね返している。

 漆黒のマント。上位上級魔族「ピュア・ゴート」の皮膜を貼り合わせて作った、強固な鎧。

「結束魔法陣のある部屋は空いているか」

 凍り付いたように佇むクロウの傍らに並び、黒マントの男が掠れた声で囁く。それは芯と厚みのあるいい声だったが、抑揚に乏しく、突き放した印象もあった。

 ぱさり、と放り出されたハンガー・パスに記された名前に視線だけを向けたマスターが、椅子を蹴倒して立ち上がり口をぱくぱくさせる。何か言わなければならないと思ってはいるようだが、声が出ていなかった。

「……相変わらず遅刻癖が酷いわね。今週の受け付けは終わったわよ」

 意を決して呟いたクロウの横顔に、ゆっくりと視線を向ける、男。

「それなら、一週間の休暇でも楽しもう」

 隻眼の。

 死人のような白髪の。

 漆黒のマントの。

 不気味な拘束服に銀製のリベットを撃ち込んだ。

 それでやっと人間の姿を保っている。

 男。

「暇か?」

 訳が判らないとでも言うようにおどおどとクロウの顔色を窺うマスターに視線を戻し、男が呟く。

「そうでもないわ」

 問う男に視線も向けず、クロウはV―六と書かれた鍵をマスターから奪い取った。

「二時間付き合え」

「いいわよ。代わりにあなたが、「メドーサ」討伐に付き合ってくれるならね」

 言ってクロウは、凍り付いたロビーの空気を溶かすように華やかに、美しく、悲痛に、焦がすように、微笑んだ。

「ゴルゴン・ギャガ」

  

   
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