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    月に吼える    
       
(13)八つ首の魔物

            

 目に見える全てが恐怖という静寂に包まれて、風さえ停まったナコンの湖畔。淡く水色に光る巨大な鱗を鎧った異様は、おぞましくもあり、神々しくもある。

 それは。

 ヴァルハラ創造の失敗を咎められてゲヘナに堕とされた「中宮(ちゅうぐう)」の持ち物であったという。

 八つ首の魔物。

 言霊を駆使しヴァルハラの理を定め、女神を指名する「北宮」。天子を生み出してゲヘナの侵攻を遮り、ホロスコープの機能を維持する「南宮」。その南と北の頂点に据わっていた「中宮」は、あの魔物を抑え、ヴァルハラにおいてホロスコープの権威を護る伝説を現す役割を担っていた。

 彼らは神と呼ばれた。

 しかし彼らは恐れてもいた。

 この、八つの首を持つ、強大な魔物を。

 ゲヘナの侵攻がヴァルハラ経由で行われるに至った時、南宮はヴァルハラの存在自体がホロスコープを脅かしているのだと主張し、ヴァルハラ創造主であり伝説の創造主でもある中宮を糾弾した。

 ゲヘナの滲出に荒れるヴァルハラを放置してホロスコープで諍いが勃発したのも、結果、中宮がゲヘナに堕とされる折「追随する夜空の女神」…つまりは月…とあの魔物を持って逃げたのも、今にしてみれば、全て好戦的な南宮のホロスコープ下克上が原因であったと、歴史書は語った。

 その、御魂となった八つ首の魔物がなぜヴァルハラに転生したのか、全てを見つめるものである完全世界儀にも判らないという。

 ただそれは間違いなくゴルゴン・ギャガというシャッフルの身の内に潜み、今、こうしてヴァルハラに姿を現してしまった。

 言葉もなく、平伏しそうになる全身を叱咤してその異様を見上げるクラインスと、絶望的に暗く曇った琥珀の瞳を向ける、クロウ。この魔物を目にするのは数度目になるが、なぜこの…ヴァルハラにもホロスコープにもゲヘナにさえも仇成す存在は、こうも痛ましいほどに苦しんでいるのか、とふたりは思った。

 それは苦しんでいる。

 声を上げられない事に。

 目で見られない事に。

 怒り狂っている。

 悶え苦しんでいる。

 全てを全て憎んでいる。

 全てが全て憎んでいるから。

 哀しんでいる。

 一体どれほどの長さがあるのか、ソレ、は樹齢数千年の大木以上に太く、淡い水色と虹色にちらちらと輝く青銀色の胴体を幾重にも折り重ねてナコンの湖上空に留まっていた。まだ覚醒したばかりで、いわば寝ぼけているのか、時折、ずるりっずるりっ、と胴体を擦り合わせて身じろぐが、絡み合った体躯の更に上に立ち上がる八つの首は活発に活動してはいない。しかし、活発でないにせよ目覚めてしまったのに変わりはないのだから、八つの首は……。

 耳を、素肌を突き刺すような静寂を引き裂いて、ヴン、と風が唸った。距離が遠いのか、それとも自分の耳が音を拒否しているのか、全ての感覚が麻痺しているのか、聞えるはずの咆哮や鱗の軋みさえ感じられない事に、クロウが戸惑う。

 知らず、指先が真っ白になるほど握り締めていた手を胸に掻き抱き、クロウは天を見上げていた。微かな星明りにさえ光り輝く青銀色の鱗はただ美しく、孤独で、哀しい色でもあった。

 だから、受け入れなければならない。

 これ、は、間違いなくこの世に存在している。

 だから、拒否しては行けない。

 これ、は、まだ抗っている。

 これは。

 意識が正常にそれを認めた瞬間、全てが恐怖に震え上がった。

 咆哮。星空に叩き付けるような、地鳴りを伴う雄叫び。絡み合った胴体の細ったお終いが苛立つように振り回されると、撹拌された大気が荒れ狂う零下の旋風となって、ナコンの湖畔のみならず人通りの絶えた街道を駆け抜けて、草原地帯の一部までもを蹂躙した。

 吹き荒れる、という生易しい状態ではなく、叩き付け掬い上げまた急落し螺旋を描く凍った大気に翻弄されても尚クロウがその場に座り込んだだけで済んだのは、咄嗟に防御障壁を魔法で練ったクラインスの機転か。意識し、在ると認識し、恐怖に竦み絶望した瞬間がこの八つ首の魔物の「刻(とき)の始まり」であり、その刻が始まらなければ、魔物をギャガにも戻せないのだ。

 確信的にクロウが八つ首の魔物を認め恐れると思ってさえいれば、魔法障壁の準備など容易い。地面に身を低くし一方的な冷気の攻撃が止むのを待ちながら、クラインスは微かに口の端を引き上げた。

「目覚めているのはどれだ…」

 極力唇を動かさず呟く。いかに障壁があろうとも、間違ってこの冷気を大量に吸い込んでしまったら、肺が凍り付いてもおかしくない。

 証拠に、湖の水が膨張し一部で険しく突き上がってべきべきと悲鳴を上げている。立ち枯れの樹木は全て霜に閉じられ、泥は躍動する姿もそのままに岩より固くなっていた。

「沈黙は…まだか」

 呆然とするクロウの肩を抱いたまま、クラインスが八つの首を睨む。最初に目覚めて咆哮したのは多分「激怒」なのだろう、その首はいつでも比較的早く目覚めるものだったし、何より、その束縛が緩い。

 固い岩と岩とが擦れ合うような軋んだ大音響に、くぐもった別の咆哮が被った。

 先に目覚めて暴れ出したのは、「激怒の首」。縺れ合うようにして一本の胴体から生える八つの首はそれぞれ拘束されていたが、この「激怒」を縛る戒めは、他のどれよりも緩いのだ。

 それでも、直視に耐えがたい。

「激怒」が悶える。捲れ上がった鱗の間隙に打ち込まれた数十本もの鉄杭と、その鉄杭にしっかり括りつけられた荒縄にがんじがらめにされ、自由に動きの取れない首が怒り狂い咆哮するたび、口を押さえ付けた荒縄が引き攣れ、どこかの鉄杭が皮膚と鱗を引き裂いて深い溝をその身に穿った。

 それで拘束が緩いのだから、他の七つはどうなっているのか。

 微かな苛立ちを滲ませて呟くクラインスの声も掻き消されるような新たな声に、クロウがぎくりと全身を震わせる。

 次にごそりと身じろいだのは、咆哮ではなく呻くような軋んだ唸りを発するひとつだった。

 苛々と不自由な首を振り回し、剥がれ落ちる鱗の残骸と漆黒の体液を撒き散らす「激怒」に体当りを食って目覚めたのは、「怨嗟の首」。頭部に太い鉄条網を巻きつけられ、片目に突き刺された野太い銛が顎を貫通して口を縫い付けているために、唸ることは出来ても吼える術を持たない首。その首が激しく上下に振れると、巻き付いていた鉄条網が耳を劈く悲鳴をそこら中に撒き散らし、一緒に、こそげ落ちた鱗の残骸と抉り出された肉片が地面に降り注いだ。

 べちゃん! とイヤな音を伴って淡いピンク色の肉が凍った湖畔の下草に叩き付けられるなり、その周囲から猛烈な勢いで白煙が上がる。「激怒」が齎す零下に反して、「怨嗟」の齎すのは一瞬で全てを蒸発させる高温なのだ。

「沈黙は、まだなのか!」

 押し殺すようなクラインスの呟き。立ち昇る白煙を胡乱な琥珀で見遣り、それから、湖畔で凍り付いていた「メドーサ」の身体が急激に熱せられ細胞ごとぐずぐずと溶け崩れて行くのに視線を移したクロウが、ふらりと立ち上がる。

「クロ……ウ?」

 慌てて彼女を引き止めようとしたクラインスの手を、クロウはそっと押し戻した。

 微笑んで。

 ゆったりと。

 華やかに。

 傷つき泥にまみれたまま、淡い水色と虹色にちかちか輝く青銀色の魔物を、その、鉄杭と荒縄に巻き付かれた、鉄条網と銛で刺し貫かれた、封印を書き込んだ血塗れの布で結ばれた、何百という剣を受け針山のようになった、潰れた両眼から暗黒のような鮮血を垂れ流し続ける、荒縄で両眼と口を縫い付けられた、内側に刺のある鉄製の籠を被せられ片方の目を抉り出された、そして、真白い麻布で根元から頭頂部までを包まれその上から鉄条網で螺旋に巻かれた、八つの首を従えて、「女神」は微笑んだのだ。

「沈黙は、いつでも目覚めてるわ」

 呟いてクロウは、荒れ狂う八つ首の魔物に向き直った。

 なぜそう思ったのか。いいや、思いたかっただけかもしれないが。暴風のように渦巻き叩き付けてくる冷気、熱気、咆哮と激震。身悶える体躯が引き裂く夜気はその中にあっても深々(しんしん)とし、だから、思う。

 どんな姿になっても、その「ひと」の心は誰より強い。

 沈黙が吹き荒れる絶望の中でも沈黙を守り続けるように、その人もまた自らの下す絶望に一縷の望みを求めている。

 望みを。答えを。探している。

           

 なぜ、俺はヴァルハラに生まれたのか。全てを食い潰すためか。全てを腐敗させるためか。全てをなかった事にするためか。全てを憎むためか。全てを燃やし尽くすためか。全てを凍らせるためか。全てを破壊するためか。今あるヴァルハラを無に帰しやり直すためか。

 ではなぜ俺に、抗う自由があるのか。

          

 探している。自分を恐れているから、戦おうとしている。

 瞼と口を荒縄で縫い付けられた首がその拘束を引き千切って天を突くように立ち上がった。剥がれ落ち捲れ上がった鱗の破片を放射状に散らかして、暗黒の血に塗れた紅色の双眸をカッと見開き、星の瞬くホロスコープを睨み据えて吼える。

 吼える。揺さぶる。大気を大地を。絡み付いた胴体がずるずると解け始める。最早、凍り付き刹那で灼熱したナコンの湖は干上がり、立ち枯れの木立は根元だけを遺して消滅していた。

 どこへ行こうというのか。

 この、狂った魔物は。

 クロウは一度だけ荒れ果てた湖畔を見渡してから、ベルトに差し込んでいた銀色の自動拳銃を抜いた。

 大気を無秩序に翻弄する七つの首。めちゃくちゃに暴れて咆哮を繰り返す中、あの、麻布で縛られた首だけがじっと動かずにクロウを「見ている」。

 彼女は手にした拳銃に視線を据えたまま、ふと口元を綻ばせた。

 自分を卑怯だと思う。「女神」など、今すぐ辞めてしまえればいいのにとも思う。

「でも、ダメよ。だって……」

 口の中で小さく呟いて、笑みを消さないまま、琥珀の瞳から注がれる視線が「沈黙」に移る。何か言いたげに戸惑った唇は結局何も言わず、問わず、戸惑わない指先だけが引き金に掛り、撃鉄を上げる。

 魔法障壁の効果が切れかかっているのか、晒した素肌をちりちりとした熱が這う。

 だからクロウは白銀の銃口をゆっくりと持ち上げ、その空洞を…自分のこめかみに押し当てた。

         

「お前のハートは、どこにある?」

          

 濡れた口唇から囁きと笑みが零れた。

 刹那、八つ首の魔物、空中に漂う大蛇が、凍え、燃え、突風に蹂躙されて荒れ果てた大地に向け急落した。

 地響きを上げて地面に叩き付けられた大蛇の胴体が、土塊を跳ね上げてのたうち身悶える。激しく八つの首を振り回し大地に叩き付けるその姿は、まるで何か、身の内で暴れる「何か」に柔らかい内臓を食い千切られ、悶絶しているかのようにも見えた。

 手があったなら喉を掻き毟らんばかりに喘ぎ、転げ回る大蛇。どの首も激しく痙攣し口から血の混じった泡を吐いていた。

 いや、違う。と自分のこめかみに銃口を押し付けたまま、クロウは静かに見守る。痛ましいほど苦しみ抜いている七つの首に巻き込まれてはいるものの、沈黙だけは苦しんでいるように見えなかった。

 そう彼女が思った途端、激怒が大きく首を振り上げ、その身に絡む鉄条網で沈黙の首を打ち据えた。限界寸前のボクサーが対戦相手に見舞う弱々しいパンチのように頼りないながら、そこには抵抗する意志が込められている。

 何がどうなっているのか、胴体は微かに痙攣しているばかりでのたうつ事さえ出来なくなったが、八つの首はなぜか、それぞれがそれぞれに巻き付き、締め上げ、ぶつかり合い、お互いを潰そうとしているかのように見えた。

 まるで、人知れず心の内で繰り広げられるべき葛藤を見せ付けるように。

        

「負けるな、絶対に。消えるな、人よ。幾重にも折り重なる暗黒に飲まれるな。それが出来なければお前は、その時、本物の厄災になるだろう」

             

「ギャガ」

 青ざめて震えるクロウの唇が囁いた瞬間、沈黙の首が他の七つを薙ぎ払い、他の七つを抑え付け、他の七つを睥睨して、啼いた。

 自由の利かない我が身を呪うように。

 天を突く雷鳴のごとき声に呼応してなのか、青銀色のオーロラが天空に半透明なカーテンを引いた。と、暗闇に淡く発光する大蛇の身体から光さえ届かない漆黒が絵筆で掃いたかのように放たれ、無音の悲鳴を上げて霧散する。

 それを、クロウは黙って見続けた。

 見届けた。

 漆黒が青銀色を覆い隠し、締め上げるように収束していつしか小さな結晶になり、空を埋め尽くすオーロラさえもその漆黒に吸い込まれて消えるまで、彼女は目を逸らさなかった。

 もしそれが「苦痛」であったとしたら。

 解放されて束縛されず、ホロスコープにもヴァルハラにもゲヘナにも属さず気侭に「世界」を食い潰すのが至上であったとしたら。

 痛々しいまでに拘束されたあの姿が、枷だらけのこころの現れであったとしたら。

 全てを全て無理矢理ひとの鋳型に押し込め、果てない苦行を強いているのはクロウではないのか。

           

 だから言えない。これ以上、どうしろと言える? 魔物の御魂を薄っぺらな自我で必死に抑えているあの夜に、何をして欲しいと言えるの。

 怒りさえ無視し、哀しみさえ感じていないと信じ、後悔など取るに足らないとなかった事にして、理不尽な周りの言い分にも不満さえ漏らさないあの…夜は。

 たった一度の溜め息が、あたしの中の何かを変えた。

 たった一度。

 たった一言。

「手袋を外して何かに触った記憶はない」

 固さも、柔らかさも、暖かさも、冷たさも…。全て厚い革越し。その向こう。そこにあるのに、手触りだけが判らない。

 そんなひとに、どうして言える?

 今更。

          

 いっときだけその拘束を棄ててわたしを抱き締め、嘘でいいから、慰めるように優しい言葉を囁いて。それだけでわたしは、ホロスコープを棄てゲヘナに堕ちても、構わない。

         

 収束して渦を巻く漆黒が、徐々に高度を下げ始める。ナコン湖を中心に荒れ狂っていた冷気と熱気の暴風は、まるであのオーロラに拭われたようにすっかりと晴れていた。

 頭上に瞬くのは、満天の星々。ヴァルハラの荒熱を冷ます夜気は粛々と漂い、こめかみに銃口を押し付けたまま動かないクロウの全身を凍えさせた。

 寒さに、震える。

 畏れに、震える。

 いつしか暗やみに飲まれて視界から消えた漆黒に変わって、干上がった湖の一点に淡く浮ぶ白髪。一度は立ち上がり、すぐその場に頽れた朧な人影を見つめるクロウの肩先を躱して、クラインスが駆けて行く。

 クロウはずっと動かずにいた。

 動かずに、自分に突きつけた銃口を下ろしもせず、ゆっくり瞼を閉じる。

 引き金を引きたい衝動が消えるまで、彼女はずっと佇んでいた。

                

   
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