■ 前に戻る   ■ 次へ進む

      
   
    月に吼える    
       
(14)ヴァルハラ・リポート<イジュマル=オラス>

            

 <歴史書>

         

       

「こりゃぁまたエラい事してくれたモンだ」

 と、原型を留めないほど荒れ果てたナコン湖畔に立ち、その少女は荒っぽい口調で呆れたように唸った。

「ここまでやったのに事なきを得たんだ、それなりの成果は上がっただろう」

「だからアンタ、女神に嫌われんだよ?」

 平静を装って淡々と紡がれたセリフを遮った少女が、傍らに立つガンメタ色のコートを羽織った男…クラインスを睨むように見上げる。

「リトル………」

「なんだい、魔法使い」

 努力も空しく一番言われたくない部分にずばりと斬り込まれたクラインスが、がっくりと肩を落として溜め息を吐く。しかし、そんな大の男の落胆を誘った当の本人は、藤色のストレートヘアを盛大にかきあげ、その愛らしい顔には到底不釣合いな細葉巻(シガリロ)をわざとのように吹かした。

 リトル、と呼びかけられた少女は、「リトル・ウイッチ」エンマーリ・アマリア。クロウやギャガと行動を伴にするハンガーで、腰まで長いストレートヘアは白銀の光沢を纏う藤色、ビスクドールのごとき白く透明感のある小作りな顔には、長い睫で縁取られたひまわり色の大きな瞳、ふっくらとした桜色の唇、小さくて形のよい鼻が絶妙のバランスで配置され、今日は山吹色のワンピースにオフホワイトのフード付きフレアコート、という衣装と相俟って、どこからどう見ても完璧な美少女振りだった。

「煙草はやめたんじゃないのか? ブライバンに注意されて」

「昨日の夜マオが血相変えて宿に飛び込んで来るまでは、禁煙に成功してたさ。どこぞの御方が福音文様なんぞそこいらのガキに渡して大蛇と女神にちょっかい出さなきゃ、今度こそやめられてたかもしれないね」

 噛み千切ってしまいそうなほど葉巻に歯を立てたアマリアに、いかにも恨みがましくじろりと睨まれて、クラインスは今度こそ本気で肩を竦め少女から視線を逸らした。

 少女は、一日しか禁煙に成功しなかった事がどうこうというよりも、この荒れ果てたナコンの湖について何か言い咎めたい事があるような顔つきで、身体ごとクラインスに向き直った。清楚な衣装に愛らしい顔。しかしこの「リトル・ウイッチ」という二つ名を頂くハンガーは、その実、齢二百歳を遥かに超えた魔女なのだ。

「とっくと考えたんだけどね、「魔法使い」」

 ずいっと詰め寄ったアマリアにわざと「魔法使い」と呼ばれたクラインスが、後退りながら思わず苦笑を漏らす。

「確かにこいつをやったのはあの大蛇かもしれないが、こうなる状況を作ったのは…」

「「メドーサ」がギャガを振り回してリベットを振るい落としたせいじゃないのか?」

 引きつった笑顔のまま言ってのけたクラインスの鼻先に、いきなり細葉巻がつき付けられた。

「バカは休み休み言いな、「魔法使い」。マオの口ぶりじゃアンタ、「ギャガ」が吹っ飛ぶかもしれないって、最初から知ってたようだったけどね」

 顔の前に翳された葉巻を手の甲で払い退けたクラインスの唇を割って、諦めたような溜め息が滑り出す。

「まさかあの青年が「メドーサ」に成るとまでは予想していなかった。…おかげで、ギャガが「変化」するまでの時間が極端に短くなり、結果的に、こうなっただけだ」

 だからそういう態度がクロウに嫌われるんだよばか。とアマリアは内心思ったが、あえてそれを口に出すのはやめた。どうせ、判っていてそう立ち回っているのだ、何度もしつこく言う必要はないだろうし、言ったところで何が変わる訳でもないだろう。

 クラインス……は、例え今以上にクロウに憎まれようとも、ギャガに敵視されようとも、誰に恨まれようとも、絶対にこの計画から手を引かない。

 ギャガがそうであるように。クロウがそうであるように。マオとアマリアとラティエがそうであるように。ウスラス・クラインスもまた「そう」なのだ。

 誰もが全く別の思惑で行動する。騙し合い。しかしその行き付く先は、みな同じであるはずと思いたい。とアマリアは内心だけで嘆息する。

 まだ何か言いたげに見上げて来るアマリアに微かな笑顔を見せたクラインスが、こほん、とわざとらしく咳払いしてから荒れ果てたナコン湖畔に視線を向ける。使い魔であるマオに周囲の被害状況を見回らせたところ、一旦は凍土となり刹那で沸騰した大地は湖の亡骸を中心に約四キロ。その円内では殆どの植物が枯れ果てて燃え尽き、殆どの動物が息絶え、地中の微生物さえ生き残ってはいなかった。

 称するならここは、灰色の絶望に塗り潰されたのか。万にひとつの僥倖があるとするならば、絶望は灰色であったが、闇ではなかった事だろう。

「百歩譲って、今回のオレの行いは暴挙だったと認めよう。だから、それなりの償いをするつもりはある。だがな、リトル」

 低い耳障りのいい呟きに混ざる微かな笑いに、くわえ煙草のアマリアが小首を傾げる。

「ギャガの変化は、極端に、というよりも、劇的に速かった。それを、お前どう思う?」

 元は汀であったのだろう、干からびた波紋の痕に目を向けたクラインスの薄い唇に、複雑で意味の深い笑み。注がれる視線の先に穿たれた大穴は、最早「核」さえ凍り付き沸騰し消滅した、憐れな「メドーサ」…オロ・シルリィの墓穴だった。

「来よ。詠え。さ迷う楽園の御魂を輪廻に導け、天子の御魂」

 男とは思えない繊手を翳したクラインスが透明な声で呟くと、その掌の下に陽光を固めたような眩い燐光が幾つも幾つも瞬き、くすくすと笑いながら舞い散って……。

 蒼穹に見守られた灰色の大地から立ち昇る透明で濃密な「気」の固まりに纏わりついては、可憐な声で詠った。

         

 あやゆえあやいあやゆえあやいおん。

          

 ぱん。

 張った掌を打ち鳴らすような甲高い破裂音を伴って、燐光と透明な空気の塊が消える。

「どうって…そうさね。「あなた様」がここいらの御魂に行き先を示すよりかは、意外じゃないね」

 呆れたともなんともつかない口元を細葉巻で隠したアマリアを横目で見遣り、クラインスが華やかに笑う。

「そうだ。少しも意外なんかじゃない。あれはつまり…」

 そこで一旦言葉を切ったクラインスが、ふと晴れ渡った空を見上げて言い直した。

「ギャガはつまり、クロウをいいようにされそうになって、ひどくお怒りだったんだろう?」

 一瞬で「メドーサ」など消し去ってしまいたいほどに。

 一瞬で御方など握り潰してしまいたいほどに。

「そう言えないから、あの大蛇が出たんだよ」

 喉の奥で人悪くくつくつ笑う背中に、アマリアは今度こそ呆れた問いをぶつけた。

「で? アンタはどうだったのさ。…御方様を機関銃で跡形もなくぶっ飛ばした感想はさ」

「清々しい気持ちだ」

 言ってくるりと百八十度旋回したクラインスは、いつものような物憂い二枚目ヅラに戻り、面倒そうな口調でこう言い足した。

「このくらいのサービス出来る程度にはな」

 ぱちん! と高らかに鳴らされた指。その残響が天空から吹き降ろしてきた涼やかな風に掻き消された時には既に、抉り出されてすっかり地形の変わってしまった湖畔を柔らかな若草色の苔が覆い、立ち枯れ燃え尽きた樹木、倒れた低木、色を無くした短い下草にはまばらながら瑞々しく力強い若芽が顔を出し、ひび割れた湖底から透明で清浄な水が滾々と湧き出し始めていた。

 無くした「命」は元に戻せないけれど、せめて、新しい命を。

「……なんだい、憎まれ口ばかり叩きやがって…。結構いいトコあんじゃないか、……」

 薄笑みのアマリアが続く言葉を言葉にする前に、クラインスが軽く手を振って彼女を制する。

「やめてくれ、リトル。オレは「悪役」なんだからな」

 その時までは。と、クラインスは言わなかった。

                

   
 ■ 前に戻る   ■ 次へ進む